URAHARA 第3話感想 あなたに誰かを笑顔にするためのものはつくれない。勝手に笑顔になる誰かはいるけれど。

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したいことしてるだけだから。

―― クリエイター

 キャラクター紹介と舞台紹介を済ませての、さて第3話といった風情デスナ。

 最初はなんかとりあえーずふわふわkawaii系アニメ・・・? 的な味わいだった『URAHARA』もいよいよ本題に入った感アリらんな今日この頃、みなさん風邪などお召し召しなきようございませ。10月はたいそうサミーでございますデスデス。
 ハテサテ物語を起・承・転・結に分けるとしたるららン、URAHARAの場合は今話がポポンと「起」っぽいフンイキでしょうか。たぶんね。俗に「3話切り」なる言葉もありますなれど、このアニメってば例外踏み越える気モートーなくキッチリ3話でようやくスターティングナウなりー。
 この立ち上がりの遅さ、実に高橋ナツコ。(こういうところは正直あんまり好きじゃなかったり)

 まあ冗談はともかくとしても、いよいよ物語のテーマが「クリエイティブ」に向かってGo!Go! しはじめたことに私、超ワクワクしているところでして、さっきから何やら口調がいとクレイジってるのは孤独な創作魂のフィーチャームダ限りない迸りってヤツですハイ産廃。右脳直結スタイルでテキトーに文章打ってると返ってつくりものっぽく見えてイカンに。

つくりもののギャラリー

 「ねえ、スクーパーズってみんなお菓子になるんじゃないの?」
 「これもアマツマラの効果でしょうな。思念を具現化するのならばお菓子とは限らない。たとえばこの場合、『誰かに見てほしい』という思いが具現化したのではないでしょうかね。――おっと失礼! こればっかりはアマツマラに聞いてみないとわからないですね」

 アマツマラ。アマツ=「天津」なのは想像がつきます。空のこと。マラは・・・私の語彙力で思い当たる候補では「稀」か「参らする」のどっちかでしょうか。後者は謙譲表現であって固有名詞に似合いではないので、たぶん前者かな。
 「稀」とは、ふとしたときやって来るもの。あるいはもっと単純に、珍しいもの。
 すなわちアマツマラとは「空から来たもの」あるいは「空から来た奇跡」くらいの意味合いと思っておけばいいんでしょうか。スクーパーズと同じところから来た物質。なんかろくでもないカオリがしてきました。
 もっとも、あくまで舞台装置としては「創造したものを具現化する物質」とだけ押さえておけばいいので、あんまり深く追求する意味はないんですけどね。

 どうでもいい話はともかくとして。
 とにかくこのアマツマラのちからによって、りとたちは原宿を自分たちに都合のいい世界につくり変えました。
 外部からの一切の干渉を遮断する壁。理不尽に供給される電気や水。がんばったご褒美として与えられるお菓子。それから、クリエイターにとっては自分の創造性の次に大切なもの――ギャラリー。

 街の人たちはどこから現れたのでしょうか。初日はたまたまみんな足並み揃えてどこかに息を潜めていたんでしょうか。その割にはそんな空気は微塵も感じさせず、まるでずっとここにいましたよーみたいな顔で今さらパニックしていますけど。
 うわあ、うさん臭ーい。

 「原宿はお姉さんたちのものなんですナ!」
 まあ、十中八九そういうことなんでしょうね。ハト(へちょかわいい!)や白子(よくわかんない)と同じように、街の人たちも少女たちの手による創造物なんでしょう。素材となるべきスクーパーズも、ちょうど直前に大きいのをやっつけたところでしたしね。
 やっぱりクリエイターにはギャラリーが絶対に必要ですから。

誰が為のクリエイティブ

 人は何のためにものをつくるのでしょうか。
 特に、人が生きるためには必ずしも必要ではない、娯楽や芸術といったものの場合は。

 子どもの頃のことを思い出してみてください。できるだけうんと小さな頃のこと。
 お絵かきや、歌、踊り、あるいはおままごとなんかもアリです。
 あなたはどんなとき、何のために創造力を働かせていたでしょうか。
 ちょっと思い出してみてください。

