僕は決めたよ、命の使い道。――あの顔の付いた機神兵を追う。
(主観的)あらすじ
突然の警報。機神兵が1年の沈黙を破って攻めてきました。
マグ・メルドの遺跡で警報音を聞いたシュルクたちが急いでコロニー9へ駆けつけると、そこに地獄のような光景を目撃します。機神兵が、人間を食っている。
シュルクとラインはダンバンと合流して襲い来る機神兵たちを迎え撃ち、フィオルンは自走砲を起動するために走りました。
混戦のさなか、運命に導かれるようにしてモナドを手に取ったシュルク。不思議なことに、不適合の痛みに耐えてモナドを振るっていたダンバンと異なり、シュルクはモナドの秘められた力を発現することができました。
それは未来を視る力――。
しかし、今は戸惑っているときではありません。今必要なのは機神兵の装甲をいともたやすく斬り裂くモナドの威力。シュルクたちはフィオルンと合流するべく、住宅区画への血道を斬り開いていきます。
住宅区画でシュルクたちの前に立ち塞がったのは、これまで見たことがない姿をした全身真っ黒な機神兵。
どの機神兵より速く、鋭く、強靱で、それでいてまるで獲物をいたぶって楽しんでいるかのようにゆるりとコロニー9の人々を斬り刻む獰猛さ。他の機神兵には無い、首上に据えつけられた仮面のようなパーツが、まるでニタニタと笑っているようでした。
奇妙なことに、その機神兵にだけはモナドの斬撃が通用しませんでした。薙ぎ払われ、地面に叩きつけられるシュルクたち。
そこに、自走砲に乗ったフィオルンが現れました。
絹を裂いたような悲鳴がコロニー9の空に響きわたります。
フィオルンは黒い顔付きに嬲り殺され、機神兵たちに食われました。
黒い顔付きはシュルクたちを捨て置き、用は済んだと言わんばかりにどこかの空へと去っていきました。
数日。
傷ついたコロニー9の外れで、シュルクはラインと会っていました。
先日、ダンバンの見舞いに行きました。英雄ダンバンはシュルクの顔を見ても恨み言ひとつこぼさず、むしろ妹が身を挺して守ったその命を大切にしてほしいと願ってくれました。
フィオルンのくれた命の使い道――。シュルクは、あの顔の付いた機神兵を追うために使うと決めていました。もしかしたら友人思いのラインは止めるかもしれない。だとしても、シュルクの決心は固く定まっていました。
その決意の言葉を聞いたラインはたまらず吹き出しました。だって、ラインもまた、同じことを考えていたのですから。
こんなときでも妙なところで気の合う親友ふたり。
ひとしきり笑いあったあと、シュルクとラインはコロニー9を旅立ちます。
この時期のラインの強さは異常。(シュルクとフィオルンが弱いだけともいう)
なにせひとりだけカーボンバンカーとかいう巨神脚でも余裕で通用する武器を手に入れますからね。他のふたりと攻撃力が倍近く違います。ちょっとがんばれば重装備もできるようになって攻守ともに隙は無し。本職の防衛隊員たる面目躍如というものです。
・・・なのに、気がついたらヘイトを奪って勝手に死んでいるフィオルンの不思議。
かくしてシュルクは復讐のために旅立ちます。
個人的には復讐譚って全然好みじゃないので初プレイ当時は色々と複雑な心境だったんですが、彼のためを思うとそれもまたけっして悪い決断じゃないなとも思ってしまって、なおさら複雑なところ。
命を大切にするって、たぶん、ただただ長く生きるってことじゃないよなあって。毎日寝て起きてウンコするだけの日々を、それで大切に生きたと誇る人にはなれないよねと。誰かに認めてもらえるほどカッコいい生きかたができるのはほんの一握りの人だけかもしれないけれど、せめて自分では自分の人生に納得して死んでいきたいものです。
だったらそのための道標は、復讐とかいう血なまぐさいものであってもいいかもしれない。それで自分の人生に自分なりの意味を見出せるならば。「何のために生まれて、何のために生きるのか。答えられないなんてそんなのはイヤだ!」っていう、アレですよ。
まあ、『ゼノブレイド』ってそんな凄惨な物語じゃないんですけどね。
命の使い道
