
“永遠の大樹に誓う”なんて、絶対やってみたいやつだよ!

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(主観的)あらすじ
すこやか市には永遠の大樹の伝説があります。小高い野原にある大きな木の下で友達と友情を誓いあうと、その友情は一生のものになるんだとか。
のどかたちは今さら自分たちの友情を疑うこともありませんが、なんだかワクワクするのでやってみたいと思いました。
ところが、永遠の大樹は朽ちかけていました。このあいだの嵐でひどく傷つき、もうすぐ切り倒されてしまう予定なんだそうです。木を見てガッカリするのどかたちに、偶然知りあった哲也老人が「永遠なんて信じるな」と忠告します。
かつて哲也老人も若いころ友達と3人で永遠の友情を誓いあったそうです。ところが、今は1人。ずいぶん昔にケンカ別れしたきり。その後友達2人は結婚していて、今では関係性自体が大きく変わってしまいました。
木のエレメントさんとのどかたちで3人をまた再会させたいとがんばってみましたが、当の本人たちがそれを望まず、うまくいきません。
本当に永遠の友情なんて存在しないんだろうか。のどかは不安になりました。けれどそんなとき、ひなたとちゆが誓いあおうと誘ってくれました。
のどかたちは改めて哲也老人たちを再会させたいと作戦を考えました。永遠の大樹が切り倒される前にお別れのフェスを開けば、3人とも集まってくれるかもしれない。のどかたちは永遠の大樹の伝説を信じることにしたのでした。
そこにメガビョーゲン出現。奇しくも哲也老人とその友達は大樹を守るべく集まり、再会することになりました。けれど元々弱っていた永遠の大樹は病気によって最後の元気を奪われ、完全に朽ちてしまいます。
悲しむのどかたちに、哲也老人の友達が声をかけてくれます。大樹の根元にはまた新しい芽が顔を出していました。永遠の大樹は本当に永遠で、そして一時は断ち切れていたと思われた哲也老人たちの友情もまた、永遠だったのです。
多くの動物とは異なり、植物にはテロメアがありません。幹細胞複製のたびに消費され、“命の回数券”とも呼ばれるテロメアが無いということは、理論上は寿命がないという意味となります。実のところ、樹木に寿命というものは存在しません。条件次第では本当に永遠に生きつづけられます。
少し前に全国のソメイヨシノが一斉に寿命を迎えるかもしれないと話題になったことがありましたが、あれは津々浦々のお花見による環境負荷が原因で樹勢が衰えていたり、この品種が接ぎ木によるクローン複製体であるため全ての個体が同じ病気に弱かったりといった、複合的な事情によるものです。正しい処置の行われている公園ではソメイヨシノが寿命を迎えようとしている兆候すらありません。というか、そもそも樹齢100年を超える桜の木なんていくらでもあるわけで。
大昔から、人は古木に永遠性を見出し、それにあやかろうと様々な祈りを捧げ、あるいは願いを託してきました。
別にそんなことしたって人間の寿命が有限である事実は覆らないし、思いすらも時の流れに翻弄されて簡単に揺らいでしまうものなんですけどね。そんな現実に晒されながらもなお、人は永遠たることを望み、欲してきました。
ある人はどうせ願いは叶わないといいます。なにせ厳然たる事実ですからね。当然です。
けれど、またある人は願いが叶ったといいます。叶うわけないのに、叶ったんだといいます。本当に幸せそうな顔をして。
永遠とは何か。
これもまた、ひとつの視点から見ているだけでは気付けない、たくさんのかたちがあるお話です。
あなたは樹木に寿命がないという話、知っていたでしょうか? (私はガリベンガーVで最近学びました)
みらいのともだち
「今さら誓いあわなくても、私たちとっくに親友だし、仲間だし」
「パートナーだしラビ」
「それはそうだけど・・・。“永遠の大樹に誓う”なんて、絶対やってみたいやつだよ!」
どうして?
今回、のどかたちは友情を誓いあう必要性を感じていないままに永遠の大樹を訪ねました。
それは単にロマンチックだったからかもしれません。
想い出づくりなのかもしれません。
いつもの遊びの一環でしかないのかもしれません。
ただ、少なくとも将来自分たちの友情が壊れるかもしれない、なんて不安は一切感じていませんでした。それなのに友情を誓いに来ました。必要のないことをすることに何らかのステキさを感じていました。
それはいったい何? どうして?
