URAHARA 第9話感想 世界で一番確かなもの。

私は変わってない。これからもまりとことこと3人で一緒にPARKをやっていきたい。それは変わらない。―― 自信

URAHARA Vol.1 (豪華版)[Blu-ray]

 大人になるって、どういうことなんでしょうか。大人になると何が変わるんでしょうか。
 何も変わらない?
 いいえ。変わらないならモラトリアムなんて必要ありません。死にたくなるような思いまでしてアイデンティティの崩壊を経験する必要もありません。
 じゃあ、何もかもが変わる?
 いいえ。全て変わってしまうならそもそも子どもとして生まれてくる必要がありません。モラトリアムは母親のお腹の中だけで充分。初めから大人として生まれてくればいい。

 私たちは子どもとして生まれ、やがて大人になります。
 ならば、子どもにも、大人にも、そしてその間のモラトリアムにも、私たちの人生のあらゆる過程全てにはきっと意義があるはず。あってほしい。私はそう思います。
 というか、ぶっちゃけ客観的な事実なんてどうでもいいから私は主観的に信じることにした。

剥き出しの“大好き”

 なにもかもが思い通りになるというスクーパーズを受け入れ、りとはひたすら大好きなものだけに耽溺します。

 りとの大好きなものとは何だったでしょうか。
 大きく価値観を揺さぶられた前話、彼女はそれを悟りました。
 「ひとりで描いてひとりでそれを眺める。そんな生活に戻りたいんですか?」
 「嫌! それだけは嫌!」

 自分のクリエイティブを、みんなに褒めてもらうこと。

 醜い自己顕示欲と恥じ入ることはありません。もとよりクリエイターとはギャラリーを必要とするもの。すべての創作物はすなわち自己表現であり、表現である以上は本質的に誰かに見てもらうことを期待してつくられるはず。
 「不思議。みんなが褒めてくれる」
 歓声。羨望。賞賛。そうとも。褒めてもらうことこそがクリエイターとしての本質的な幸せ。

 ・・・なんて。
 そんなわけがあるものか。
 「スクーパーズになっても変わらない。私はただつくりたいだけ」
 だってりとはクリエイターです。
 褒められたいにしても、まずは自分がクリエイティブしないことには始まりません。
 「あああああ!! 私の好きに描かせて!」
 そして、りとは孤独を愛する少女です。
 褒められたいという欲望を抱いてなお、他人の好みに合わせる気がない自己チューさんなんです。

 「何描けばいいんだろう。みんなを笑顔にするためには」
 「この世界、好きで描くだけじゃダメっしょ」
 「スイーツの隣に話題になってるものを添えて写真に撮ったりするとイイネ!が増えるんだ」
 「そういう一手間、大事よね。ただアップしても誰も見てくれないもの」
 「まりやことこと違って、私にはファンとかフォロアもいないし」
 「たくさん描いて、たくさん発表しましょう」
 「ひとりぼっちになったりとちゃんが描いた絵、誰が見てくれるの? 誰が好きになってくれるの?」

 褒めてもらうことは好きですとも。それ抜きではとてもクリエイティブしていられません。
 けれど、誰かに褒めてもらうためにクリエイティブしていたのかというと・・・それは違う。
 りとのあくまでクリエイターでありたいと願う気持ちと孤独を愛する魂が、癒着するふたつの志向性を切り分けます。
 確かにクリエイティブしたい気持ちは誰かに褒めてもらいたい気持ちと常にセットだけれど、その一方でクリエイティブしたい気持ちと誰かに褒めてもらいたい気持ちはあくまで別の概念なんです。

 褒められたい。褒められたい。褒められたい。褒められたい。褒められたい。
 剥き出しのエゴイズムをさらに奥へ奥へと掻き分けて、最も純粋なあなたの“大好き”の在り方を、さあ、今こそ見つけだしましょう。

