フリップフラッパーズ第3話感想 第五夜。夢で満ちてしまえ、あなたのハート。

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――変身!!

(主観的)あらすじ

 ココナとはぐれて行き倒れたパピカは、仮面の村人たちに救われ、砂漠の中の小さな村で目を覚ましました。今度のピュアイリュージョンは砂漠です。
 わずかな地下水を分けあって慎ましやかに生きる村を、屈強な仮面アウトローたちが略奪します。仮面アウトローたちのボスはココナの服を着た謎の仮面少女。恩ある村を救うため、なにより大好きなココナを助けだすため、パピカは仮面少女に戦いを挑みます。戦いのさなか、仮面少女にココナのニオイを嗅ぎ取ったパピカが仮面を割ってみると、果たして仮面少女の正体はココナ本人でした。
 パピカとココナが戦うように糸を引いていた黒幕が姿を現します。黒幕はココナを空っぽだと蔑み、役割をあげると誘惑しますが、ココナは拒絶します。ココナはパピカと一緒に変身することを選び、黒幕を打ち倒します。
 そしてパピカたちはこの日ひとつの邂逅を果たします。敵対する謎の組織、その先兵・ヤヤカ。ココナの幼馴染みであるヤヤカはピュアイリュージョンで赤い欠片を回収しているようでした。

 北斗の拳、ドラゴンボール、プリキュア・・・パロディせわしない今夜の夢は第五夜。天探女のイタズラに騙され、恋人との最期の逢瀬を踏みにじられた憎しみの夢。
 少女鉄仮面伝説やら戦隊ヒーローやら君の名は。やら、細かいところまで元ネタを探しはじめたらニチアサのヘボット!並みにきりがなさそうなのでほどほどにしておきます。パルペーション、トマソン、アモルファス、ウェルウィッチア、アスクレーピオス・・・一生使う機会がなさそうな単語たちと知り合うだけで私はすでにお腹いっぱい。劇中で呼ばれもしないキャラクター名をわざわざ設定してスタッフロールに垂れ流すとか、つくづくこのアニメのスタッフはイイ趣味してます。
 ベースがド王道のボーイミーツガールで、その枠組みを堅持してくれるからこそ許容できる荒唐無稽な幻想、狂気、パロディ。こういうシラフではっちゃけた物語づくり、私は大好きです。

仮面

 「あ、起きた!」「おーい、言葉わかるか?」「折れっかなぁ」 仮面は匿名性をつくりだします。匿名性を担保されると人はどうなるかといえば・・・ネットを見ればわかるとおり、大多数の人は案外どうにも変わらないんですよね。それぞれ思い思いに生きるだけ。各々好き勝手に喋るだけ。それでいて恐いものは恐い。匿名性って意外と他人の敵意からは守ってくれないんですよね。
 「地下水をみんなで少しずつ分けあってるの」 だから、思いやり、譲りあいといった調整機能は匿名であってもちゃんと働きます。自分が居心地よく暮らすためなら、人はいくらでも優しくなれます。

 「ちっ、シケた村だぜ!」「水と食い物あるだけ出しな!」「うっせえジジイ死ね!」 ・・・まあ、なかには匿名性を担保されたとたんはっちゃけちゃう人たちもいますけどね。
 「その仮面はね、本来持っている思いを増幅させるだけなの」 どうしてそうなっちゃうのかの解釈はあなたにお任せします。この話をするのってちょっとメンドクサイですから。
 仮面に酔った彼らは、パピカのように匿名性を乱す者を激しく嫌います。「何モンだコラァ!」「どこのパピカだ!」「ふざけた名前しやがって!」
 それでいてココナに対してそうであったように、名のある者に敬服もします。「ココナ先生!」「かわいいじゃねえか!」「先生を放しやがれー!」
 今回の黒幕・ウェルウィッチアはそういった仮面アウトローたちの習性を上手く利用して君臨していたようですね。暴徒たちといいハーレムといい、仮面アウトロー集団の中心に匿名でない特別なひとりが君臨するというのは示唆に富んでいて面白い構図です。

 まあそんな話はパピカとココナの物語に直接は関係しないのですが。
 だってふたりはお互いに特別なひとりを求めているのですから。匿名性の世界に埋没したって、それはただふたりが合流しにくくなるだけ。ふたりの望むところではありません。

 村人たちが大切に分けあうように、アウトローたちが貪るように、享楽のハーレムが濡れそぼつように、今回の物語において水は幸福の象徴です。分けあうもの、貪るもの、浸るもの、一言に幸福といっても、そのありかたは様々です。後ろにいくほど退廃的な楽しみ方になってしまうのは致し方なし。
 それなのに後ろにいくほど乾きが満たされないのもまた然り。「だって退屈だったんだもん。お姉ちゃんたちに遊んでほしかったんだもん」 最も豊かな水に恵まれているはずのウェルウィッチアが今回一番の強欲です。
 ありふれた言葉で訓示を垂れてみるなら、「人はより大きな幸福を求めるほどにいずれ飽いてしまうもの。目の前の小さな幸福に満足することこそが大切だ」 といった感じでいかがでしょう。うん、全くもって心に響かないな。

 これまた興味深い示唆ではありますが、やはりパピカとココナの物語には直接関係しません。
 だってふたりが何を幸福に思うかは、そもそも自分自身がまだよく分かってなくて、なればこそありふれた定型の幸福が彼女たちを満たすなんてことは決してありえないのですから。

