えれな、大丈夫。自分を信じて。
(主観的)あらすじ
「あの笑顔はえれなの本当の笑顔じゃない!」
えれなは落ち込んでいました。自分の笑顔のせいでお母さんが悲しんでいることを知ってしまったからです。笑顔はみんなを幸せにしてくれるんだって信じていたのに・・・。
ノットレイダーの居星を突き止めるため、ひかるたちはグーテン星に来ていました。ここはテンジョウの生まれ故郷。科学技術が発展しているのはいいのですが・・・、この星の人たちはみんな高慢で、自分より劣っていると感じた人に上から見下ろすような態度を取る悪癖がありました。
テンジョウはこの星のそういうところが嫌いでノットレイダーになったのでした。生まれつき鼻が低かった彼女は、たったそれだけのことで子どものころから嘲笑に晒されて生きてきました。そのトラウマは今も消えていません。ここに部下を連れてくることは耐えがたく、テンジョウは今回ひとりで出撃します。
自らの歪んだイマジネーションを力に変えて、テンジョウがえれなに襲いかかってきます。
「笑顔なんて仮面なのよ!」
テンジョウの言葉がお母さんの悲しみと重なり、えれなは動けなくなります。他のプリキュアたちも総崩れ。けれど、そんなピンチのなかでも、まどかがえれなに向けて微笑みかけました。「自分を信じて」と。
それでえれなはやっと思い出しました。自分が何のために笑顔でいるようになったのか。それはけっして他人のためなんかじゃない、自分がみんなの笑顔を見たいからこそ、えれなはいつも笑顔でいるようにしたのでした。
いつもの、本当の笑顔を取り戻したえれなは、みんなと力を合わせてテンジョウの歪んだイマジネーションを吹き飛ばします。
地球に帰ってきたえれな。晩ご飯の支度を手伝いながら、えれなはお母さんの前で涙をこぼします。みんなを笑顔にしたいのに、それでも笑顔にしてあげられない人がいる自分の力不足が悲しくて。
お母さんはそんなえれなに、「人のために泣けるえれなはすごい。きっといつか一緒に笑顔になれる日が来るよ」と、優しく微笑んでくれるのでした。
えれなにはやりたいことがありました。みんなの笑顔が見たい。
えれなにはやるべきことがありました。みんなを笑顔にしよう。
えれなには知りたいことがありました。どうしたらみんな笑顔になってくれるんだろう。
えれなには知ってもらうべきことがありました。・・・。
たったひとりで奇跡を起こすことができるのは超人的な力を持つヒーローだけです。
普通の人が持つ力なんてたかが知れていて、だから、どんなに大きな夢を抱いていても、自力で叶えられるのは両手に乗る程度のちっぽけな願いだけ。
普通の人に奇跡は起こせません。そして、えれなはどこにでもいる普通の女の子でした。
プリキュアはヒーローですが、同時に普通の女の子でもあります。
プリキュアにはたったひとりで奇跡を起こせるような力はありません。
だから、トゥインクルイマジネーションは人と人とのつながりによって完成します。
プリキュアはどこにでもいる普通の女の子ですが、普通の女の子として、奇跡を起こせます。
笑顔の仮面
「フフフ。あなたの好きな笑顔であふれているでしょう。ここは笑顔の仮面を被って、腹の底では人を見下している連中ばかり。笑顔は仮面。笑顔の裏にこそ真実がある」
そうでしょうか?
「えれな。毎日私や家族のために笑顔でがんばって・・・。でも、あの笑顔はえれなの本当の笑顔じゃない! 心からの笑顔を見せてくれない!」(第42話)
今えれなが悩んでいるもの。
えれなのお母さんが嘆いていた「本当の笑顔」とは、別に他人を見下しているとかどうとか、そういうことを問題にしているものではありませんでした。
ただ、えれなにムリをさせていることを悲しんで、えれなが自分たちのために笑顔をつくっているのがわかったしまって、それでお母さんはえれなの笑顔はニセモノなんだと嘆いていたのでした。
その意味では・・・、別にコレ、本当の笑顔って呼んでしまってもいいのでは?