 「ねえ、私たちもPARK再開しない?」
 原宿が大変なことになっている状況下、りとたちは大好きだったお店を再開することにします。
 「みんな不安になってるでしょ。だから何かしたいなって思って。ウチはクレープ屋だからこんなことしかできないけど」
 街で出会ったクレープ屋のお姉さんに触発されて。彼女のように、自分にできることで誰かを笑顔にしてみたいと無邪気に考えて。

 けれど、そんな立派な動機があるにも関わらず、どういうわけかりとの筆は思うようにノりません。
 「何を描いたらいいんだろうって」
 「珍しいわね、りとが描けないなんて。スランプ記念日にしておいしいものでも食べる?」
 「まあ気分がノらないときに描いても納得いくものは描けないって統計が出てるよ。たまには気晴らししたらどうかな」

 気分転換・・・が、必要な状況なんでしょうか。本当に? だって「誰かを笑顔にしたい」というこれ以上なさそうな素晴らしい動機が、今も胸の中で燃えているはずなのに。
 不思議。
 人の心はままなりません。
 「さっきはあんなにPARKを再開したいって思ったのに、何も浮かばないなんてどうしちゃったんだろ」

 まあ、りとのキャラじゃないですからね、そもそもそういうのって。
 ハタから見ている分には、たとえばそういう答えも浮かびます。
 この子は本質的に孤独を好む子。他人よりも自分にこそ興味が向いている子。友達とおしゃべりしているときよりも、ネコに向かって独り言を言っているときの方が生き生きしちゃう子。
 こういう“お題”でいつもどおりにクリエイティビティを発揮できるまりやことことは少し気質が違うんです。
 誰かのために、とか、そういうの、実はあんまりガラじゃありません。

 瑠璃色のドレスを身に纏う少女は、翼や虹、星々できらびやかに着飾りながら、けれど膝を抱えて物憂げに瞳を下ろします。
 りとがいつの日だったか衝動的に描いたストリートアート。
 それは自身の孤独をありのままに、けれどそういう自分こそを愛するようなポジティブな気持ちをせいいっぱいに表しているように見えます。
 この子は本質的に、「誰かのために」なんて動機で活動するには不向きな子です。

 とはいえりとに限らず多かれ少なかれ誰にでもいえることではあるんですけどね、一応。
 「お姉さんすごいです。さっき友達とも話してたんです。みんな壁に閉じ込められて、どうしようってなってるときに、みんなに笑顔になってほしいって考えて行動するって、すごいなって」
 りとたちが感動し、PARK再開を決めるきっかけにもなった、偉大なる善人、クレープ屋のお姉さん。
 けれど彼女だって、なにも100%無私の善意というわけではありません。
 「別にすごくないよ。したいことしてるだけだから。言ったでしょ。私、クレープ食べてる人たちの笑顔を見るのが好きなの」
 りとはそこを取り違えていました。

 子どもの頃のことを思い出してみてください。できるだけうんと小さな頃のこと。
 お絵かきや、歌、踊り、あるいはおままごとなんかがすごく楽しかった頃のこと。
 あの頃、あなたはどんなとき、何のために創造力を働かせていたでしょうか。
 直接的にはまあ、誰かに褒められたり、誰かに喜んでもらえたり、あるいは単になんとなく楽しいからとか、色々な理由があったでしょう。
 でもそれら全部総じてつまるところ、要するに「自分がそれをしたかったから」だったんじゃないでしょうか。

 人は何のためにものをつくるのでしょうか。
 知れたこと。つくりたいからつくるんです。自分がそれをつくりたいと思ったからつくるんです。
 誰かを笑顔にするという素晴らしい機能を持つクレープだって、それは100%無私の善意ではなく、むしろ「笑顔を見るのが好き」という素朴な利己心の充足のためにつくられるんです。
 すべての創作物は、窮極的には自分のためにこそつくられます。必ず。
 人の手は無私では動きません。
 どんなに尊い行いであれ、そこには何かしら行為者にとっての喜びが介在しています。

