ふふ。私の知らない私の心が他の人に見られたり出入りされたりしてるのが――、楽しいです。
※注:私の考察はガッツリ書いているものほどまず当たりません。
前提:ドグマとは
「自分自身のイドに入ることは禁じられている。イドは無意識からの産物だ。イドに潜ることはつまり、無意識を意識することだ。あくまでも理論上だが、イドはその意識の侵略から逃げようとするように、自らを不可視化しながら膨張すると考えられている。そして名探偵はその嵐に呑みこまれ、自分のイドのなかで永遠にさまようことになるんだと。その状態を『ドグマに落ちた』と呼ぶらしい」(第3話)
ドグマ(dogma)とは宗教における基本教義のことで、語源としては「doctor」や軍事用語の「doctrine」と根を共にする語です。基本的なもの。原則的なもの。権威をもって定められるもの。(学ばせるのではなく)教えるもの。疑う余地のないもの。そういったニュアンスがあります。
要するに「当然に従うべき大前提」と解釈しておけばおおむね間違いないでしょう。
人間の意思決定プロセスにおいて、ドグマ的なものは大きく分けて2つあると考えられます。
1つは社会的な規範。法律や、宗教、文化、常識、慣習、その他有形無形の様々なルール。
人間は社会に縛られるからこそ人間です。「人を殺したい」「何かを奪いたい」「他人を支配したい」。そういう動物的な欲望に対して、「周りの人に嫌われたくない」「社会から孤立したくない」などといった思いがセーフティとして機能します。
もう1つは個人的な信条。人生哲学や価値観、様々な経験則、あるいは単純な欲望のことですね。
自分が正しいと信じるものから外れた行為をすることは人間にとってたいへん勇気の要るものです。犯罪者ですら、法を犯す行いが自分にとっては正しいと考えるからこそ、罪を犯すものでしょう。人間は気高いからこそ人間らしくいられます。自分らしくあろうと思うからこそ自分でいられます。
この2つは相反し、矛盾しあい、現実と向きあうに当たって互いに調整しあいながら、そのせめぎあいのなかで最終的にその人が次に取るべき正しい行動を決定します。自覚的に思考を働かせているときも、無意識になんとなく行動しているときも、いつもです。
ちなみにフロイト心理学においては前者を「スーパーエゴ」、後者をさらに意識可能なものと無意識領域とに分化して「エゴ」「イド」と呼んでいます。フロイトの研究はそもそも、理性的な存在であるはずの人間の精神にも実は理性的じゃない領域があるんじゃないか、という発想からはじまっているので、「エゴ」=“理性そのものである表層意識”と「イド」=“理性によって無意識下に抑圧されている本能や欲望”といった具合に分けて定義しているんですね。
ただし、フロイトもエゴとイドは明確に区分できるものではなく、地続きにつながっているものだとも考えていました。人間は自分のなかにある「自分らしいと思えるもの」を意識し、「自分らしくないと思う部分」を無意識下に追いやるのだと。
前提が長くなりました。
私はこの前提から、ジョン・ウォーカーの正体について2つの説を考えました。
1つは、その正体がミヅハノメ開発者・白駒二四男である可能性。
もう1つは、ジョン・ウォーカーとは特定の人物ではない、心理現象である可能性。
白駒二四男がジョン・ウォーカーである可能性
「そもそも、ジョン・ウォーカーの姿で記憶だけでなく無意識にまで刻まれているんだぞ。実際に顔を合わせるときにもあの格好って、どんなやつなんだよ。何かのコスプレか?」
「そうか。いくら何でもありの無意識だからって、6人も共通したイメージを持っているなら、全員があの赤いフロックコートの男を実際に見てるってことか」
「そうだ。そしてそのコスプレ野郎は他の目撃者を出さずに狙ったやつの前だけに現れてみせるんだ。至難の業というか、完全に無理な話だと思うが」(第6話)
ジョン・ウォーカーが現実に赤いフロックスーツ姿で連続殺人犯たちと接触していた、という仮説はありえません。井戸端スタッフの議論に出ていたように、きわめて実現可能性に乏しい話ですし、殺人衝動を植えつけるついでにそのコスプレイメージを刻み込もうとする理由がわかりませんし、第一、本当にそんなことをしていたなら犯人たちの供述から聴取できるはずです。
連続殺人犯全員が鳴瓢あたりに殺されてでもいたならともかく、現在井戸端には穴空きと墓掘りの2名が収監されています。しかも2人とも尋問に協力的。井戸端にとってもジョン・ウォーカーの件は最優先に欲しい情報なんですから、もし穴空きたちが本当に赤いフロックスーツ姿の男を目撃していたなら、とっくにその情報は聴取されているはずです。
そうじゃないんですから、ジョン・ウォーカーは連続殺人犯たちと現実に接触しているわけではないということになります。
ならば、真っ先に疑うべきはイドの世界。人間の無意識領域に直接ジョン・ウォーカーをすり込ませるという発想。
ただし、イドの世界というのはあくまで個人の無意識がつくりだすもの。他人にはおいそれと手出しできない場所にあります。現実に会ってすらいないのなら、そこにどうやって介入するのかが問題になるわけですね。
そこで考えられるのが、「ドグマに落ちた」名探偵。
先ほど書いたとおり、人間の精神は2種類のドグマによって構成されています。社会的なドグマ(スーパーエゴ)と、個人的なドグマ(エゴとイド)です。
このうち、名探偵が前者のドグマに“落ちた”としたら、どうでしょう。法律、宗教、文化、常識、慣習・・・。社会的なドグマは個人の無意識下にありながら、多くの人が同じものを共有しうるものです。ジョン・ウォーカーはこの社会的ドグマを通じて複数の連続殺人犯たちに伝播していったと考えられないでしょうか?