高慢ちきに自慢して、他人を見下して気持ちよくなって、彼らは自分本位な快楽に酔いしれて心から笑っているように見えます。これこそえれなのお母さんの望む「本当の笑顔」なのでは?
親は子が自己犠牲に殉じることを悲しむものです。だって、お腹の痛みに耐えてまで必死になって産んだ、かけがえのない子なんですから。産み落としてからの十数年間、彼らが大人になるまでのあらゆる責任を引き受けてまで育てた、愛する子なんですから。そんな大切な我が子が誰かのために自らを犠牲にしてしまうだなんて、そんなの親にとって自分の半生を丸ごと否定されたようなものじゃないですか。
えれなのお母さんは、ただえれなに幸せに笑ってほしくて「本当の笑顔」を望みました。
だったらこれでもいいじゃないですか。
みんな楽しそうに笑っていますよ。ケタケタと。ニヤニヤと。ゲラゲラと。
けれど、えれなにはとてもこれが本当の笑顔だとは思えません。
どうしてでしょう。うまく言葉にできません。
けれど、これは違うということだけははっきりと確信できます。
テンジョウにもこの星の笑顔が本当の笑顔だとは思えませんでした。
だって、彼女は笑えなかったからです。
みんな笑っているのに自分だけ笑えなかった。笑えないから仕方なく仮面でごまかしてきた。仮面の下で、怒りと悲しみにじっと耐えてきた。
だから思います。
これは、「笑顔の仮面」だ。
みんな仮面を被ってごまかしているんだ。私と同じように。
論理的な思考じゃないですね。テンジョウだけならともかく、他の人々の笑顔まで仮面であるという論拠がありません。
じゃあ、どうしてテンジョウは彼らの笑顔を仮面だと思ったんでしょうか。同じくえれなも。
もっと他に何か理由があるはずです。思考することを拒否してまで、どうしてもこの笑顔を否定したくなる、何かが。
彼女たちはその答えを見つけなければなりません。
きっと、そこにあるものこそがそれぞれにとっての「本当の笑顔」でしょうから。
「セレーネ。私、私・・・、どうすれば」
えれなにとっての本当の笑顔は、お母さんの言った「本当の笑顔」とは違います。
まずはその2つが違うものだと気付かなければ、彼女の悩みは解けません。
私にとっての“本当”
「それから私はどんな人とも笑顔で接することができるようになりました。そして、私が笑顔でいると、みんなにも笑顔の輪が広がっていったのです」(第39話)
笑顔はえれなの世界を変えてくれました。
「笑顔、か。ほら、店の名前。『SONRISA』。パパの国の言葉でね、“笑顔”って意味なの。花でみんなが笑顔になればいいなあって」(第4話)
笑顔のことがえれなは大好きになりました。
「顔を合わせて笑顔になれたら、もう友達なんだけどなあ」(第8話)
笑顔はえれなの周りにもっとたくさんの笑顔をくれました。
「私、サボローに笑顔になってほしかったんだ」(第34話)
笑顔のためにがんばりたいと心から思えるようになりました。
「弟たちを笑顔にしてくれた。この子は泣かせない!」(第4話)
笑顔のためなら、えれなはどんなものにも立ち向かうことができました。
「テンジョウ。あなたの言う通りかもしれない。私もつくったんだ。――笑顔を」
そう。えれなにとって笑顔は後付けです。最初の最初は笑えませんでした。幼いころ家族の笑顔に救われて、笑顔のことが好きになって、えれなの笑顔はそれからです。えれなは笑顔を見ると幸せになれる自分に気付いて、笑顔を自分の周りにもっと増やしたくなって、だからいつでも笑顔でいるよう心がけていました。
笑顔をつくっているといえばそのとおりでしょう。自然に湧きあがってくる笑顔ばかりじゃないといえばそのとおりでしょう。えれなは笑顔のために笑顔でいます。
でも、わざわざそんなことをしているのはいったい誰のため?
