ねぇちーちゃん。いつもの世界って、こんなに――。
―― 無くしもの

もしも世界に終わりがあるとしたら、何をもって「終わった」といえるのでしょうか。
私たちは自分の死すら観測できないのに。
さて、『雨音』ですよ、『雨音』!
私がこのマンガのなかでも一番好きなエピソード! 一番アニメ映えするだろうなと期待していたエピソード!
やー・・・、期待以上でしたー。雨音ベースで特殊エンディングとか、SEだけじゃなく絵でも音を描写するとか、やってくれたら嬉しいなあと思っていたこと全部をやってくれるんですもん。それに、アレですね。『住居』『昼寝』から連続してこのエピソードに繋げられると、なんとも余計にクるものがありますね。
想像力
「なんかすごく憧れるんだよね。こういうところに住むの」
「変な場所、色々巡った気分だ」
「もしかするとこれは音楽ってやつかもしれない」
『住居』『昼寝』『雨音』。今話のちーちゃんたちはいつもの終わった世界を離れて、想像のなかの世界を旅します。
ひとところに根を下ろした暮らし、奇妙な驚きに満ちた冒険、賑やかな音楽に包まれたひととき・・・どれも終わった世界には存在しえないものです。けれど、ちーちゃんとユーはそれらを体験することができます。
すでにこの世界から失われてしまったたくさんのあれこれを、ふたりは知っているから。
たくさんの終末を見届けてきました。たくさんの終末以前の姿を垣間見てきました。
この世界が終わってしまう前の人の営み。かつてあった世界の風景。それらを、本を通して、あるいはモノを通して、ふたりは記憶してきました。
どうせ命尽きるときには失われてしまうものなのにも関わらず、たくさん、たくさん、記憶に残してきました。
「終わるまでは終わらないよ」
何故って、今このときを生きるふたりの心のなかでだけは、この世界はまだ終わっていないから。
想像の世界は自由です。
「住むんならアレほしいよね。ほら、ベッドとか」
「私、上、上。ちーちゃんは下でいいよね」
「私アレもほしいな。本棚」
「だったら私は食料棚がほしい!」
「あとは・・・暖房はほしいよね、ストーブとか。それにお風呂も」
「昔の人は植物とか飾ったらしいよ。やってみたいな」
「じゃあ石像も飾ろう」
想像のなかでなら、自分では見たこともない満ち足りた世界の有り様に身を浸すことができます。憧れ全部なにもかもを手にすることができます。いくらでも幸せになることができます。
これまでも、これからもありえないとわかっている夢想だけれど、空想のなかでなら。
「いいよね」
想像の世界は自由です。
「おおお!? なんだこれ」
「ユー? ・・・デカいな」
「ここは海ってやつなのか。お爺さんにも見せたかったな」
「待て! おい待てって! やめろー! ――食べられる!」
想像のなかでなら、過去にも未来にもありえない奇妙な冒険をすることができます。石積み。魚。本で得た知識。それから理不尽きわまる友人。いくつもの記憶をとりとめなく繋ぎあわせて、まったく新しい世界をつくりだすことができます。
ありとあらゆる記憶のことごとくがひとつところに同居する世界に遊ぶことができます。
「変な場所、色々巡った気分だ」
想像の世界は自由です。
想像のなかでなら世界はまだまだ終わりません。
終わった世界で終末を迎えた者たちも、ちーちゃんとユーの心のなかでなら、きちんと真っ当に生き続けることができます。
・・・それにしたって、ちーちゃん目線で見たユーの巨大で理不尽なこと!
アレですよね。この子がユーに対してやたらと暴力的なのって、そうでもしないと対等でいられない気がする不安みたいなのと、そういうことをしても許容してもらえるという甘えがまぜこぜになっているんでしょうね。カワイイ。
終わった世界の無くしもの
「ねぇちーちゃん。いつもの世界って、こんなに――」
原作マンガではその先の言葉まで語られていますが、アニメでは省略されています。
このへん、多彩な表現を使えるアニメならではの強みですよね。あえて語らずとも伝わる。
どうして“音楽”が失われちゃったんでしょうね。
音を使った表現って、人間にとっては最も身近な創作手段のひとつなのに。喉とか両手とかさえあればいつでも楽しめるものなのに。まさか紙が必要な“小説”の方が長持ちするなんて、ね。
「あ、いい音かも」
「でしょ」
何も知らないユーでもなんとなーく再発明できたように、音楽というのは人間にとって最も身近な創作物のひとつです。本来ならそこに人間がいる限り当然に自然発生するはずの概念です。なにせ身ひとつあればいつでも奏でられるんですから。
どうして失われてしまったんでしょう。
戦争があったから? 人の心にゆとりがなくなってしまったから?
さあて、そのあたりのことはあまり深く語られません。
ですが、人間のいるところから音楽がなくなることなんて、本当はありえないはずなんです。人間というのは表現することが大好きな生き物なんですから。表現せずにはいられない生き物なんですから。
ですがちーちゃんとユーは不幸にして人間社会の荒廃に晒されながら育ち、不幸にしてふたりだけで旅立ち、そして不幸にしてその後も誰にも教わることなく、現在に至るまで音楽を知らずに生きてきてしまいました。
いくつもの不幸が重なって、この終わった世界からはついに音楽すらも失われてしまったのでした。
それは本来なら人間が存在しつづける限り当然に在り続けるはずの概念です。
それなのに失われてしまったということは・・・すなわち、これこそが、この世界から確かに人の営みが失われてしまったという証左です。
人間が介在しなくても書物というモノだけで存在できる小説の方が長持ちするとは、なんとも皮肉。
改めていうことでもないですが、ちーちゃんとユーはこの旅路においてほとんど人間と出会っていません。(一応カナザワ以外にも何人かとは出会っていたようですけどね)
「電気や水道が結構残っていても、やっぱり人はいないね」
人類は終末しました。
「いつもの世界って、こんなに――」
「ああ・・・。静かなんだな・・・」
この世界はすでに終わっています。
ありとあらゆる人の営みが消滅し、その結果、世界は音楽すらも無くしました。
終わるまでは終わらないよ
そういうわけで、この世界は私たちの目にも観測可能なほど決定的に終末しています。
けれど、そんな終わった世界でほとんど唯一、未だ生きつづけている存在もいるんです。
ちーちゃんとユー。
ふたりぼっちであらゆる終末を見届ける旅人たち。
そうとも。彼女たちだけはまだ終わっていません。
彼女たちはその心に想像力を宿し、そして音楽を再発明しました。
この広い世界のなかでほとんど唯一、彼女たちだけが人の営みを続けています。
「今、世界が動きだした。あらゆる音楽とともに」
「ずっと気がつけばいつまでも、そう、繰り返すように」
ふたりの間でだけは世界はまだ終わっていません。
ここにだけは、世界がこれからも終わらない可能性が、ほんのわずかにでも残っています。
ふたりがお互いの死を観測するまで、この世界に残された最後の可能性は潰えません。
彼女たちは終わってしまった世界でたくさんの終末を見届け、そしてそれらの記憶を集めて運びます。
可能性の元で。
その旅路の果てに何が待っているのか、何を求めているのか、何ができるのか、それは彼女たち自身にすらまったく見えていません。
その身に抱く大いなる使命にまったく無自覚なまま、のほほんと、強かに、ときどきやけっぱち気味に、この残酷な旅を続けています。
ですが、どうか。
「どこまでも歩いてく。君と手をつなぎながら」
「いつかたどり着いたそのときは、ともに笑いあえるように」
どうか、彼女たちの旅路の果てに何かひとつでも希望がありますように。
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