フリップフラッパーズ第5話感想 第三夜。本気で遊んで、自分を探して。

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覚悟はあんのか?

(主観的)あらすじ

 宝物を持って出かけよう。今度のピュアイリュージョンは旧校舎。おどろおどろしい雰囲気の中、顔のない女学生に追い立てられたココナとパピカは血をしたたらせて倒れ伏します。
 目を覚ますとそこは百合の花咲き乱れる女学生たちの園。ふたりは毎日本を読んでお茶をして刺繍を刺して過ごします。いつの間にかすっかり退廃した毎日に取り込まれ、欠片集めも忘れて耽溺してしまうふたり。
 けれどある夜、ヤヤカがココナにピュアイリュージョンの仕組みを教えてくれます。それから改めてココナに冒険する理由を問いかけます。後者についてココナはヤヤカを納得させることはできませんでしたが、兎にも角にもこの世界から抜け出すきっかけを掴みました。
 欠片の眠る時計塔にたどり着いたらヤヤカたちとの争奪戦です。パピカは持参した宝物を掲げて変身しますが、同じようにしてもココナは上手くできません。途中でヤヤカが足を滑らせ、時計塔の深みに飲まれかけてしまいますが、彼女の仲間は助けようとしません。代わりにパピカが助けます。けれどもうタイムリミットはギリギリ。土壇場でココナが変身を成功させて、どうにか全てを終わらせます。
 「借りをつくりたくない」と、ココナたちを元の世界に送り届けてくれるヤヤカでしたが、さりとて何も知らないココナたちが彼女と協調できるわけもなく、欠片を巡る争奪戦はまだまだ続きます。

 ホラーと百合とループ世界が織りなす今夜の夢は第三夜。雨と夜闇に包まれて、背負い子の口から罪過の重さを問われる悪夢。前回でひょっとしたら夢十夜モチーフじゃないかもしれないと思わせておいて、今回ガッツリこれですよ。すっかりスタッフの手のひらの上で踊らされています。
 ホラーと百合とループ世界、共通項は退廃感ってところでしょうか。人はときに夢に溺れてしまいます。現実から目を背けて停滞してしまいます。けれど、それでも夢見ることから逃げないで。鬱屈した現実と戦う勇気をくれるのもまた、夢なのですから。

遊びに行こう!

 「しぼった!」「ひーとーつーって言ったろ。虻蜂んぞ!」「えー、まっすぐですべすべだよ?」「タクトか。長さもいい感じ」 ものすごーく既視感のある光景だなあと思ったのですが、これアレですね、ノリのいいお兄さんお姉さんと遊んでもらっている幼児の図。私の場合は従兄でした。よく積み木でつくった謎オブジェの審査委員をやってもらっていたものです。何をつくったのか当ててもらえなくてもどかしい思いをしたり、反対に全く新しいものの見方で意外な付加価値を認めてもらったり。・・・つまりはどっちみち当ててもらえなかったわけですが。

 シリアスに世界征服を標榜するヤヤカたちとは対照的に、パピカたちフリップフラップは遊びの延長のようなノリでピュアイリュージョンに関わります。
 転送施設を「トマソン」と呼んでいましたね。トマソンとは、上った先に何もない階段、開けた向こうに壁しかない扉・・・そういう無意味な構造物のうち、わざとつくったもの以外を指します。改築とか一部取り壊しとかで半端に残ったものが多いんでしょうか。
 一昔前、そういったものに芸術性を見出して、日本中を探し回る運動があったそうです。(今も続いているようです) 制作者すら意図しないところに感動が宿るステキは私も大いに納得するところですが、同時にコレ、大学生特有の悪ノリというか、若々しいユーモアでもあるんですよね。
 ちなみに具体的にはどんなビジュアルなのかというと、それこそ転送施設への移動経路や転送施設そのものがまさにトマソンの一例です。
 そんなワケワカランモノを媒介してピュアイリュージョンにアクセスしているんですから、「なにせあちらさんはド安定。ココのつくりから違う!」 そりゃあ大マジメに全身をSFで武装したヤヤカたちとは違いますとも。「ネトゲは遊びじゃねーんだよ」とか言いだすガチ勢とテッポー撃ってるだけで楽しいエンジョイ勢が対戦ゲームしているようなものです。

 今回変身のためのキーアイテムを見繕ったわけですが、これにしたって3話のノリノリの芋や今話ココナが変身に失敗したくだりを見るに、単に大好きな宝物を振り回してテンション上げよう! ってだけの理屈で変身している予感がひしひしと。ブレスレットだろうがタクトだろうが、変身バンクに関係あるわけでなし、武器に使っているわけでなし。
 プリキュアごっこでパワーアップ! ぷいきゅあ! まーぶゆすくゆー!