「先輩が“太陽”って言われてるの、わかった気がする。だって先輩の周りはいつも笑顔でいっぱいだから!」(第4話)
出会ったばかりのころのひかるがそんなことを言ってくれて、えれなは心から嬉しく感じました。
それこそがえれなのやりたいことだったからです。自分のやりたいことが順調にできていることを他の人の視点から確認してもらえました。こんなに喜ばしいことはありません。
「笑顔には人と人をつなげるすごい力があります。私はこれからもたくさんの人と出会い、交流を深めていきたいです」(第39話)
えれなは自分が笑顔を大好きだからこそ、みんなの笑顔を増やそうと笑顔をつくっていたんです。
お母さんはえれなの笑顔が本当の笑顔じゃないと言います。
けれど。
「えれな、大丈夫。自分を信じて」
断じてそんなことはありません。えれなの笑顔は、最初から本当の笑顔でした。
まどかがそっと笑いかけます。
敵の攻撃を受けて本当は苦しいはずなのに。
えれなに笑ってほしくて、まどかはあえて笑顔をつくります。
えれなが笑ってくれたらまどかも嬉しいから。
えれなはいつもそうやって笑ってくれていたから。
「私は、人の笑顔のために自分を犠牲にしているんじゃない!」
グーテン星の笑顔が本当の笑顔じゃないと感じた理由、きっと今ならわかるでしょう。
あの笑顔は見る人を不快にさせました。自分の笑顔で周りに笑顔を増やしたいと思う、えれなの笑顔とはまったくの別物です。あれは、少なくともえれなにとっては本当の笑顔じゃありません。かつてえれなを救ってくれた、えれなが大好きな笑顔とは全然違います。
えれなにはやるべきことがあります。みんなを笑顔にすることです。
なぜならえれなにはやりたいことがあるからです。みんなの笑顔を見ることです。
今、えれなの目の前に笑えていない人が2人います。
テンジョウ。そして、お母さん。
えれなには知りたいことがあります。どうしたら2人は笑顔になってくれるんだろう。
わかりません。テンジョウは敵だから素直に話してくれませんし、お母さんはえれなのことを勘違いしています。ただこちらから聞いてみるだけでは2人との間にある隔たりは永遠に埋まりそうにありません。
だったら、今こそ奇跡の力の出番です。
えれなにはどうしても知ってほしいことがあります。
「思ったの。私、あなたを笑顔にしたい。だって、笑顔を見るのが嬉しいの。大好きなの。みんなの笑顔が。笑顔が、私の笑顔になるの! だから、だから・・・」
「私は、みんなを笑顔にしたいんだ!!」
天宮えれなのワガママ
気持ちの優しいえれなはいつも言いたいことを胸に隠してきました。
ケンネル星でのこと。弟のとうまのこと。あるいは笑顔を知る前の昔。
言わずに我慢することで、何人もと気持ちをすれ違わせてしまっていました。
「ひとりで抱えこまないで。みんなで分けあうっていいものだよ」(第23話)
自分でもわかっていたはずなのにね。ひとりで考えていると案外結びつかないものです。
「何かやりたいことはないのか?」
「今のところ、特に・・・」(第42話)
自分でも我慢していたつもりじゃなく、ただ、周りに気遣っていたら自分のことに気付けなくなってしまっていただけで。
でも、もう辞めです。今までのやりかただけじゃ心から笑ってくれない人たちがいるんです。
「ママ。相手に自分の気持ちを伝えるのって、笑顔にするのって、難しいね。でも、私はみんなの笑顔が見たい。一緒に笑いあいたいんだ」
それは今回も話しあう前に立ち去ってしまったテンジョウのことであり、そして今まさに目の前にいるお母さんのことでもあり。あるいはこれまですれ違ってきたたくさんの人たちのことでもあり。
ずっとずっと、苦労してきました。
たくさん思うようにいかないことを経験してきました。
ねえ、ママ。どうしたら笑ってくれる? 「本当の笑顔が見たい」だなんて内心を苦しめたりせずに、どうしたら心から笑ってくれる?
