七夕は1年に1度大切な人に会える日ルン? ひかる、うれしそうルン。
(主観的)あらすじ
ひかるのキラやばー!なお父さんが帰ってきました! いつもは世界中を飛びまわっていて、七夕の日に1日だけ家へ帰ってくるんだそうです。
お父さんは有名なUMA研究家で、めざとくフワやプルンスやララを見つけては研究が進展すると大喜び。それでいて、地球に宇宙人がいるのは秘密にしてほしいとお願いすると、真剣な目で何かを考え、そして快諾してくれる人でもありました。
ひかるのお父さんも元々は普通に自分の家で暮らす人でした。UMAのことが大好きなお父さんと、マンガを描くのが大好きなお母さん。2人の大好きに囲まれて、小さな頃のひかるは毎日が幸せでした。
けれどひかるは気付いていました。本当はお父さん、もっと自由に世界中を見てまわって、もっとたくさんUMAのことを研究したいんだって。だから「行ってきて!」と言いました。そうして今のお父さんとひかるの家族があります。
一方、ひかるのお爺ちゃんはお父さんの選択に納得していませんでした。今でもお父さんとは険悪な雰囲気です。
お爺ちゃんは、父親というのはそういうものではないと考える人でした。父親であるなら自分の夢のために子どもや奥さんにさびしい思いをさせるべきではないと。ひかるのお父さんが旅に出て以来、お爺ちゃんは我が身の不始末であるかのように、ひかるやひかるのお母さんに対して申し訳ない気持ちを抱えていたのでした。
けれど、実際のところお父さんの背中を押したのはひかるとひかるお母さんでした。ふたりはお父さんと離れた今も幸せに暮らしていて、同じ空の下でつながる家族として今も仲睦まじくしていました。
そんな親子の姿を改めて見つめ、お爺ちゃんは少しだけお父さんの選択を受け入れてくれたようでした。
お父さん、お母さん、お爺ちゃん、お婆ちゃん、それから子ども。私たちはなにげない毎日のなかで、いつも何かしらのロール(役割)を演じながら暮らしています。家の外では学校の生徒だったり、生徒会長だったり、どこかの会社の営業マン、事務員、社長だったりもして。時と場合に合わせて、私たちはいつも何かしらのロールを使い分けています。
私には私だけの名前があって、私だけの個性もちゃんとあるはずなのに。なのに、どういうわけか私たちはありのままの“私”ではなく、“お父さん”だったり“サラリーマン”だったり、他にも同じような人たちがたくさんいるような、型にはまったロールをあえて演じつづけています。
それはどうしてでしょうか?
何のためにそんなことをしているんでしょうか?
今話の物語はそういうお話です。
私というラベル
ひかるのお父さんは元々大学の講師だったようです。文化人類学系の講義を受け持っていたようですね。まどかの読んだ本『UMA伝承と人間心理の相関』のタイトルからもその研究領域が窺えます。
現在のお父さんはフィールドワークのため世界中を飛びまわり、UMA研究の本を著すことによって生計を立てているようです。
フワやプルンスの前ではキラやばー!なUMAオタク。
ひかるのお母さんの前では優しい夫。
そしてひかるにとってはもちろんステキなお父さんで、
一方お爺ちゃんにとっては苦々しくも不肖の息子です。
ひかるのお父さんはあくまで“星奈陽一”というひとりしかいない人物のはずなのですが、このように、時と場所、あるいは接する相手次第でいくつもの顔を併せ持っています。
どうして私たちはこんなメンドクサイ生きかたをするんでしょうね。
「私のほ――国では、私の歳はもう大人ルン」
「親というのはいつまでたっても子どもが心配なものだ」
たとえ自分で「こう見てほしい」と規定した特定の顔があったとしても、人によってはそんなのお構いなしに別の一面を見出してくることすらあります。私たちはどんなときも“私”というひとつきりの顔だけで生きることがありません。
私たちはいつも、いくつものロールを使い分けながら暮らしています。
あらゆるものごとは多面的にできていて、私たちは同じ対象をみんなそれぞれ違った主観から見つめては、みんな少しずつ違った印象を受け取っています。それは私たち人間自体も例外ではありません。むしろひとつの視点から見てすらも多様な顔を見出すことができます。そのくらい複雑な存在です。
私たちひとりひとりがまるで宇宙のような複雑さ、多様さを、それぞれひとつきりの体に詰めこんで生きています。
「家族を置いて外国に行く!? 何を言っているんだ!!」
ひかるのお父さんは“星奈陽一”や“UMA研究家”であると同時に、“お父さん”でもあります。
お父さんというのは一般に、家や家族を守るために一生懸命働くもの。家族を置いて自由に生きるだなんて言語道断です。
だから、ひかるのお爺ちゃんはお父さんの選んだ道をどうしても許すことができませんでした。
お父さん自身も実はそうでした。
