“大好き”なことだから。
―― アイデンティティ

りと。孤独を愛する少女。
友達ふたりがアイデンティティの崩壊によってズタボロになっているさなか、彼女ひとりだけがまるで他人事のような顔で平然としていました。
けれどアイデンティティの崩壊は少女が大人になるために必須の通過儀礼。のらりくらりとかわしつづけていいものではありません。
よかった。
りとが無事に自己矛盾と向き合うことができて。
(愉悦を隠しきれない汚い大人の笑顔で綴る)
原宿――りとたちがつくったモラトリアム最後の砦は、彼女たちが自傷して自傷して自傷して、子どもの血液を全て抜ききるまで、彼女たちの心が一番脆くなるこの瞬間をあらゆる干渉から守ってくれることでしょう。
あなたの一番大好きなモノが、あなたの一番大切な瞬間を守ってくれています。
では、あなたの一番の“大好き”って、いったいどういうモノですか?
絶対味方のメンター
「――そうだ! PARKがあるからわかってもらえないのか。PARKなんてなくなってしまえばいいんだね。うん!」
クレープ屋のお姉さんはりとたちの味方です。いつだってどんなときだって絶対に味方です。もちろん、今この瞬間だって。
「待っててね、りとちゃん。今楽にしてあげるから」
どんな相談事も面倒くさがらず、嫌がらず、決して私を否定せず、傷つけず、望まないことには干渉せず、いつもニコニコ、優しく甘ったるい声で、ただ、ただ、私にとって一番嬉しい答えへと導いてくれる。
そんな都合のいい他人がいるものか。
けれどここにはいました。原宿には。
りとたちがつくりあげたモラトリアム最後の砦、原宿というひたすら都合のいい街のありかたを、まるで象徴するかのように。
事実、彼女は人間ではありませんでした。
彼女は胸を刺し貫かれても、赤い血を流すことはありませんでした。
事実、彼女はスクーパーズでもありませんでした。
彼女は死んでもスイーツになることなく、ただ色のない灰となって消滅しました。
つまるところ彼女は他人ではなかったのでしょう。
自律した自我を持たない、そしてりとたちの主観にしか存在しえない、哲学的ゾンビに似た存在とでもいうべきか。
たぶんね。
彼女はりとたちが自問自答するために創造した、自らの心を映す鏡のような存在だったんだと思います。
そうだとして、では、誰が彼女にPARKを壊してもらおうと考えたのでしょうか。
「お姉さんたち、悲しそうなんですナ」
「何を言っているのですか。これはチャンスですゾ、みさ様」
みさ? エビフリャー?
いいえ。アマツマラを操ることのできない彼女たちは原宿の支配者たりえません。
「りとちゃん! なぜさゆみんにそんなひどいことするの? さゆみんは友達でしょ」
「やめてりと! さゆみんのいうとおりにすればアイドルになれるのよ」
まり? ことこ?
いいえ。彼女たちの関心はすでにPARKになく、ひたすら自分のエゴにのみ執着しています。りとがPARKを守ろうとしていることに共感どころか一片の関心すら示していません。
犯人は誰か。その答えは、ひたすら都合のいいクレープ屋のお姉さん自身が語り聞かせてくれます。
「待っててね、りとちゃん。今楽にしてあげるから」
「だから、ね。一緒にPARKを壊そうよ」
「私は、りとちゃんの、3人のためにPARKを壊すのよ」
犯人は、そう。
りとです。
クレープ屋のお姉さんはいつだってどんなときだって絶対に、りとたちの味方です。
答えを持たない迷い子
どうしてPARKを壊そうとするのか。
おそらくりと自身その理由を言語化することはできないでしょう。
PARKを壊さないで! と懇願するくせに、どうしてあの場所が大切なのかすら説明できない今の彼女では。
「あーもう。スクーパーズになってしまえばPARKなんて要らないのに」
クレープ屋のお姉さんを説得することなんて本当はすごく簡単なことなんです。
彼女はPARKをスクーパーズの完全下位互換と主張しているわけですから、PARKにあってスクーパーズには無いものを何かひとつでも示すだけでいい。それだけでPARKを残すべき理由が発生します。
彼女はりとのためにPARKを壊そうとしているわけですから、りとにとってのPARKを残すべき理由が存在するならその時点で壊す理由を失うんです。
けれど、残念ながらりとはそのための答えを持っていません。
「まり。3人で一緒にPARKでがんばれば、きっとみんな見てくれる」
いいえ。そんな理屈は通用しません。
「強いスクーパーズは擬態もできるんですよ。たとえば100人いれば100人がカワイイと思える顔になることも」
だって、PARKでがんばるよりスクーパーズになってしまった方が手っ取り早いんですから。
「ことこ。3人でずっと一緒にPARKをやっていこうよ」
いいえ。そんな理屈は通用しません。
「スクーパーズになれば思う存分好きなだけお三方のクリエイティブを発揮しつづけられますぞ。たとえるなら永遠の春休みが続けられる感じ」