その答えはお母さんが知っています。
えれなが知らない答えは、お母さんが知っています。
「えれな。人を笑顔にできるってすごいことよ。でも、・・・人のために泣けるのはもっとすごい。それって、相手のことを本気で考えてるってことだから。泣きたいときは泣いていい。私はそう思う」
優しいえれなひとりではどうしても気付けなかった視点。
えれなのことを愛してくれている人にとって一番嬉しく感じることは、えれながえれな自身のこともちゃんと思いやってくれることでした。
笑いたかったら笑っていい。でも、泣きたいときも泣いてほしい。どちらもえれなにとって大切なことだから。
できればワガママも少しくらい言ってほしい。えれなが周りのみんなのことを思っているのと同じで、お母さんやみんなもえれなのことを大好きだって思っているんだから。えれなを喜ばせてあげられたら、私もとっても嬉しく思うんだから。
そうしてくれたらきっと――。
「きっといつか、一緒に笑顔になれる日が来るよ」
あなたは、いつかどんな人も笑顔にしてあげられるようになると思う。
残念ながら今回もテンジョウと話しあうことはできませんでした。
でも、だいぶ動揺しています。以前と違ってちゃんとえれなの思いが届いています。
たとえ敵同士であっても、お互いを知らない異星人同士であっても、どうしてもわかりあえない相手なんてきっといません。きっといつか一緒に笑顔になれる日が来るでしょう。
「えれなが好きなように、えれなの道を行きなさい」
大丈夫。あなたの笑顔は本物の笑顔だ。改めて語りあってみれば、お母さんから見てもあなたは間違っていなかった。
前話で揺らぎかけていたえれなの自分の笑顔に対する信頼は、まどかが信じてくれて、お母さんが保障してくれて、以前よりいっそう強固にえれなのなかで守られました。あとはまっすぐ歩めばいい。笑顔でつながることのできたみんなとともに。
「私ね、人と人とがわかりあえるような手伝いをしたいの。ちっちゃいときから憧れてたんだ。――ママに。ママみたいな、人と人とを笑顔で結びつける通訳って、ステキだなあって!」
その夢はいつか叶うでしょう。
今のあなたが使える力は、あなたひとり分よりはるかに大きくなっているんですから。
コメント
グーテン星人の眼球と脳が地球人と同じ構造と仮定して、あの鼻は視界の邪魔になりませんかね。
互いに正面向いて会話するのも少々難儀するでしょう。
こうなると電話や手紙等の手段で離れた相手とやり取りするか、互いに斜めを向くか、縦or横に並んで話すしかなくなり、相手の目を見る文化は根付かない……という考察をしてみました。
モブ同士の会話を聞く限り、彼らは鼻だけでなく『富と権力』的な分かりやすい成功体験を生き甲斐にしているようです。
本当に己を幸せだと思ってる人はいちいち自慢なんてしないもの(それが当たり前だから)と言いますが、そういうところも本当の笑顔っぽくない根拠に思えました。
そういえばカッパードやアイワーン、地球だと桜子もあんな感じで笑いますね。
私たちの鼻も本当は視界に入っているのですが、普段は目に映っていないように感じます。これは視界に入ってしまった鼻の映像を脳内で無意識に差し替えているからなんです。直前に見た映像の記憶で補完したり、あるいはそもそも全くの想像だったり。人間の視界は目と脳両方を使ってつくられています。ただし、別に鼻を貫通して景色を見ているのではなく、あくまで脳内補完しているだけなので、本来鼻があった位置は完全な死角です。
案外、本人にはあの高い鼻も邪魔にならずに見えているかもしれません。
ただし、正面の視野のそこそこ広い範囲が結局死角になっているので、自慢話を聞かせている相手の顔を見ているようで全然見えていないといった事態はあるかもしれませんね。相手のうんざりした顔に気付けないまま喋るからいくらでも自慢話ができる・・・なんて。
いえまあ、彼らの様子を見ていると案外お互い楽しそうに自慢話聞きあっているんですけどね。自分にコンプレックスさえなければ、自慢話=誰もが景気のいい話ばかりするハッピーな気風と感じられなくもないのかもしれません。
私は自分で自分は幸せだと言い張るタイプの人は好きですよ。