そもそもこんな小っ恥ずかしい儀式をするのなんて大抵が元々仲のいい友達同士です。
友情が壊れるかもしれないと切実な不安を抱きながらこういうことをするって話はあまり聞きません。
これから仲よくなるために誓いを結ぶというのも少なくとも私は聞かない話です。
こういう誓いというのは、そもそも自分たちの今の友情が永遠に続くことを確信しているからこそ行われるものです。
私は子どものころ血の盟約に誘われて拒否したことがあります。メンバーのなかに何故か名前もろくに知らない友達の友達が混じっていたので。現時点で友達じゃない人と血を混じらせあい誓いを立てるというのは、正直いって気持ち悪いなと思いました。
「私、杉崎史は大樹に誓います」
「長野日出夫は誓います」
「なんだか小っ恥ずかしいな・・・。コホン。木戸哲也は誓うぜ」
「永遠に、友達でいることを!」
かつて、のどかたちの他にも永遠の友情を誓いあった人たちがいました。
けれどその人たちは今、もう友達じゃなくなったんだといいます。
「人生の先輩からひとつアドバイスだ。永遠なんて信じるな」
そんな乾いた言葉まで口にします。
こんなに説得力がある言葉もなかなかないでしょう。
なにせ現実に哲也老人は友達を失い、そして永遠の大樹すらも現実には永遠じゃなかったんですから。
彼らがケンカ別れした理由は語られません。なぜならこれはごくありふれた話だからです。哲也老人たちだからケンカしてしまったという例外的な話ではないんです。
回想カットを見た感じだと三角関係というわけですらないんでしょうね。文さん、どちらにも肩入れしていませんし。その後結婚までした彼らがすでに終わった話として飲み下せていますし。本当に些細なことで決定的な仲違いをしてしまい、哲也が姿を消したあとで恋愛関係になったというところでしょうか。
これはのどかたちの間にも起こりうること。
だからこそ、のどかは急に不安を感じはじめます。
「ふたりは喫茶純にいます。2時頃にいつも来てるんです。だから! だから、会いに行ってください! そうすれば、そうすればきっと・・・!」
「40年ぶりにこの町に帰ってきた。じきにまた町を出る。ここにはもう戻らん。だからいいんだ。もう、終わったことだ」
「だったら! どうして毎日ここに来てるんですか。約束を信じてるからでしょう。永遠の友情を信じてるからでしょう!?」
縋ります。頼みます。食い下がります。
だって、彼らは未来ののどかたちだから。
友情の永遠たることを信じて疑わず、なのに現実には仲違い。そんなのイヤです。変えたいと願います。確証がほしい。こんなの違うって。ウソだって。本当は仲直りできるんだって。友情は永遠なんだって。今信じていることを、未来にまで信じさせてほしい。永遠なんて信じるな、だなんて認めたくない。
けれど、哲也老人は信じさせてくれません。
何も語らないまま、彼の影が冷たく現実を指し示します。
かつて永遠の大樹を信じて訪れた彼の延長線上に、幻想を失い去り行く彼の今がある。
「・・・恐くなったの。いつか私たちも友達でいられなくなっちゃう日が来るんじゃないかって」
こころのともだち
「悪いけど、大樹には行けないよ」
「生きるということは変わっていくことなの。今さら顔を合わせても、私たち、もうきっと話すことなんて何もないわ」
「40年ぶりにこの町に帰ってきた。じきにまた町を出る。ここにはもう戻らん。だからいいんだ。もう、終わったことだ」
時とともにすでに関係性自体が変わっていて、たとえ気持ちだけでもあの頃に戻りたいと願ったとて、もう元には戻れない。
行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。
月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり。
時間は戻りません。物理的な繋がりはおろか、心の繋がりですらも現実には時間とともに変遷し、しかも不可逆です。
あのとき永遠の友情を誓いあったはずの3人の思いは、もうここに残っていない。
永遠なんて信じてもバカをみるだけなんでしょうか。
元々何の意味もない誓約です。哲也老人の言うとおり、最初から信じないほうがいいんでしょうか。
そのほうがきっと、誰も傷つかないで済むから。
いいえ。
「誓おう」
ここで最初に提案するのがひなただというのがいいですね。
彼女は失敗だらけの人生を歩んできました。自分のせいで周りに迷惑をかけてしまうことが苦手で、誰よりも失敗に対して臆病です。
だけど、この子が提案します。
「今さら誓いあわなくても、私たちとっくに親友だし、仲間だし」
「パートナーだしラビ」
「それはそうだけど・・・。“永遠の大樹に誓う”なんて、絶対やってみたいやつだよ!」
のどかたちは友達です。哲也老人と知りあう前まで自分たちの友情が有限かもしれないだなんて疑っていなかったし、誓いあう必要なんて感じていませんでした。