「ドグマ・・・? 意味不明ですね」
「知るかよ。とにかく、ミヅハノメが位置情報を失って、パイロットの吸い出しができなくなるんだと」
「死ぬんじゃないんですか?」
「コックピットの肉体はどこかで生命活動の維持が難しくなるかもしれない。しかし、肉体が死んでも精神はミヅハノメのなかで生きつづけるらしい」(第3話)
もしジョン・ウォーカーが社会的ドグマに落ちた名探偵であるとして、その正体はというと、それは劇中未登場、あるいはすでに死んでいる人物となります。なにせ一度ドグマに落ちたら肉体に帰ってこれないわけですから。(※ もっとも、最新第9話現在、その位置情報を失った状態にある聖井戸御代の救出作戦が進められているわけですが)
つまり、ミヅハノメの仕様を把握している唯一の人物であり、かつ故人である白駒二四男が最も怪しい。
ただし、社会的ドグマに落ちたからといって、結局一番肝心の伝播経路が説明できません。「スーパーエゴ」というオカルトちっくな用語ではありますが、その正体はあくまで法律や常識などといった私たちにとって身近な概念です。人間の無意識が互いに直接接続されているわけじゃありません。
そのあたりを解決できるオカルトパワーを、ひょっとしたらカエルちゃん(飛鳥井木記)が持っているんじゃないかとも考えていたんですが・・・。なんか、本当に持っていましたね。
「最初は1人だったんです。でも、その人が他の人を呼び込むようになって」
「その人。帽子とステッキの男ですか?」
「・・・はい」(第9話)
必ずしも飛鳥井木記本来の能力というわけではありません。本来彼女が持つ超能力はいわゆるサトラレ。物理的に近くにいる人に強制的に自分の考えているイメージを共有させるというものです。
ですが、いったいどういうふうに応用したものか、ジョン・ウォーカーは彼女の超能力を拡張し、彼女と面識のない“連続殺人鬼”を複数彼女の夢に送り込んでみせました。
この経路でなら、複数の連続殺人犯の、それも無意識領域にだけ赤いフロックスーツ姿のイメージを刻み込むことも可能でしょう。
彼らに殺人衝動を植えつけることも容易。飛鳥井木記の夢の世界は自由に殺人を楽しんでも咎められない世界。これ自体が社会的ドグマのひとつ「人を殺してはならない」という、人間なら誰もが持っている当然の常識を陵辱せしめる環境となっています。
「夢は現実に似ているけれど、同じものじゃないんです。あの男は人を殴るのが好きなだけじゃなく、殴られるのも好きだから。夢のなかだと実際のケガしなくて、それでつまらなくて、私を誘拐したんだと思います」(第9話)
夢の世界の飛鳥井木記は彼らのことを「連続殺人鬼」と表現していましたが、違います。
「牢屋? 牢屋なんて入ったことねえぞ。そもそも警察に捕まる理由もねえし」
「ああ。今の時点ではな」
「だよな。結局のところ、夢のなかで遊んでるだけだから、法律破ってないもんな」(第9話)
第9話に登場した世界は、実際のところ、現在の飛鳥井木記本人の無意識の世界ではありません。思念粒子を元にミヅハノメがつくるのと同じ、本人の無意識とは切り離された、過去の夢の世界です。
飛鳥井木記を殺して楽しんでいた顔剥ぎは、この時点ではまだ誰も殺していません。“これから”連続殺人鬼になるんです。
・・・彼女、何を根拠に彼らを「連続殺人鬼」だなんて呼んでいるんでしょうね?
なお、この説にはまだわからないことが複数残っています。
ひとつ。結局ジョン・ウォーカーはどうやって連続殺人鬼候補を選別しているのか? 特に、穴開け→墓掘りと連続殺人犯間で伝播していった経路について。
もうひとつ。そもそもジョン・ウォーカーはどうやって連続殺人鬼候補を飛鳥井木記の夢の世界へ送り込んでいるのか?