 「誰かを笑顔にしたい」
 立派な理念です。
 ですが、すべての人がそういう動機のもとでクリエイティビティを発揮できるかというと、それは否です。
 「誰かを笑顔にすること」と「自分が幸せになること」がリンクする価値観の持ち主でなければ。
 承認欲求の強いまり、他者とのつながりを求めることこならその条件にも適合するでしょう。けれどりとは違います。彼女は孤独をこそ愛するから。
 だからりとの場合、「誰かを笑顔にしたい」とかそういう自分らしくないお題目に固執せず、もっと素直に、自由に、自分がしたいように創作活動をする必要がありました。

笑顔のブラヴォー

 では、りとのような気質の子の場合、誰かを笑顔にすることなんて叶わないんでしょうか。

 いいえ。
 歴史上何人もいた奇人・変人芸術家たちを見ればそんなこたぁないことがよーくわかるでしょう。
 私も美術館に行っては作品解説なんて一切読まず、作者すら知らず、それでもなんかいいなーってちょくちょく感動して泣いてます。
 (というわけで具体例がパッと思い浮かびません)

 人はものをつくることを好みます。
 自分がつくりたいからつくります。
 けれど往々にして、その創作物を誰かに受けとめてほしいと望みます。
 クレープなら誰かに食べてもらうことで、服なら誰かに着てもらうことで、ストリートアートなら誰かに見てもらうことで、その創作目的をはじめて充足します。
 「自分が」つくりたいからつくったくせに。
 すべてのクリエイターは自分のために創作しながら、そのくせ不思議とギャラリーを必要とします。

 だって、ね。
 創作って、結局のところ表現ですから。
 自己表現ですから。
 どこかの誰かに自分を知ってほしいと願う行為ですから。
 だから、知ってくれる誰かがどうしても必要になるんです。

 どんなに偏屈な芸術家でも、どんなに欲のない趣味人でも、絵を売るなり個展を開くなりコミケ行くなりtwitterやるなりして、どうにかして創作物を誰かの目に触れさせようと行動します。
 私のこのブログもたぶんその一種。(今回特に)チラシの裏にでも書いてろよ! って内容でも、結局誰かの目に触れさせずにはいられません。

 だから、りとたちは閉鎖された原宿のなかに街の人たちを創造したんだと思います。
 自分たちのお店を、創作物を見てもらうために。

 そして裏を返せばどんな創作物にも必ずギャラリーは必要になるんです。
 たとえ、りとのような孤独を好むクリエイターの創作物であっても。

 りとの新作は懐かしい生家。小さく3つ並んだ煙突が両親と自分を表しているものと思われます。たったそれだけのイラスト。友達であり、この絵を手伝ってくれたまりやことこを象徴するような要素すら見当たりません。
 「書いておかないと忘れちゃいそうで」
 その制作意図はどこまでも自分の都合。誰かに見せてどうにかしてほしいなんて気持ちはこれっぽっちも感じさせません。
 それでも。
 「ステキな家ね」
 そんなイラストでもなお、誰かに見てもらえて、褒めてもらえるとやっぱり嬉しい。

 クリエイティビティと、誰にどう受け取ってもらえるかという問題は、実は関係ないんです。
 どんな創作物もギャラリーを必要とする以上、どんな創作意図であってもギャラリーからは何かしらの反応があるものです。

 「この壁の絵、あなたが描いたの? 私密かにファンだったんだ」
 「いーじゃん。カッケーし」

 友達だけじゃない、たくさんのギャラリーたちからの声。笑顔。
 必ずしも「誰かを笑顔にしたい」と思わなくたって、誰かを笑顔にすることはできます。
 あなたの表現で、あなたの意図とは関係なく感動する人がいます。
 その意味で、クリエイターはある意味孤独かも。

 けれど孤独を愛する少女は、こうして自分のクリエイティビティを通して誰かの笑顔をつくることができたのでした。

 たとえこの世界が自作自演のまやかしに過ぎないとしても。

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