超人女子戦士ガリベンガーV 第44話感想 “面白い”が育てたゾンビの系譜。

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生徒役:電脳少女シロ、周防パトラ、花京院ちえり

フグの毒キメて本番臨むのはやめてよ!

出演バーチャルYouTuber

電脳少女シロ

「あ、『萌え萌えキュン』もやる? そういう、何ですかね、あのー、ああいう、何でしたっけ?」
「性的なサービス!」

 「ねぇほぉんとやぁ~な~のぉ~」 物騒の権化として名を馳せる一方で、意外にもゾンビが大の苦手なバーチャル普通の美少女。番組冒頭で珍妙な歌を披露していましたが、あれはゾンビを恐がって漏らしたボヤキを(音程とリズムほぼ無加工で!)音頭っぽくアレンジされたファンメイドの楽曲だったりします。
 「いるだけで○○な子」という表現がこれほど似合わない人物もなかなかいないでしょう。いればだいたい何かしています。傍若無人に暴れてみたり、賢く機転の利くトークを繰りひろげてみたり、斜め上にカッ飛んだ名言を連発してみたり、他の共演者を気遣ったり、イジりたおしたり、あるいはゴキゲンにキュイキュイ笑っていたり。ちょくちょくワケワカンナイこともやりたがりますが、そういうときは「シロちゃんの動画は為になるなあ!」と、とりあえず納得しましょう。彼女はあなたが為になることを望んでいます。
 まるでアブない人のようですが、そして実際アブない人なのは確かなのですが、ああ見えて彼女は共演者をよく見ています。聡明です。共演者の対応力を推し測り、ギリギリ捌ききれる程度のムチャ振りを仕掛けるのです。おかげでいつのまにか人脈の輪がずんどこ広がってきました。タチが悪いったらありゃしない。

周防パトラ

「そう! そうそうそうそうそうそうそう!」
「俺の意見に全乗っかりじゃねーかよ」

 メンバー同士の仲がいいことで知られるハニーストラップのなかで、特に中心的な役割を担っている悪魔の女王様(※ ハニーストラップ自体が全員悪魔で女王)。中心的な役割ということはすなわちイジられキャラであるということですね。ちなみに「夜の喫茶店」という触れこみのハニーストラップですが、普通にアルコールの提供もしていますし、なんなら店員が昼間から飲んだくれていることまであります。
 なにかと多芸なクリエイター気質で、特に作詞作曲ができることで知られており、実際に自身を含めたメンバー全員のオリジナルソングを手がけています。そういった意味でも中心人物ですね。スキルの幅広さを存分に生かして多様な配信活動を行っていますが、なかでもひときわ力を入れているのがASMR。ファンを寝落ちさせるためならYouTubeの広告を切ることも辞しません。
 愛称はパトおじ。バーチャルYouTuberに限らず古今東西の美少女コンテンツをこよなく愛する極まったオタクぶりからこう呼ばれるようになりました。ちゃきちゃきウキウキとハイテンションで、小気味よくキモチワルイ愛の言葉を紡ぎます。とめどなく滾々と語りつづけます。

花京院ちえり

「障害があればあるほど燃え上がる、みたいなね」
「愛だねぇ」

 惜しみなくかわいさを振りまきつづけるかわいい人。最近ついにかわいさが枯渇して喉がガラガラになってしまうアクシデントに見舞われ、現在かわいさチャージのため静養中。さすがにくまちぇりはかわいすぎたか。ホラーをこよなく愛するという女の子らしい一面もあり、今回の授業を人一倍楽しみにしてきました。
 花京院ちえりの特徴はなんといってもかわいいことです。彼女は自分の外見がかわいいことを信じていますし、内面もかわいくふるまおうと心がけていますし、ファンにもかわいいと言ってほしいと呼びかけています。理想のため地道にがんばる努力の人です。彼女は花京院ちえりがかわいくあるためにありとあらゆる努力を欠かしません。女は度胸、ちえりはかわいい。今日もちえりちゃんはかわいいなあ!
 そんなわけで彼女の配信の空気は全体的に茶番じみています。まず彼女自身が「ちえりちゃんはかわいい」と宣言し、すかさずファンも「ちえりちゃんはかわいい」と唱和することで、花京院ちえりというバーチャルなアイドルをみんなでかわいく盛り上げていく――。一種の観客参加型演劇が彼女のメインコンテンツとなっています。

授業構成おさらい(+ 補足事項)

超難問:ゾンビの謎を解明せよ!