だって、春休み期間限定のPARKと違ってスクーパーズなら永遠に続けられるんですから。
「クリエイティブしていこうよ」
いいえ。そんな理屈は通用しません。
「PARKで売ってたものはオリジナルなんかじゃなかった。でもそれでいいじゃない。それが楽しかったんでしょ。どうせ同じことするならスクーパーズになった方がもっと楽に楽しくできるよ」
だって、PARKは結局のところクリエイティブな場じゃなかったんですから。
PARKでしていたことは全部スクーパーズになってもできる。むしろスクーパーズの方が有利。
それはもう充分に理解できたでしょうに、りとはどうしてPARKにこだわりつづけているのでしょうか。
考えなければいけません。
それはぜひとも自分の手で答えを見つけるべきことです。
それは全ての少年少女がモラトリアムのうちに見出しておくべき、大切な哲学です。
「ねえ、PARKに戻らない? あのお店は原宿の若者文化だっていう大人もいるけど、PARKは私たちの居場所だから」
自分自身に「居場所」とまで言わしめた、大好きなPARKの“大好き”たる理由。
それは「りととは何者か」を問う、根源的な問いかけです。
私は何にこだわり、何を愛し、何を基準として、目の前に広がるこの世界を観測しているんだろう。
私はいったい何のために生きているんだろう。
私はいったい何のために、生きていきたいんだろう。
クレープ屋のお姉さんはりとのためにPARKを壊そうとします。
りとが大好きなPARKの“大好き”たる理由を問い直す、そのきっかけをつくるために。
孤独を愛する
りとは孤独を愛する少女です。彼女は根っからの個人主義者で、他人にどう思われようがそうそう簡単に振りまわされたりしません。
そんな彼女だからこそ、原宿がバブルで覆われたときもマイペースを貫くことができました。
そんな彼女だからこそ、友達ふたりの心が歪みはじめても自分だけは平静を保っていられました。
そんな彼女だからこそ、――ひょっとすると大好きなPARKを守るためなら誰かの命を奪うことすらできるかもしれません。自分のために「奪う」だなんて、スクーパーズ的な感性かもしれないけれど。
まあそれはいいさ。わかっていたことです。
問題は、そんな気質にも関わらず彼女が友達を大切にしていたこと。
今回りとはついに自分のその矛盾に目を向けることになりました。
クレープ屋のお姉さんを使ってPARKを壊そうとしてみた結果、見えてきたもの。
それは自分のトコトンまでのひとりよがりでした。
「放して! このままじゃPARKが!」
「わかんない! 全然わかんないよ!」
一度自分が信じたことなら友達の都合すら顧みない頑迷さ。
「痛い! 何するの、やめて!」
「ひどいよ、りとちゃん・・・」
自分の大切なものを守るためなら誰かを傷つけてしまいかねない苛烈さ。
「ひでえ、街ボロボロじゃん!」
「PARKだけ守れればいいの!?」
自分の大切なもの以外ろくに見えていなかった狭窄さ。
そのくせ自分がPARKにこだわっていた理由といえば。
「りとちゃん、ずっと誰にも褒めてもらえなくてひとりで描いてたんだよね。ひとりぼっちになったりとちゃんが描いた絵、誰が見てくれるの? 誰が好きになってくれるの?」
「私はここで3人でクリエイティブしたいの! PARKがあれば3人でものをつくっていける!」
「PARKがなくなったら――。私たち、カワイイものがつくりたくて、それが楽しくて、だからPARKを一緒に始めて。PARKは私たちにとって一番大切なものだったはずでしょ!?」
結局のところ、PARKでつながったまりとことことの絆を求めていただけなのでした。
それも、自分のクリエイティブをふたりに見てもらうことが目的で。
人間のクリエイティビティの源泉が自己表現にある以上、全てのクリエイターはどうしたって孤独ではいられません。
なんて身勝手。
フタを開けてみれば友達を大切にしていた理由すらも自分本位。
本質的に孤独なのに、クリエイティビティのために孤独ではいられない脆弱な魂。
けれどこれこそが剥き出しの“りと”という在り方です。
これこそがりとのアイデンティティ。恥も外聞も取りはらった、りとだけの“大好き”のかたちです。
あなたはこれを醜悪と見るでしょうか。
それとも美として愛おしく思うでしょうか。
りとは己が醜悪さを嘆き、友達と一緒にスイーツをむさぼり食うだけの上辺のつながりに救いを求めてスクーパーズ化する道を選びます。
けれど同時に、彼女は目を背けたくなるような剥き出しの自分のなかに最後に残された、最も純粋な“大好き”にようやく指を届かせるのです。
「だけど、絵は描きつづけるよ。スクーパーズになってもクリエイティブを続けていく。“大好き”なことだから」
モラトリアム最終章。青臭い思春期の物語のなかでも最も青臭い瞬間において、さて、りとはどんな“りと”を描いてみせるのでしょうか。
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