どうして友情が壊れるだなんてことがありうるのか。それは、お互いがお互いのことを嫌いあわなければ起きないはずのことです。のどかたちはお互いのことが大好き。嫌いになる未来なんて想像もできない。だから、わざわざ改まって誓いあう必要なんてない。
自分たちの心が定まってさえいるならこんなの何の意味もないこと。
違うんですね。
それでも、のどかたちは永遠の友情を誓いあいたいと思って永遠の大樹を訪れました。
だって、これは祈りなんです。願いなんです。
どうかこの身に永遠なるものが宿りますように。
現実にそういうものがありうるかどうかだなんて関係ない。それでも求めるんだという敢然とした決意です。
「私、花寺のどかは大樹に誓います」
「沢泉ちゆは誓います」
「花寺のどかは誓います」
「永遠に、友達でいることを!」
誓おう。
“私が”友情を永遠たらしめんと努力することを。
また失敗するかもとかそういうのは関係ない。自分にできるかとかそういうのも関係ない。現実に永遠というものがありうるかだなんて関係ない。
私が望むから、私がやるんだ。
「そっか。あの3人は再会できなかったラビ。・・・でも、のどかたちはがんばったラビ。木のエレメントさんもきっと納得してくれてるラビ」
「私たち、まだ諦めてないよ」
のどかたちは、のどかたちが友達でいたいと思ったから、今、友達です。
哲也老人もその友達も、かつて誓った友情にどこか思い入れが残っているようでした。お互い友達でありたい心がまだあるというのなら、どんなときでも、何があっても、諦めていいはずがない。
永遠のともだち
「今から始まる新しい世界へ。時を超えて、力合わせ、つながる絆。みんなで笑える幸せを信じて、ぎゅっと固く結びあった熱い友情」
「転んでも立ち上がり、紡がれる伝説。未来まで駆け抜ける、永遠の友達。プリキュア!」(『プリキュア~永遠のともだち~』)
いつか私たちも友達でいられなくなっちゃう日が来るかもしれない。
そう。可能性はあります。
けれど、それを決めるのはのどかたちです。
今ののどかたちじゃなくて、未来ののどかたちではあるけれど。だから今どんなに誓約を交わしあったところで未来を保障することなんてできないけれど。それでも結局のところ、決めるのはのどかたちです。いつだって。どんなときだって。
だから、永遠を信じたいなら信じたらいい。
信じることで、それはのどかたちのなかで現実になるでしょう。のどかたちのなかでしか意味のない現実だけれど、現実のなかで何かを決めるのはいつだってのどかたち自身です。だから、のどかたちのなかでさえ永遠が現実に存在するのであれば、それだけで永遠の友情は実在しうる。
とはいえ、現実的にはのどかたちと同じく永遠を誓いあった哲也老人たちの友情は、永遠に守られることなく、儚く壊れました。
いいえ。
一度壊れたからって、たかがそれだけのことで友情が永遠じゃないだなんて誰が決めた。
のどかたちは永遠を信じることにしました。
哲也老人たちの友情がどうなったか知ってなお、諦めないことに決めました。
「ね。お嬢さんたち、ごらんなさい」
「枯れた大樹から新しい命が!」
「永遠の大樹は、本当に永遠なんだね!」
「ふわぁ、自然の力ってすごい!」
多くの動物とは異なり、植物はどの部位の細胞からでも全身を復元することができます。いわゆるiPS細胞と同じ働きですね。特に新芽は生長速度が速いので、ここからまた何十年何百年とかけて大樹を蘇らせていくことでしょう。(こんな盛大に枯死した巨木をお役所が放置するわけない、というツッコミはさておき)
結局のところ、未来を決めるのはのどかたち自身です。
色々と理不尽な干渉があったり、ままならないこともたくさんあるでしょうが、それでも都度都度に自分の目指すべき未来を決定していくのは、いつだって自分自身です。
信じたいものを信じればいいし、諦めたくないことがあれば諦めなきゃいい。何かを望む心がいつか未来をつかむでしょう。
そう。まずは望むことです。
負けないこと。守ること。夢を叶えること。あるいは、誰かを許すこと。
「ねえ。ケンカしないで済む方法ってないのかな」(第15話)
自分が一番幸せになれる未来を追い求めてみたらいいと思います。
コメント
植物って受粉以外の方法でも増やせるとはぼんやり聞いたことありますが、なるほどそういう命の仕組みなんですね。
たしかにこれはめっちゃロマンを感じます。
今回のお爺様たちの話は普通に痴情のもつれだと思い、主さんの視点には少し虚を突かれました。
私はなんとなく、哲也さんのお子さんまたはお孫さん辺りが結婚することになって思い出したとかかなーと考えてます。
いずれにせよ仲直りできてよかったですね。
……ところで何故2話連続で、仲直りという題材を扱ってるんでしょ?