 岡本健先生は観光社会学を専門にしている准教授です。ざっくばらんにいうと、いわゆるオタクカルチャーにおける“聖地巡礼”の研究ですね。ゾンビについてはまた少し違う文脈からの研究ではありますが、聖地巡礼もゾンビという概念も、様々な人が様々なかたちで関わることで、少しずつ文化として変容・洗練されていったという点で共通しています。
 つまるところ、オタクカルチャー全般をコミュニケーションという観点から紐解こうとしている学者さんですね。

 今回の授業テーマはゾンビ。ホラー映画の花形ですね。恐怖という人間が持つ原始的な感情を直接揺さぶってくる、ホラー映画の面白さはその意味で普遍的なもののように思われがちですが、実際にはホラー映画にも流行り廃りがあります。
 わかりやすい例でいえば、それこそ授業でも紹介されている、最近のゾンビは俊敏に走るようになったことなどですね。ゾンビといえば恐ろしくも動きは鈍く、しかしそれゆえにじわじわと追い詰められてしまうという恐怖感が醍醐味でしたが、最近のゾンビはスプリントで追い込んでくるんです。画面の見映えが大きく様変わりしました。
 けれど、それはつまり追い詰められるという恐怖パターンが飽きられたということなのか?というと、よくよく考えてみたら案外そうでもなかったりして。結局人間側がどこかに立てこもって応戦する、お決まりの展開になるんですよね。ゾンビ映画って。

 人間の手がけるものは、長くつくられつづけるなかで、変容する部分と普遍の部分がしばしば混在するようになっていきます。それはいったいどうしてなのか? 何がきっかけでそうなるのか? 集団としての都合か、それとも個人の発明か? ――そういったことを考察するのが人文系の研究の面白さのひとつです。
 まあ、極端な話、生きものを観察するのも社会文化を観察するのも、本質的には大した違いはないんですよね。だから理系も文系も等しく学問として成立するわけで。

トピック1:ゾンビは何から生まれたの?

 ゾンビという概念自体の起源を問う出題ですね。

 「人間が蘇ってほしいという願いから生まれた、愛!」
 残念ながら周防パトラの回答とは真逆の発想です。

 ゾンビの起源はブードゥー教における呪術の一種とされています。
 この呪術は対象となる人間の尊厳を貶めるために行われます。生者に対してゾンビパウダーと呼ばれる毒薬を投与することで仮死状態に陥らせるとも、死者を蘇生させたうえで魂だけを封じるともされます。いずれにせよ、自発的意識を奪われた人物は農園などに売られ、奴隷として使役されるということになっています。

 なんだかあやふやな話ばかりになっているのは、ブードゥー教という民間信仰自体に込み入った事情があるからですね。ブードゥー教はキリスト教による弾圧を受けながら密かに信仰されてきた歴史があるので秘密が多く、また、そもそも成文化された教義を持つ“宗教”ではないため、一言でブードゥー教といっても地域や民族ごとにその内実が異なるんです。
 番組で紹介されたハイチでは現代でもブードゥー教が信仰されていますが、当然ながら「死者を弄ぶ」だの「奴隷として使役する」だのいう非人道的行為が現代社会に馴染むはずもなく、ゾンビの概念はブードゥー文化ではないものとして認知されています。

 それなのにゾンビという概念が広く知られるようになったのは、ジャーナリストであるウィリアム・シーブルックの著書『魔法の島』がアメリカで流行したからです。これを元ネタとした映画『ホワイト・ゾンビ(恐怖城)』の人気も後押ししました。民俗学研究としてのしっかりした土台が先にあって広まったのではなく、ひとつの報告がセンセーショナルに広まったあとでようやく検証されるようになった流れです。だから学術的にはあやふやなところが多い割に知名度だけがある。
 言ってしまえば文明人の悪いクセで、未開地域の土着文化を面白おかしく虚実織り交ぜて語った結果生まれたものが、ゾンビの本当の起源です。周防パトラの回答と違って妙に愛のない、現実離れしたひたすらおぞましいものとして語られているのもそのせいですね。

 「あの。シロ知ってるのが、イルカさんってフグ毒をキメることで脳内麻薬を出してテンション上げるらしいんですよ」
 ちなみに、ゾンビパウダーにはフグ毒(テトロドトキシン)が含まれているという報告がいくつかあります。(※ これもたいがい眉唾物の報告らしいですが) 猛毒で知られるテトロドトキシンも神経毒の一種ではあるので、麻薬と同じく致死量に満たない濃度で適切に投与すればトリップさせることもできます。これを利用して人間をゾンビ化させているのではないか、という話ですね。

 「あんたもフグの毒食ってんだろ。じゃねーと今までの発言とか合点がいかねえんだよな。フグの毒女だね。いつも本番前にフグの毒でキメて来てんだろ」
 大丈夫です。フグ毒キメて遊んでいたのは電脳少女シロではなく、神楽すずとかもこ田めめめとか金剛いろはとかあの辺です。(※ Minecraftの話)

トピック2:この映画で起きたゾンビの変化はなに?