「ははは。そりゃ行ってみたいけど、今はムリだよ。ひかるは学校があるし、お父さんは仕事があるからね」
自分に“お父さん”という一面がある以上、それ以外の別の側面がどんなに望んでいたとしても、それでも“お父さん”らしさは守らなければなりませんでした。
私たちは複雑で、多面的で、多様な顔をいくつも併せ持っていて。
だというのに、しがらみたったひとつだけによってすら、簡単にがんじがらめに束縛されてしまいます。
「私たちは強要されるのが苦手なんだ」(第20話)
私につけられたラベル
どうして私たちはこんな息苦しい生きかたをしているんでしょうか。
たったひとつのしがらみだけでも動けなくなるくせに、わざわざいくつもの顔を併せ持って、わざわざいくつものしがらみを増やしてしまうだなんて。
それは、誰かがそう望んだからです。
「前はね、一緒に住んでたんだよ。UMAが大好きだったお父さんはいろんな話を教えてくれた。一緒にUMA発見のための探検もした。大好きなことをしているお父さんとお母さんを見るのが私は大好きだった」
ひかるはお父さんが大好きでした。
いつも一緒にいてくれるお父さん。いつも面白いお話を聞かせてくれるお父さん。いつも楽しそうな顔を見せてくれるお父さん。
ひかるが“お父さん”のことを大好きでいてくれるからこそ、星奈陽一は自分が“お父さん”であることを捨ててワガママ勝手に生きることができませんでした。
“お父さん”とはそういうもの。
なのに、どういうわけかひかるのお父さんは“お父さん”らしいロールを全うしようとせず、家族を置いて外国を飛びまわり、家に帰ってくるのは1年にたった1度きり。
ひかるに申し訳ないとは思わないのでしょうか?
あんなにも“お父さん”である自分を好きでいてくれたというのに。その気持ちを裏切るだなんて。
「息子の育て方を間違ってしまった。照美さんやひかるに辛い思いをさせて・・・」
ひかるのお爺ちゃんはそういうふうに考えます。
そして、彼は自分に規定されているロールに則って、そのことに対する責任を感じます。
「私のせいで、こうなってしまった・・・!」
親というのはいつまでたっても子どもが心配なもの。ひかるのお爺ちゃんはひかるのお父さんの”お父さん”でもありました。“お父さん”であるならば自分の子どもの不始末には心を砕いて然るべき。
「家族は一緒にいなければいけないんだ!」
ひかるのお父さんが“お父さん”であるならば。
ひかるのお爺ちゃんが“お父さん”であるならば。
“お父さん”としてのしがらみは、いくら息苦しくても絶対に受け入れなければなりませんでした。
だってそれは、誰かが望んでいることなんだから。
けれど、その一方で奇妙なことを言う子たちがいます。
「お父さん、行って! UMAを探しに、外国へ!」
お父さんが大好きなくせに、お父さんに対して“お父さん”らしくないことを求める愛しき娘。
「あなたはひかるの父の父ルン? でも心配してないルン。仲悪いルン」
論理的に、自分が遵守しているつもりでいた“お父さん”らしさの矛盾を指摘してくる異国の少女。
お父さんだから“お父さん”らしい選択をしたんだというのに、どういうわけかそれこそがむしろお父さんらしくないと誰かが言います。
私がつけたラベル
私たちはなにげない毎日のなかで、いくつものロールを演じ分けながら暮らしています。
たとえ、そのせいで束縛されるしかないしがらみの数を増やす結果になったとしても。
どうして私たちはこんな息苦しい生きかたをしているんでしょうか。
誰かが望んだことだからです。
では、誰が?
「な、何を言っているんだ。ひかるや母さんを置いていけるわけないだろ」
ひかるのお父さんは“お父さん”であることによる束縛を受け入れました。ひかるのために。ひかるのお母さんのために。
「なんで? 私も知りたいよ、UMAのこと。もっと。もーっと! だって大好きだもん!」
だというのに、当のひかるはその“お父さん”らしい束縛を求めません。お父さんのことが大好きなくせに。我慢しているふうでもなく、瞳をキラキラ輝かせて、“お父さん”は外国に行くべきだと高らかに謡います。
「私、『キラやばー!』って言ってるお父さんが大好き! だから行って! 追いかけて! お母さんもそう思うでしょ?」
ひかるの思う“お父さん”らしさとは、お父さんが自分に課していた“お父さん”とは全然違っていたのでした。
私たちはみんなそれぞれ違った主観の世界を生きています。
あらゆるものごとは多面的にできていて、私たちは同じ対象をみんなそれぞれ違った主観から見つめては、みんな少しずつ違った印象を受け取っています。そしてそれは、私たち人間自体も例外ではありません。
私たちは、誰かが望んだからこそ、息苦しくもたくさんの顔を使い分けながら生きています。
いったい誰がそれを望んだんでしょうか?