鶏が鳴くまでに

 すると真闇な道の傍で、たちまちこけこっこうという鶏の声がした。女は身を空様に、両手に握った手綱をうんと控えた。馬は前足の蹄を堅い岩の上に発矢と刻み込んだ。
 こけこっこうと鶏がまた一声鳴いた。
 女はあっと云って、緊めた手綱を一度に緩めた。馬は諸膝を折る。乗った人と共に真向へ前へのめった。岩の下は深い淵であった。
 蹄の跡はいまだに岩の上に残っている。鶏の鳴く真似をしたものは天探女である。この蹄の痕の岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵である。

 では「仮面」と「水」はふたりの物語においてどんな意味を持つのでしょうか。
 それらは「現実」です。麻薬のように甘く、夢への逃避を許さない、閉塞感に充ち満ちた現実です。
 「かわいそう。仮面の力につけ込まれたのはあなたが空っぽだからよ」 何者でもないという空虚な匿名性。
 「あなたパピカに一発入れたい気持ちがどこかにあったんじゃない? その種にお水をあげただけよ」 どんな人の心にもある、ありふれた小さな幸福感。
 そのふたつが合わさると、はてさて、どうなるでしょうか。

 「まだ決まんねーの? ココナならどこにでも行けんじゃん」 かつて現実の世界でヤヤカがそんなことを言っていました。「どこにでも行ける」というのは希望に満ちた物言いのように思えますが、その実ヤヤカにとっては「だからどこでもいい」という投げやりな気持ちの表れです。
 模擬試験を寝て過ごし、進路志望に男子校を混ぜてしまう彼女は、将来というものに興味を持っていません。何者でもない今の自分を受け入れ、ささやかな今の幸せだけを貪ってしまっています。
 何者かになるべく進路について真剣に考え、そのために今苦しんでいるココナとは対照的です。
 テキトーでもなるようになるさ。そう考えた方が人生は絶対に楽です。正直なところ私もこちらを選んだひとりです。実際なんとかなるものです。私は自分の人生に満足しています。私は自分が大好きです。
 ・・・けれど。もしかしたら。
 もしも私の人生よりも、もっとステキな人生があるとしたら。
 たぶん、「仮面」と「水」の安寧は毒です。それは未来を夢見る心を萎れさせてしまいます。

 「何かしたいでしょう? 何かになりたいでしょう? 私と行くなら役割をあげる」 なんという甘美な誘い。自己肯定感をお手軽に充足させてくれる、思春期青少年必殺の罠。天探女が夢見る少女を現実に縛りつけようとしています。
 「・・・嫌」 だからこそ、天探女の誘惑をあっさり振りきってしまうココナは最高にカッコイイ。

 ひょっとしたら『フリップフラッパーズ』の物語は「夢」というものを全肯定するつもりでいるのかもしれません。だとしたらすごいなあ。ド王道のボーイミーツガールでありながら、もしかすると着地点はありがちなところから外れるかもしれませんよ。元々第1話時点で一目惚れだったのですが、これはちょっとワクワクしてきました。

変身

 天探女・ウェルウィッチアの甘言を振りきり、パピカとココナは変身します。だってここはピュアイリュージョン。夢のような世界なんだから、もちろん変身くらいアリさ。荒唐無稽にキラキラしたバトルを繰り広げて、奇想天外に巨大なバズーカの砲口を向けます。エネルギーはなんかこうくにゃくにゃと不定型で、どうしようもなくキラキラ輝いている水。
 「フルパワーだー!」 パピカとココナが思い描く幸福は、ウェルウィッチアのつまらない幸福を全力で塗りつぶしていきます。

 先ほど「仮面」と「水」は閉塞した「現実」の象徴だという話をしました。その文脈で語るなら、現在の自分と違う何者かになれてしまう「変身」は、閉塞感から解放された自由な「夢」の象徴です。自らの意志で何者かになろうとする強い意志が描く空想です。ありものの小さな幸福に満足せず、もっと大きな幸福を自らの手で掴み取ろうとするガッツです。なんてヒロイック。カッコイイなあ。

 「どうやって変身したの?」「教えて」 ヤヤカと行動を共にする双子は変身できないようです。武装を活用した戦い方を見る限り、おそらくはヤヤカも。そりゃあそうです。彼女は現実に満足してしまっている側ですから。満足というには鬱屈していそうなので、諦めていると言った方が正確かもしれませんね。だから自分と違う何者かには「変身」できません。
 その証拠に、彼女たちが集めている欠片(アモルファス)の色は赤。パピカとココナの願いを叶えてくれる青い欠片とは色が違っています。

 ヤヤカたちが所属する組織が唱和している「アスクレーピオス」とは医術の神様の名前です。死者すらも蘇らせることのできる卓越した医術によって、世界の理をねじ曲げ、冥界の住人を現世へと奪い去ったとされる医者です。
 ひょっとすると彼女たちは夢の世界・ピュアイリュージョンを奪い、閉塞感に支配された現実へと変えてしまおうとしているのかもしれません。現実に満足している、あるいは現実を諦めている者にとって、キラキラした夢は不愉快ですから。

 夜に見る夢も、将来を思い描く夢も、どちらも目の前の現実を変える力になります。夢そのものが現実を侵食することはありませんが、夢が持つキラキラとしたパワーは私たちに元気をくれて、私たちが現実と戦うための助けとなってくれます。
 夢と現実を比べて、夢よりも現実の方が大切だなんて言い方をされることも多いですが、そんなことはありません。現実に甘んじていてはちっぽけな幸福しか得ることができません。もしあなたがより大きな幸福を手にしたいと思うのなら、あなたは現実よりも夢に生きるべきです。現実を生きるよりよっぽど困難な道のりでしょうけれど。頑張って。

 キラキラした夢を描くフリップフラッパーズは、思わず応援したくなるようなカッコイイ少女たちの物語です。

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