おっしゃるとおり、幸せっていうのはすぐ当たり前になっちゃいます。青い鳥の寓話のように、自分が幸せだったことを忘れてしまうくらい当たり前のものになっちゃいます。それなら全力で自分の幸せを噛みしめたほうが楽しく暮らせそう。“幸せ”なんてそもそもが主観的なもの。たとえ虚飾だろうと、幸せだ幸せだと自分に言い聞かせていれば、少なくともそういう努力をしないよりは幸せを感じられるんじゃないかなと思っています。
今回のエピソードでどうにも解らなかったのが「何故テンジョウは”鼻の高さ”が重視されない他の星で暮らそうとはしなかったのか?」という点でした。彼女の指揮官・管理職としての資質の高さに鑑みれば、他の星でそこそこ良い職に就くことも出来るだろうに……。
で、思ったのが「星空界や星空連合では”差別禁止”を建前に掲げてはいる。が、グーテン星のような星空界にとって重要な星で行われている差別は(政策的配慮として)黙認する”ダブルスタンダード”がまかり通っている」のではないか、ということなんですね。
つまり、テンジョウの憎しみは”差別がまかり通る”グーテン星だけではなく”グーテン星の差別を(ご都合主義で)黙認する”星空界や星空連合にも向けられているのではないのかなあ、と。そして、テンジョウは星空界全体への憎しみをぶつけるべく宇宙テロ組織・ノットレイダーへの参加を決意した……とか。
ともかく……本作においては何かにつけて”星空界に蔓延する歪みや矛盾”と”この歪み・矛盾に対して無為無策な星空連合及びスターパレス(スタープリンセス)”が描写され、”敵組織”ノットレイダーはまさに星空界の歪み・矛盾の落とし子だと明確に打ち出した造形となっているーーーーーー以上、本作の最終決戦もかなり”社会改革”の色彩を帯びたものにならざるを得ない(少なくとも「ノットレイダーぶっ潰したら終わり」では通らない)感じもするんですが、「地球のため、みんなのため、それもいいけど忘れちゃいけないことあるんじゃない」と15年間言い張ってきた”○○ファースト”思想のパイオニア・プリキュアシリーズで、一体どこまで社会派路線に踏み込んだ決着にするのか、気になるところではありますね。
アイデンティティの問題じゃないかなと思います。
自分の生まれ育った星がクソッタレだった。では、その星の人々、風習、文化、教育に触れながら育った自分は果たして彼らと違う“良い”人間になれただろうか?
――テンジョウの境遇で自分に自信を持つのは難しいと思うんです。なにせ子どものころから自尊心というものをメタクソに傷つけられているわけですから。たとえ他人から見て素晴らしい資質を持っていたとしても、本人がそれを認めることができなければ、彼女はその才能を発揮することができません。無い(と思い込んでいる)ものは振るえないんです。
自分に自信を持てなかった人は故郷を離れてもなかなかうまく生きられませんよ。見知らぬ土地や文化、人々と交わるのはやっぱり勇気が必要ですから。もちろん自分を傷つけるばかりのクソッタレな故郷は論外です。ですが、自分が何者なのかを保障してくれる根拠が一切存在しない場で、それでも「自分は自分だ」と言い張るのもなかなか難しい。地球に来たばかりのころのララと同じです。ララの場合は幸いにして最初にひかると出会えましたが・・・、それですらずいぶんと時間がかかりました。テンジョウの場合はノットレイダーに来て、やっと自分を認めてくれる同類に出会えたのかもしれません。
なかなか難しいところですね。
ノットレイダーのように組織自体がネガティブな思想に染まっている集団はろくなことをしません。自信を持てない個人がそうであるのと同様に、なかなか新しいものに目を向け、踏み出すことができないからです。どうしても既知の嫌いなものにばかり目を向けがちで、しかもそれをどうにかしたあとの次を考えられない。不毛です。
ですが、一部の人にとってはそういう自分によく似た人たちが集まった集団にこそ救いを感じ、心を癒やせる場合もあるわけで。
まあ・・・。それでも、何か(傷の舐めあい以外の)別のアプローチから彼女たちを認め、自信を持たせてやるしかないんでしょうか。