私たちです。
私たちは、自分の喜びのためにこそ、息苦しくもあえてたくさんのロールを演じ分けています。
ひかるが喜んでくれるのが嬉しいから、ひかるのお父さんは自ら“お父さん”であろうとしつづけました。
息子を今でも愛しているからこそ、ひかるのお爺ちゃんも“お父さん”であることを辞めようとしませんでした。
たとえその結果、息苦しい生きかたを強いられるのだとしても。その苦しさを上回る喜びがあるからこそ、私たちはいつも自分以外の何かを演じつづけます。
だからこそ。
矛盾するようですが、自分が選んだロールのために自分を苦しめるのは間違っています。
このロールはあなたが自分のために選んだ生きかたです。自分で選んだ以上、あなたはこのロールを通して自分を幸せにしなければなりません。幸せになれなければ選んだ意味がありません。
たとえば誰かの笑顔を見るというかたちで。
たとえば誰かとの関係性を誇りに思うというかたちで。
あなたには幸せになる自由があります。
「家族は一緒にいなければいけないんだ!」
「そんなことないよ。私、大好きなものを追いかけてるお父さんとお母さんが大好きなんだ。離れていても家族は家族だよ!」
もしも自分で選んだロールによって自分の身を束縛してしまっているのなら、それはきっと何かが間違っています。あなたは自由意志によって、自分で幸せを得るための手段を選んだはずでした。そのせいでかえって息苦しい思いをしているというなら、きっと何かを勘違いしています。
自分へのリベートを度外視した、行きすぎた責任感であるとか。先入観による思い込みとか。本来知りえないはずの他人の感情を、勝手に悪い方へ悪い方へと想像しすぎたりとか。あるいは誰にも求められていない自罰感情だとか。
きっと、周りの誰かを気にしすぎなんだと思います。
誰かを喜ばせるのって、やりがいを感じて自分も嬉しい気持ちになるからこそがんばれることなのに。
ブルーキャット改めユニはひとり、何をするでもなく空や街の人々の様子を眺めています。
自力でプリンセススターカラーペンを集めに行くこともできず、ひょっとしたら今何をしたらいいのかわからないのかもしれません。本当は何をしてみたっていいのに。故郷の星を救うという大きな目標がまだ終わっていないにしても、だからといってそれ以外の全部を切り捨てる必要なんてないのに。
だって、あなたは自分ひとりで考えて故郷を救うんだって決めたはずなんだから。
誰に強要されたわけでもなく、あなたは本来自由だったはずなんだから。
お父さんというのは一般に、家や家族を守るために一生懸命働くもの。けれどそんなの、ひかるのお父さんにとってはただの思い込みでした。
お父さんが笑顔にしてやりたかったひかるやひかるのお母さんは“お父さん”にそんなこと望んでいなくて、もっと自由に、自分の好きなことを自由に追求してくれることを願っていました。好きなことに打ち込むお父さんの姿こそが大好きでした。
そしてお父さんはひかるやひかるのお母さんに喜んでほしくて“おとうさん”しようとしていたはずでした。
だから、考えかたを改めた今のお父さんは幸せです。ひかるやひかるのお母さんも喜んでくれていて、お父さんは今の生きかたでこそ自分の望んでいた“お父さん”らしさを演じることができています。
コメント
ああ、自分の首しめるだけの自分ルールってたしかにあります。
ほんのちょっとでもひかるや輝美さんの顔と向き合えば、不幸になってないことくらいすぐ分かりそうなものなのに。
あるいは「辛い思いさせてる」という前提が邪魔をして向き合えなくなったんでしょうか。
家族の不幸をわざわざ直視したい人なんざそういませんし。
ユニも少し前まで宇宙怪盗として『悪い人』のロールを試みてましたっけ。
あれもまた、勘違いとかで自分の首しめてるケースですかね。
2度目に会ってプルンスにまくしたてられた時、平然とできるわけですよ……自分の思惑にまんまと乗ってくれてるわけですから。
プルンスは結局見捨てなかったしフワやひかるがいたからいいものの、あんなこと繰り返してたら最後はどうなってたか。
根っこにあるのは思いやりだと思うんですよね。