「1年前、俺は今日と同じくらい深い喪失感を味わった。あの戦いでたくさんの仲間たちが帰らなかった。動けない身体でここへ運ばれてくるまでの間、あいつらのことばかり考えてたよ。・・・だが、泣かないと決めた。あの決戦で死んでいった彼らには守りたいものがあったんだ。家族や恋人や故郷、それらを守って戦ったんだ。そして、勝利した。――どんなに辛くても悔しくても、悲しむことはない」
そう語るダンバンの傍らには1枚の写真。自分と、ディクソンと、それからムムカの肖像です。ダンバンとディクソンはまだ健在ですから、ここで彼が思う人物というのはムムカのことになるでしょうか。
「悪いなあ! 機神兵どもの狙いはてめえのソレ、モナドだ! せいぜい気張ってやつらを惹きつけておいてくれよ! この俺のためにさあ!」
土壇場で盛大に裏切ったんですけどね、あの男。
それでも人のよすぎるダンバンは彼のことを今も友人だと考えています。
裏切っておいて結局野垂れ死んだ彼の生き様に、ダンバンはいったいどんな意味を見出したんでしょうか。
きっと、それでも彼の死に自分なりの意味を見出そうとしたんでしょう。まったく無意味に、大義も祈りも誇りもなく、ただただ無様に死んでいったのでは、それこそ悲しすぎますから。
ただの裏切り者と切って捨てるのでは、静かに死を悼んでやることすらできなくなってしまいます。
「シュルク。フィオルンは後悔していないはずだ。あいつは俺たちを――、いや、お前を守りたかったんだ。そしてお前は生きている。だから、俺は泣かない。フィオルンがくれた命。そう思って大切に生きてくれ。・・・頼む」
死んだ者はどうせ何も思わない。そういう考えかたもあります。
死んだ者のために何をしてやろうとも結局喜んでくれはしないのだから、復讐なんて無意味だと。そんなことのためよりも自分のために生きてほしいと。
正しいと思います。もとより人は自分のためにこそ生きるべきです。他人を喜ばせることが自分の幸せにもつながるから、人は支えあうのであって。
だからこそ。
死んだ人のために何もしないというのは、それはそれで正しいことでしょうか?
生前は彼らを喜ばせることが自分の幸せにもつながっていました。では、彼らが死んだなら、それ以降私が彼らのためにしてやろうと思う何もかもは、私にとってまったくの無意味でしょうか?
いいえ。だって、あれをしてあげたらよかった、こうしてやればよかった。心のなかに次から次へと後悔の泡が湧きあがってきます。私なら、死んだ人のためにでもやっぱりたくさんのことをしてあげたい。
彼らが本当にそれを喜んでくれるかどうか確認する術はありませんが、私は私のために、そう思う。
「まだ、わかったとは言えません。でも・・・、わかりたいと、思います」
「それでいい。――俺もずっと、わかろうとしている途中だ」
復讐なんて非生産的な行為です。
死んだ人が何を思うかだなんて知ったこっちゃありませんが、少なくとも死んだ人のための行いが何か物理的な利益をもたらすことはありえません。むしろ誰かを傷つけるだけ、新しい憎しみを生み出すだけ、トータルで損です。復讐なんてろくなもんじゃない。
そのくだらなさに見合うだけの自己満足が、復讐という行為を通して得られるでしょうか?
「頭のなかにふたりの僕がいるんだ。ひとりはそう言ってる。ダンバンさんの言葉をちゃんと聞けって」
「もうひとりは?」
「あいつらを許すな! あいつらをやっつけろ! ――って、ずっと怒鳴りつづけてる。それも、こっちのほうがずっと声が大きいみたいだ」
もし得られるというのなら。
それがあなたが善く生きることに寄与するというのなら、それであなたが幸せに生きられるというのなら。それはきっと、間違った行いではないんでしょう。たとえ復讐だなんていう不毛な行いであったとしても。
私は復讐譚が嫌いなんですが、シュルクが復讐のために旅立つといったとき、不思議とそこまで嫌悪感は抱きませんでした。
それはどうしてだろうって当時は色々と考えてみたものですが、たぶん、その答えはこうです。
シュルクは自分のために復讐を誓った。
フィオルンのためだと無益な行いの言い訳をするわけではなく、フィオルンのためにと自分の人生を犠牲にするつもりでもなく。
自分のための行いだとはっきり自覚しているからこそ、彼の決意を前向きに捉えることができます。
そしてその思いが誰にも縛られない、彼だけの自由なものであるからこそ、この先シュルクは――。
コメント