遊んでいていいの?

 そういう遊びの延長っぽいノリが一番色濃いのが、実はココナです。「でも楽しかった。最後のすごかった」 彼女はそんな感じでふわっと冒険の継続を決めたのでした。集めている欠片に願いを叶える力があると知っていても「私は特にないけど」
 一事が万事こんなノリ。両親に会う願いを思いつきはしましたが、それは後付け。すでに数回の冒険を経験しているわけですから、冒険する動機はあくまで冒険自体が楽しいことにあります。
 だってココナには将来の夢がありませんから。「かわいそう。仮面の力につけ込まれたのはあなたが空っぽだからよ」 ウェルウィッチアに指摘されたとおり、彼女は現実を生きるための指針を持っていません。なりたい自分がありません。好きなことが思いつきません。なまじ勉強はできるので学力面から進路をしぼることすらできません。「どれが最善かわからなくて」 進路を選べないのは、判断するための材料を何ひとつ持っていないから。
 「なんのために生まれて、なんのために生きるのか。答えられないまま終わる、そんなのは嫌だ!」 日本人の多くが幼心に刻みつけられてきたこの命題に、ココナは答えられません。
 答えられないまま、ある意味では現実から逃げるためにピュアイリュージョンで遊んでいるだけなんですよね、今の彼女は。

 私なんかはそれでいいと思いますけどね。
 「宝物って言ったろ。無生物推奨」「他に宝物なんて・・・」 遊ぶのも楽じゃありません。自称空っぽのココナに容赦なく自分らしさを問いかけてきます。宝物とはその人が大切にしているもの、こだわり、価値観の表れです。なりたい自分も好きなことも何もないココナには少々ハードルの高い課題です。
 逆にパピカなんかは複数選んじゃって、これはこれでその人らしさがぼやけちゃうわけですが、何もないと言っちゃうよりははるかに健全。だって、無いわけがないんですよ。・・・高校のときの進路指導教諭に言われて不快だったことそのまんまな世界観で我ながら嫌になりますが。
 何もないわけがないんですよ。「ココナはどうして集めてんだ?」 問われればちゃんと答えを持っています。「私と一緒じゃないと行けないっていうから」 こちらは確かに他人の都合。けれど「あと、たまに少し、楽しい」 こちらは間違いなくココナ自身の意志です。なんだ、好きなこと、ちゃんと持っているじゃないですか。

 遊ぶのだって楽じゃありません。現実で真剣に頑張るのと同じくらい。もしあなたが遊ぶのを楽だと感じているのなら、それは本気で遊んでいないから。現実を生きることだって本気でやるのとテキトーにやり過ごすのとでは負荷が違います。遊びもそうでないものも、何も変わりません。我ながら言っていることがいよいよ進路指導教諭めいてきました。
 例えばヤヤカなんかが現実をテキトーにやり過ごしている例ですね。保健室登校で、テストを寝て過ごし、進学先候補に男子校を混ぜてしまう。彼女にもそうしてしまうだけの鬱屈はあるのでしょうけれど、現実を諦めてしまっていることに変わりありません。
 ココナはそうではありません。「どれが最善かわからなくて」「どこでもよくはないから」 現実に鬱屈しているし答えも持ち合わせていませんが、彼女はまだ現実を諦めていません。それなら、ひととき夢の世界での遊びに気持ちを移してみるのもありだと思うんですよね。
 だって、遊びだって結局現実と同じ問いかけをしてくるんですから。「あなたは何が好き?」「あなたは誰が好き?」「あなたの宝物は何?」「あなたは何がしたいの?」「どうしてここにいるの?」 現実と同じ質問を、遊びの立場から問いかけてきます。そしてココナは遊びの立場からなら、少しはその質問に答えることができます。「たまに少し、楽しい」