ひかるが「はしゃいでたかも」と落ち込んだときも、ララが自分を曲げて学校にAI端末を持ち込んだときも、えれなが弟に気を使いすぎてうまく干渉してあげられなかったのも、まどかがお父さんに罪悪感を感じてしまっているのも。『スタートゥインクルプリキュア』で誰かが笑顔を曇らせるときって大抵このパターンに見えるんです。「自分のせいで誰かに迷惑をかけた(かける)かもしれない」というすごく優しい気持ちが、なぜか自分を傷つける方向に向かってしまう。
本人としては相手の立場になって“想像”しているつもりかもしれません。けれど、実際のところその考えかたには「この人ならこう考えるだろう」と、目の前にいる人の気持ちを“想像”する視点が欠けています。
相手のことを思いやろうとしているくせに、自分のなかにある一般論でしかものを考えていない、本当は相手のことを全然思うことができていないんです。想像しているように見えて実際は思考停止状態。それが誰も幸せにせず自分の首を絞めるだけの結果になってしまう原因だと思うんですよね。
難しいのはわかるんですけどね。他人はあくまで他人でしかなくて、実際の気持ちを正確に知ることなんて不可能ですから。
家族ですら、その人が実際に幸せか不幸せかを確認するより、自分のなかの一般論に当てはめて「辛い思いをさせてる」と思い込むほうがよっぽど簡単。
それでも他人の実際を考えることを諦めてしまったら、せっかくの優しい思いやりも誰にも届かないでしょう。独りよがりな自罰自慰。
ユニも。
あの子の場合は特に、一番気持ちを知りたい人たちが石化しちゃっているもんだから、思い込みがどんどん先鋭化しちゃっていたんでしょうね。
故郷を救うという目標自体は自分も含めみんなを幸せにできることのはずなのに、長いことひとりで行動しているうちに、自分だけはどうなってもいいという考えにねじ曲がっていたというか。
石化を解く手段を探すだけじゃなく散逸した宝物まで回収するって誰に頼まれずとも自分で決めたくらい、本当は思いやりに満ちた優しい子のはずなのに。「誰が / 何を望んでいるのか」を見失うと、なぜかその思いやりが自分を傷つけてしまう。
今回の話とは直接つながらない問題ではあるんですが、ずっと気になっていたことがありまして……。
「雨があがれば美しい虹がでる。きっと私達の上にも輝くさ。美しい虹が」と説いて、過去の苦難に執着せず前を向いて未来を切り開いていくよう導いたオリーフィオが、石化から復活したあと「ユニがマオ/ブルーキャット/バケニャーンとして”レインボー再生”の大義名分の下に他者を騙し、傷つけ、他者から奪う暮らしを続けていた」と知ったとき、果たして彼(彼女?)はユニを再び受け入れることが出来るんでしょうか?
おそらく、滅びゆくレインボーにおいてオリーフィオが最期にユニへ「大丈夫だよ」と呼び掛けた真意は、「ユニ一人だけでもレインボーを脱出し、どこかの星で子を産み一族を育ててくれれば、レインボー星人の血脈は絶えることはない」ということだったと思えるんですよね(オリーフィオがユニを”逃がした”のは彼女が生殖能力を有する個体だったからかも)。そうだとすると、その後のユニの行動は、師の教えに背き且つレインボー星人の名誉をも汚す”裏切り行為”となってしまうわけで……。
あるいはーーーーーーユニ自身、自分の行動が「幸せな日々を奪われた悲しみと憎しみを振り払えなかった己の弱さによるもので、師の教えと同胞の名誉を踏みにじるもの」だと自覚しているのかもしれません。彼女の行動がやけに露悪的で自罰的なのも、そう考えると腑に落ちてくるような……。
無理解な他人に疎まれ、傷つけられてきたオリーフィオなら、まずユニがどうしてそんなことをしたのか理解しようと試みるんじゃないでしょうか。相手を理解しようとせずに自分視点から一方的な見かたをするのでは、彼女の嫌った無理解な他人と同じことです。
とはいえブルーキャットだったころのユニがしていたことは、そこにかける思いも含めて、むしろオリーフィオにとってはあまり喜ばしいことじゃないように思いますけどね。
ただ、人を知ろうとすれば過去の姿だけでなく必然的に現在のありかたも見つめることになります。
オリーフィオに失望されるか喜んでもらえるかはこれからのユニ次第ですよ。大丈夫。雨あがりの空には虹が架かります。