亜人ちゃんは語りたい 第10話感想 好意の視点と科学の視点。

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倫理がなんだ。当事者がオッケーならそれでいいじゃねえか。

とりとめなく

 「キスした経験が・・・」「うん」 ひかりのこの気の緩みきったアホっぽい口調が好きです。彼女のように意図的に道化を演じているキャラクターは大抵理知的な味付けがなされているものですが(例えばゆゆ式の野々原ゆずこ、ハートキャッチプリキュア!の来海えりか等)、ひかりに限ってはそういう知性の色が一切感じられません。
 もちろんひかりがただのアホウというわけではありません。ひかりは聡明です。アホウに道化は演じきれません。彼女は理知ではなく、感性によって道化を演じています。道化としては少し珍しいタイプ。道理と論理ではなく、直観と共感を通じて、自分の望ましい立ち位置を見定めるです。・・・たぶんね。

 「なーんだ、ほっぺかあ。私も妹によくされるしなあ」 そこで緩むな緩むな。現象的には唇と唇の接触と、唇と皮膚の接触にそう大きな違いはありません。ではなにが事態の重さに影響を及ぼすかというと、それは行為者がキスにどんな意味を込めたか、あるいは被行為者がキスにどんな意味を感じ取ったかにあると思います。緊急時のマウストゥマウスはキスとしてカウントされませんが、騎士がお姫さまに捧げる指先へのキスは立派なキスです。
 エラく回りくどい言い方をしていますが、要するに日下部さんたちが追求するべきは唇かほっぺたかという些末な論点ではなく、ひかりの内心や鉄男の反応についてもっとツッコんでみるべきだと思うんですよ! ひかり視点じゃどうせろくな答えは返ってきませんが!!

 「京子ちゃん、ちょっとお風呂のお湯をみてくれる?」 私ならテレビの音声が自分の返事でかき消されるのを嫌がって、返事も報告もしません。ちょうどよさげなら黙ってお湯を止めてフタして、CMが始まってから改めて報告に行きます。(コミュ障&自己チュー&偏屈) そして叱られます。

 教頭先生。いかにも悪役って感じのカクカクした顔立ち。少なくとも鉄男の亜人ちゃんたちとの語りあいをよく思ってはいなさそうです。アニメ版のラスボス的な立ち位置でしょうか。どういう役回りを演じるのかはまだわかりませんが、この物語、そろそろ鉄男と対立する視点も必要だと思うんですよね。
 鉄男が正しい、正しくないという問題ではなく、彼の思想はあまりにも亜人に対して好意的すぎ、それはそれで案外視野が狭いんです。マイノリティを個性として受け入れる姿勢はステキなものです。けれど、それだけではマイノリティがハンディキャップになってしまう現実と充分に折り合いをつけることは難しいでしょう。

 首を落とす町。180cm程度の高さを飛び降りて死ぬ人間はあまりいませんが、もし頭から落下したなら話は別です。デュラハンの性質は常にそういうリスクを負っています。多少便利な側面があったって、その致死性のリスクを否定する材料にはなりえません。町は一生涯、そういうリスクから目を背けずに折り合いをつけていくんでしょう。
 仮にデュラハンがありふれた存在だったならもうちょっと生きやすいんでしょうけどね。酔わない固定具が開発されたり、あるいはあらゆる床材をクッション素材にしたり、社会の方からある程度の折り合いをつけてくれるかもしれません。けれど現実は違います。デュラハンは世界に3人しかいません。

 「安心して見ていられるわけがないだろう! そういった慢心が、いつか取り返しのつかない事故に繋がるんだ! 気をつけろ!」 亜人に対して当然に親身だった鉄男のいつもの視点では、こういうとき問題に対応できません。結果、彼はいつもと違う対応を取らざるをえず、そして町から充分なコンセンサスを得ていなかったその発言は単に彼女を動揺させるばかりで、教育的効果なんて望むべくもありません。
 鉄男の言っていることは何も間違っていないんです。ただ、彼らしくなかっただけで。彼の築いてきた信頼関係のかたちから逸脱していただけで。

 アジサイ。花言葉は「移り気」。咲き始めが青く、やがて紫色、散り際は赤と、段々に色が移り変わっていくさまに由来します。いつも優しく穏やかな鉄男だって、ときと場合によっては違う一面が顔を出すこともあるでしょう。それに驚いて距離を離すか、それともそういう鉄男も受け入れてまた近づくかは町次第。