割と肝心なところであるこのあたりがまだわかりません。
ジョン・ウォーカーが心理現象である可能性
1つめの説が社会的なドグマに因むものなら、もうひとつの説は個人的なドグマによるものです。
松岡元刑事のセリフをもう一度見てみましょう。
「自分自身のイドに入ることは禁じられている。イドは無意識からの産物だ。イドに潜ることはつまり、無意識を意識することだ。あくまでも理論上だが、イドはその意識の侵略から逃げようとするように、自らを不可視化しながら膨張すると考えられている。そして名探偵はその嵐に呑みこまれ、自分のイドのなかで永遠にさまようことになるんだと。その状態を『ドグマに落ちた』と呼ぶらしい」(第3話)
イドとエゴの話を踏まえたうえで改めて読んでみると、当たり前のことしか言っていません。
イドとは、本人にとって“自分らしくない”から無意識領域に隠した本能や欲望です。そうなりたくないからこそ無意識下に置き、理性と社会規範によって表に出てこないよう抑圧しているんです。誰も自分のそんな部分、好き好んで向きあってみたいとは思わないでしょうに。(※ 本堂町を除く)
自分自身のイドに入る――、あえて自分で隠していたものを、わざわざ自分から見に行くんです。そりゃ当然、心穏やかになんていられないでしょうとも。そこにあるのは自分であって自分じゃないんです。自分のなかの一番自分らしくない部分。一番グロテスクな自分なんです。荒むし、逃げたくなるし、自分というものがわからなくなるでしょうとも。
そんな精神病理、ミヅハノメなんてSF装置がなくたって現実にありふれています。
それこそ、鳴瓢がやっている自殺教唆がズバリそれです。
「確かに写真に写すものはこの世の現実だろう。お前にとってのな。薄っぺらい人間たち――。でもその薄っぺらさはお前のものだ」
「なあ。爆弾を爆破して、その野次馬の写真を撮るまで。あるいは撮りながら。シャッターの合間に。お前は何を見ていた? 野次馬ばかりを見つめてたんじゃなくて、“地獄”の美しさに心を打たれてたんだ」(第3話)
人間の心にはこれが一番効きます。なにせ、自分という存在ほど自分に近しいものはいませんからね。だから普通は心に無意識領域をつくって隠します。自分で自分を騙します。そうでもしないと逃げられないから。目を背けることすらできなくなるから。
鳴瓢は、その人間に唯一残された逃げ道を塞いでしまうんです。「もういいんじゃないか?」そう囁きながら。
飛鳥井木記の夢の世界で行われている殺人ゲームも同じ構造ですね。
ミヅハノメシステムにおける名探偵と違い、彼女の夢の世界では侵入した人物の表層意識が保たれます。やっちゃいけないって理解している行為を、その常識を保ったままでやってしまうわけです。
無意識下の欲求とはいえ欲求は欲求、そりゃあ最初は気持ちいいでしょうけどね。タガは外れていきますよ。それ、「自分は本心ではこんなことを望んでいる醜い人間なんです」って、鏡に映った汚ったない自分の顔をオカズにしてオナニーしているようなもんですから。そのうち「自分は汚くて当たり前なんだ」って寝ぼけた自己卑下に染まっていくでしょうよ。
人間、誰だってグロテスクな部分はあるものですよ。見たくない。カッコ悪い。情けない。誰かに知られたら生きていけない。自分が本当に人間か疑いたくなる。そんな秘密は誰にだってあります。けれど、それに目を背け、我慢し、心の底から沸きあがってくる薄ら黒い欲望にうまいこと折り合いをつけていくのが健康な人間心理です。
それをわざわざ見ようとしたら、病みますよ。当然。たぶん、これも誰もが身に覚えのあることだと思います。
ジョン・ウォーカーは連続殺人犯のイドの世界において恐れられている存在です。本来なら殺して楽しむべき対象すらも保護せざるをえないくらい、彼らにとって絶対的な恐怖となっています。
そこまでの恐怖って、もはや他人にどうこうできるようなものでしょうか?
だから、思います。
ジョン・ウォーカーとは心理現象なのではないかと。人間の精神にとって最も絶望的な恐怖。絶対に逃げられない。逃げられないなら死ぬしかない。死ぬより怖い。そんな、無意識領域に封印していたグロテスクな自分と向きあってしまう行為。精神崩壊の先触れ。それがジョン・ウォーカー。
もっとも、これでは特定の連続殺人犯のイドにだけジョン・ウォーカーが巣くう説明がつきませんし、赤いフロックスーツ姿の共通イメージとして描かれるのも奇妙ですし、これだけ大風呂敷広げたサスペンスドラマのオチとしては面白くありません。ちょっと感傷的すぎる説だって正直自分でも思いますし。
たぶん、違うでしょう。私としてはこっちより白駒二四男犯人説を推します。
ただ、「ドグマに落ちた」の解釈とか、飛鳥井木記の夢の世界が精神衛生上よろしくない話とか、部分部分ではこっちの考えかたの方が私にはしっくりくるところも結構あるんですよね。
さて。
製作者の用意した答えは、あるいはあなたの考えた答えは、いったいどんな感じでしょう。
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