 ウィリアム・シーブルックの『魔法の島』、さらにそれを元ネタとした映画『ホワイト・ゾンビ(恐怖城)』では、ゾンビは呪術師に操られる存在でした。
 しかしジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』ではそれまでと違う新しいゾンビ像が描かれ、このイメージが現代にまで至るゾンビのスタンダードとなっていきます。
 さて、では何が変わったのかというのがここでの出題。

 ちなみに『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は配給時の著作権表記ミスにより、権利周りがあやふやになってしまっている映画でもあります。権利者不在という解釈がなされて無断配信されていたりもしますが、さすがに大学の准教授が地上波放送でそんな雑なことをするわけにもいかず、今回の授業では「大人の事情」ということで映像は紹介されませんでした。

 「なんか、自我を失う・・・じゃないけど、本能のままに動く、みたいな」
 「えっとね。人格を持つゾンビが現れた」

 花京院ちえりと周防パトラの回答は正反対のことを言っているようで、その実どちらも正解。
 ここで重要なのはゾンビを支配する呪術師が登場しなくなり、ゾンビが自律的に活動しはじめたところにあります。

 『ホワイト・ゾンビ(恐怖城)』では呪術師がゾンビたちを統率していたので、彼らをひとつの目的のために行動させることができました。また、ゾンビを増やすことも呪術師の役目でした。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』以降はそんな重要な存在がいなくなります。
 では何のためにゾンビたちが行動するのか、というところで、ゾンビには「本能のままに人を食らう」という新しいキャラクター像が付加されることになりました。数を増やす方法も吸血鬼を参考にして「襲われた人間もゾンビになる」という設定に。
 結果、ゾンビ映画は続々と増えつづけるゾンビの群れに人間たちが必死の抵抗を続ける、というパンデミックものの要素を持つようになりました。
 冷静に考えると、人間を食べようとして襲っているはずなのに、一口囓って相手をゾンビ化させたら興味を失って次の獲物を探す・・・というのはなかなか意味不明な行動パターンです。ですが、細かい理屈抜きでとにかく「こんなのに襲われるのはイヤだなー」と観客に思わせることに意味があります。イヤ要素をこれでもかと詰めこんだからこそ、ロメロ監督の生み出した新しいゾンビ像は画期的で、その後の映画史に大きな影響を与えることになったんです。

 ロメロ監督が生み出した代表的なゾンビルールは以下の4点。

 1.人を食べる
 2.動きが遅い
 3.力が強い
 4.頭が弱点

 意外とそこそこ抵抗できはするんだけれど、結局数の暴力と力押しゴリ押しでじわじわ追い詰められてしまう、というのがまた絶妙にイヤ要素ですね。

トピック3:映画『28日後・・・』で起きたゾンビの変化は?

 2002年に公開された映画『28日後・・・』。この映画でゾンビ像はまたひとつ大きく変化しました。いったいそれは何か。

 「恋をした」
 自由すぎる電脳少女シロの発想。ですが、このあと紹介される映画にマジでそんなのも登場します。
 「ダイエットした。28日あれば、できる!」
 周防パトラの回答も同様。どんなに荒唐無稽な設定も探せば誰かがつくってるかもしれないと思わせるのがゾンビ映画とサメ映画。

 「わかった! 走ったんだ! なんか最近ってゾンビ動き速い気がする、そういえば。さっき『動きが遅い』ってあったけど、走りだしたんじゃないかな」
 正解は花京院ちえりの回答。今回の授業はゾンビ映画の歴史を順に辿っているので、出題されるようなターニングポイントを予測しやすい構成です。そして花京院ちえりはこういうとき意外によく話を聞いているタイプ。(※ 他のアイドル部が話を聞かないだけともいう)