 「まっちーは怒られるの嫌?」 ひかりは聡明です。怒られるのなんて誰だって嫌に決まってる。それでもあえてこのタイミングでこういうことを聞くのは、町の内省を促すため。
 そう、町は怒鳴られたこと自体を悲しんでいるわけではありません。鉄男の意外な反応に動揺して、いろんな感情がない交ぜになってしまっただけです。今の彼女に必要なものは慰めでも励ましでもなく、心の交通整理。

 鉄男を連れてくるひかり。そうして心の交通整理が終わったら、今度は人と人とのすれ違いの交通整理。仲直り。
 ・・・それはいいのですが、空気を変えるためとはいえもうちょっとスマートなおどけ方できないんでしょうかこの子は。

 相馬。なんというステレオタイプな物理学者。何を口走るにしても手近な理論に他の理論を重ねて遠大に推論し、そのくせ不確定な範囲に関してはあっさりと「~だろう」「なんとも言えん」などと認めてしまう。弁証的で唯物論的。
 同じ理系でも、自分の目で確認した事実を収集することに主眼を置くフィールドワーカー気質な鉄男とはまた違ったスタンスです。
 理系のデキる人ってすさまじく頭が柔らかいですよね。世界観に余計なフィルターがかかっていないというか。その分考え方がやたらまどろっこしかったりもしますけど。

 ワームホール。このあたりのSF物理学は私の理解の埒外。相手が高次元の存在なら、私たち3次元の視界の持ち主からでもとりあえず3次元の姿形には見えるんじゃないかと思ってしまいます。例えば私たちを写真に写せば2次元的な姿形として切り取ることが可能なように。どうして高次元の存在が不可視になってしまうのかがわからない。次元が高次なのではなくねじれの位置にいるならわかるんですけどね。薄い紙きれを真横から見たらほぼ視認できなくなるのと同じで。

 「声帯がなきゃ人はしゃべれない」 同時に、声帯を震わせて声を発しているということは、喉の向こう、肺から声帯へ呼気を送っていることの証拠でもあります。この点からも町の喉が頭部と胴体を繋いでいることを証明できますね。

 「人間の意志は減少に影響を及ぼす!」 物理学者が量子のどんな挙動に何を見出しているのか知識がないのでなんともいえませんが、これまた私にはピンとこない仮説。なんで主観の問題を客観にまで拡張させるんでしょうか。
 有名な思考実験の『シュレディンガーの猫』もそうですが、別に私が猫の死を観測したからって他の人にとっても猫の死が確定されたわけじゃありませんよね? 仮に猫の死を観測した私の報告によってあなたが猫の死を確認したというなら、それはあなたが私の報告によって猫の死を観測したに過ぎず、私が自分の目で猫の死を観測したことと本質的に何も変わりません。どちらにしたって私にとってはそれぞれの主観の問題です。
 私の主観世界が私の意志によっていくらでも変容しうることを、私は知っています。他人の意志によって変容することもありますが、それは私の主観がそれを観測したからに過ぎません。私の観測が、それを他人に観測されることなく私以外の主観に影響を及ぼすとは到底思えないのですが・・・。
 これ以上は勉強が足りませんね。

 「すごく面白かったです」 私も面白かったです。こういう思考ゲームみたいなの好き。ただし自分語りが飛躍的に増えてしまうのが難点。

 「倫理がなんだ。当事者がオッケーならそれでいいじゃねえか」 私は完全にこのスタンスですが、やっぱり危うさはあるでしょうね。先の町の首が落ちた件のように、当事者がリスクを過小評価した結果、予期せぬ不幸を招きうる可能性もあるわけですし。倫理というのは社会的・観念的なリスクヘッジとして機能します。

 「未来を見据える学生の姿はかくも美しい」 未婚でも比較的容易に立ち会える、子どもがまばゆく輝く瞬間。自分に子どもがいようといなかろうと、よりよい未来を子どもたちにプレゼントするために大人たちは頑張っています。・・・いろんな価値観や方法論を抱えて日夜ケンカしています。
 ところで町はまだ高校生なので「学生」ではなく「生徒」ですよ。(※注:教育制度上の定義でしかありません)

 「町君が普通の人間になることも可能かもしれない」 その場合、デュラハンである現状に最適化された町の個性はどうなるんでしょうね。頼り上手なところとか、甘えたがりなところとか。
 もちろん本人は相応に適応していくんでしょうけれど、その変化を周りの人は喜ばしく思うのか、あるいは寂しく思うのか。なんにしても人間を形づくる複雑怪奇な構成要素は都合よく1要素だけを抜き出して変えることなんてできません。ひとつ変えたらきっとみんな少しずつ変わってしまう。鉄男の違和感の正体は、きっとそのあたりだと思います。

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