 それなら遊んでみたっていいじゃないですか。現実で見つけられない答えを、夢でなら見つけられるというなら。遊びは、夢は、単なる逃避ではなく現実と同じだけの重みを持っていて、そうであるのだから遊びの中で出した答えは、いつか必ず現実にフィードバックします。
 現実で答えを出せないなら、夢で答えを探せばいいんです。
 ピュアイリュージョン(=純粋な幻影)のなかで遊ぶことをバカにされる筋合いなんてありません。それらは現実から切り離されているようで、結局現実と繋がっています。「学校だ!」「いつもの、な」 現実と幻影はいつだって背中合わせ。

 ヤヤカの属する組織のような整然とした思想集団が、ピュアイリュージョンの中心にある欠片を「アモルファス(=非晶質物態)と呼ぶのは、好意的なニュアンスを感じませんね。アモルファスは非晶質であるがゆえに規則性がなく、部分ごとに物性が異なります。整然としていません。彼女たちからはピュアイリュージョンへの敵意が感じられます。
 現実を諦め、夢すらも敵視するヤヤカの身の置き所は、だったらどこにあるのでしょうね。「覚悟が違う」と彼女は言いました。「世界征服」はそのあたりに係る何かしらのアンサーなのでしょうけれど、いずれにしてもいかにも息の詰まりそうな生き方です。
 そんなのより、私ならココナのような現実を諦めず、夢で遊ぶ生き方の方を応援します。その生き方はとっても欲張りで、前向きです。

「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」

 「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲けるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども判然とは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。
 雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。

 今回のピュアイリュージョンはそんなココナの真逆。夢で遊ぶことの努力を否定する世界。前に進もうとする人を束縛しようとする世界です。時計塔に近づこうとする者は殺すし、少し気を許すとたちまち永遠の時間の輪に取り込もうと誘惑してきます。
 その甘美さは真逆であるはずのココナたちにとっても魅力的で、一歩踏み違えると自分たちもそうなってしまうという危うさが今回示されました。頑張るのことが苦しいってのはココナも日頃から重々感じていることですから仕方ないですね。夢を肯定することがすなわち正しいこととはいえません。大切なのはそれに接するあなたの態度です。

 けれどココナはヤヤカの手を借りながらも、ちゃんとその誘惑から脱してみせます。だって彼女が気に入ったピュアイリュージョンは、こんな麻薬のように緩慢な幸福ではなくて、ドキドキワクワクする冒険なんですから。「でも楽しかった。最後のすごかった」
 だというなら、彼女は遊ぶことに対して本気にならなければいけません。「フリップフラッピング!」 魔法の言葉を唱えるなら気恥ずかしがらず、本気で。それでこそ意味があるというものですし、その方がきっと楽しい。
 「アモルファスを出せ」 そう言われたって素直に渡してなるものですか。「嫌。これはパピカと私が見つけたから」 ヤヤカが真剣に集めているように、ココナも本気で遊びました。そして今回はココナの本気が勝ったのです。これで欠片を渡したら、本気で遊んだことが無意味だったと自分で定義してしまいます。
 こういうところだけでもはっきり自分の気持ちを示せるあたりが、私がココナにヒーロー性を見出している部分です。この子、つくづくカッコイイ。

 「覚悟はあんのか?」「そんなの無い! でも、ヤヤカが何か危ないことをしようとしてるなら、止める!」 ココナとヤヤカの思想的対立がいよいよ表面化してきました。ココナにとってピュアイリュージョンの冒険はそもそも覚悟するようなものではありません。ときどき死ぬような目にも遭うけれど、ときどき楽しくて、そしてココナを成長させてくれる、遊びです。
 ヤヤカは前提からすでに勘違いしています。ふたりの世界観はそもそも同じではありません。どちらが正しいというものでもありません。けれど幼馴染みとして今もお互いを思いやっているふたりなら、いつかは理解しあえるようになるでしょうか。

 少女たちが描く未来の行く末に期待しながら、あとスタッフロールの筆頭にいながらイマイチストーリーに絡んでこないパピカの活躍を期待しながら、また来週を楽しみにしましょう。

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