 ゾンビが走るというのは情緒もへったくれもない気がするというか、真綿で喉を絞められるようなじわじわ感が損なわれそうなところもあるのですが、そこはそれ、ゾンビ映画の数が増えるごとに、人間側の対策もどんどん洗練されていきましたから。ゾンビが走るという掟破りをしたくらいじゃむしろゲームバランスがちょうどよくなるレベルといいますか。
 とにかく、邪道なようで意外といい感じの設定としてまとまったため、走るゾンビという新しいキャラクター像は人気を集め、2000年代以降のゾンビ像のスタンダードとなっていきます。

 ぼちぼちこの授業の主旨がわかってきたのではないでしょうか。

 ゾンビというのは要するに、何でもいいんです。面白くさえあれば。
 ある程度のお約束ルールがあるのもそれを守っていたほうが大抵は面白くなるからであって、面白い映画になりさえすれば多少ルール破りをしたところで観客は支持します。そもそもの原型からしてブードゥー教のゾンビ観を丁寧に再現したってわけじゃないですしね。リアリズムは割とどうでもいい。
 映画におけるゾンビ観は、単純に面白いかどうかで変化します。より面白い設定があれば時代のスタンダードとして流行していきますし、つまらない設定、使いにくい設定は映画1本残して忘れられていきます。
 このあたり、生物の進化と似ていますね。生物は種の存続を使命としますが、その一方で別に祖先の姿かたちを後世に残そうとなんか考えません。今の姿よりも子孫を残すのに有利な変異種が生まれたら、以後はさっさとそちらに乗り換えていきます。逆に生きづらい個体はそのまま野垂れ死にー。

 人文系の研究というのはしばしばこういう発見に巡りあうものです。
 人間のすることだから、きっちり理性に支配されていそうとか、一部の著名人が全体の流れをコントロールしていそうとか、なんとなくそういうイメージを持ちがちですが、実際はこんなもの。歴史の流れを俯瞰してみれば意外にも自然界とよく似ています。一定のルールのもとでシステマチックな挙動をします。
 だからこそ、ゾンビ映画の歴史などという卑近な題材すらも学問としてしっかり成立するわけで。

トピック4:ゾンビ作品によく登場する場所は?

 花京院ちえりは「倉庫」、電脳少女シロは「ショッピングモール」、周防パトラは「病院」とそれぞれ回答しました。
 このどれもが正解。ゾンビ映画にはありふれた日常の風景がとんでもない非日常の舞台に変わるという面白さも含まれています。バリケードを張って、武装化して、いつも見ている光景とは似ても似つかない姿に様変わりするもの悲しさ。あるいは男の子ロマン。

 先生がこの出題をしたのは映画の文法の話題の他、どうやらもうひとつ狙いがあったようです。
 ロメロ監督の初期作『ゾンビ』のロケ地となったモンロービル・モールが紹介されました。だいぶ上のほうでもサラッと紹介しましたが、岡本先生はゾンビ学だけではなく、聖地巡礼の研究も行っています。このモンロービル・モールは世界中のゾンビ映画ファンに愛され、現在ではゾンビ映画ファンの聖地となっているようですね。モールのほうも乗り気でロメロ監督の銅像を展示しているほど。
 映画のロケ地なんて、別に最初から観光地化を狙って選定されるようなものじゃないんですが、結果としてこうなりました。
 多くの人が面白いと思うものはどんなものも自然とこうなります。ゾンビという題材が面白ければ映画化されますし、原型からどんどん逸脱して進化もしていきますし、聖地巡礼が面白いのなら映画製作者が意図していなくても勝手に人が集まりますし、そのうち銅像だって建てられます。

 ただ“面白さを追求する”というシンプルなルールのもとに。まるで最初からこうなることが決まっていたかのように、結果だけ見れば整然と。

トピックex:先生オススメのゾンビ映画

 最後に『ウォーム・ボディーズ』という映画が紹介されました。
 善玉のイケメンゾンビが人間と恋に落ちるストーリーです。
 イロモノにもほどがありますが、オタク的には猛烈に既視感のあるパターンですね。

 あれだ。“勇者と魔王”とか、“魔法少女”とか、“巨大ロボット”とか、あのあたりのとことん使い古されたテンプレートから、あるとき突然奇を衒いまくったパロディ作品が出てくるあの感じ。日本以外でもやっぱりそういうのってあるんですね。
 ですが、意外とこういうところから後の世のスタンダードが誕生することもあるので侮れません。この『ウォーム・ボディーズ』も、電脳少女シロたちの反応を見るかぎりどうやら面白い映画みたいですしね。

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