雑草なんて土の上に出ている葉や茎を全部むしっても根っこが残ってるとまた生えてきますもんね。
ちなみに朝顔とかの一年草が枯れるのは寿命とはまた別のメカニズムだそうで、種ができると枯れるスイッチが入るんだとか。
老人たちの関係性については、そもそも今話自体のテーマが永遠についてだったので、仲間同士での結婚=元の関係には戻れないという意味合いを持たせたいんだろうなというメタ考察ありきです。そこに痴情のもつれという要素が加わると元の関係に戻れるか以前にお互いを許せるかの問題になってきちゃうので、そんな無意味にややこしい設定はつけないだろうなと。
仲直りというか、関係性の断絶からの回復ですね。
現状のどかにとってビョーゲンズが完全に共感不可能な敵になっていて、オープニングで示唆されているような手を差しのべる展開になりようがないので、そういう相手とのコミュニケーションを段階的に学ばせているところなんだろうなと予想しています。友達→ケンカ別れ→再構築という流れなら、今は関係性が断絶して気持ちを通じあえない状態であっても、いつかまた心通わせられるはずだと信じられますからね。その場合ケンカ中の友達とビョーゲンズとの違いって、つまるところ過去の積み重ねがあるかどうかだけなので。
命、は永遠に続くものではない。人の命は有限であるものーーーーーーそういうことは沢泉ちゆも平光ひなたも知っている。「知識」としては。「知識」として知っていても「実感」はないと思うんですよ、年齢的に。
ところが花寺のどかは「知識」以上に「実感」として、命の有限性を思い知らされているんですね。幼くして生死の境を長いこと彷徨ったせいで。
で、普通、人が命の有限性を「実感」し始めるときって、ある程度歳をくって、達観だの諦念だのを身に付け始める時期でもあって、「永遠の不在」を実感しても気持ちの上で折り合いをつけられるようになってくる。今話の御老体の皆さんのように。……それでも完全に悟り切れてるわけではなく、まだまだ未練は残っているわけで……。
つまり、のどかって「本来、命の永遠性を無邪気に信じることが許されている」筈の年齢で、「達観だの諦念だのという悟りの境地にたどり着くには若すぎる」人間であるにも関わらず、命の有限性を心に刻みつけられたーーーーーートラウマで、永遠性に対する過剰な執着(=有限性に対する過剰な恐怖)を抱えるようになっちゃったんじゃないかと思います。命であれ、命の”派生品”とも言える友情とか作品とかであれ、その永遠性が脅かされる事態を一切座視出来ず、ムキになって有限性を否定しようとする強迫観念に取り憑かれてしまったのではないか、と。
そう考えると、当初は「永遠の友情の誓い」にさほど乗り気ではなかったひなたが一転「誓い」を主導し始めたのも、同じ「過去のトラウマから強迫観念に取り憑かれた」者として、のどかの不安に(かつてのどかが自分にしてくれたように)寄り添おうとしたから、と理解出来てくるわけなんですが、はてさて。
のどかの場合はそれこそその永遠性に固執してしまっているのが問題なんですよね。何もかも永遠に変わらないのだとしたら、ビョーゲンズのように現状理解できない相手はこれからも永遠に理解できないってことになってしまう。治療不可能と思われていたのどかの病気だって死ぬまで治らないということになってしまう。
あの子が信じるべき“永遠”のかたちは、哲也老人たちのように関係性は移り変わりながらも友情自体は続いていくありかたです。彼女にはああいうのを信じてほしい。
その文脈だとひなたなんて特に最悪ですよ。あの子、これまでずっと失敗ばかり経験してきたんですから。それが永遠に続くとなると完全にお先真っ暗。ただの生き地獄です。
そんな彼女が永遠の友情を誓ってくれるというのは本当に良いですね。
それは“永遠を信じる”という行為でありながら、昔と違って自分がもう失敗しないことを信じることです。流転することを歓迎する永遠性のありかたです。