 りとの大好きなものとは何だったでしょうか。
 大きく価値観を揺さぶられた前話、彼女はそれを正しく悟っていました。
 「だけど、絵は描きつづけるよ。スクーパーズになってもクリエイティブを続けていく。“大好き”なことだから」
 りとの最も純粋な“大好き”は、あくまでクリエイティビティにこそ。

乱麻を断つ

 クリエイティブしたい。
 誰かに褒められたい。

 そう。りとたちはここまでずっとそのふたつの志向性を混同していました。
 だから必要以上に自分たちのしてきたことが醜く思えていたんです。

 「スクーパーズって文化を奪うでしょ。ひょっとして私たちも同じことをしてたのかな? 流行りのものをマネしたり」
 「私の知識も私が生みだしたものじゃない。いつもwikiとかで調べてコピペしてたし。まりちゃんもダンスを踊るとき誰かのマネしたりするでしょ」
 「PARKで売ってたものはオリジナルなんかじゃなかった。でもそれでいいじゃない。それが楽しかったんでしょ」

 それを安易に褒められたいがためのパクりと解釈するなら、そうですね、確かにある程度は批判されるべき醜悪な行為かもしれません。

 「何を怖がってるの? どうせマネしかできないからやめる。知識しかないからものをつくれない。――なんでそんなことを言うの?」
 「絵を描くことだけは好きで、いろんな絵を見たり、好きな絵を模写してみたり、いっぱい練習して自分が描きたいものを探してた」
 「模写したりマネしたり色々調べた知識から生まれる知識だってあると思う!」

 本当は純粋なクリエイティブのためのインスパイアという考え方もあったはずなのに。というかこの子たちなら実際そういうつもりでやってきたことでしょうに。
 りとだけじゃない。まりやことこだって、あれだけ卓越した才覚を発揮できているからには、きっと人並み以上の努力を重ねてきたはずでしょうにね。どうして自分のその美しい生き様から目を背けて、あえて醜悪に見せかける色眼鏡をかけてしまうのでしょうか。

 こじれにこじれて3人のアイデンティティ崩壊のきっかけを招いた重大げな命題は、とどのつまり、こういうかわいらしい結論に落着したのでした。
 つまるところ模倣という行為そのものには善も悪もなかったわけです。単にポジティブに見るかネガティブに見るかの視点の違いがあっただけ。まあパクられた人に咎められでもしたら別でしょうけれど、これはそういう話でもないですし。

 私なんかは「青いなあ」と上から目線でニヤニヤしちゃうのですが、当の本人・りとにとってははどうにも居心地悪いようで、積もり積もったわだかまりを発散しようと快刀担いで暴れ回るわけですね。
 「私の好きに描かせて!」
 「好きに描いた絵を誰かに見てほしいだけなのに!」
 「好きで描いたものをイイネ!って言ってほしい!」
 「私、たくさん描くから。いつもみたいにカワイイって言って!」
 「もっと! もっと描きたい!」
 「描く。どんどん。新しいのを。描いて描いて描きまくる!」

 虚ろな瞳の彼女がいったい何をしたかったのかといえば、簡単なこと。パクりだ何だと不名誉なレッテルを貼られた過去作品のことごとくをブッ壊して、全部新しいものに描き直してしまえばスッキリする。それだけです。

ふり返れば足跡が

 青虫はサナギのなかで一旦ドロドロに溶けて、やがて蝶になります。
 なにやら身体の構造からして全然別物になるらしいですね。頭・胴・腹に分かれたり、内臓の配置が変わったり、羽が生えたり足が生えたり。
 ならば、青虫と蝶とは全く別の存在といえるのでしょうか。
 子どもが大人になるって、どういうことなんでしょうか。

 「こうなったら力づくでも止めるわ。本当はこんなことしたくない。でも、りと! いいかげんにしないと!」
 りとの過去作品ブッ壊しツアーに待ったがかかります。
 まりとことこはりとのクリエイティブ仲間であると同時に、それぞれがお互いの大ファンです。クリエイターの気まぐれでお気に入りの作品をいきなりダイナシにされては、ファンとしてはたまったものじゃない。
 割とこれだけでも充分思いとどまる理由になる気もしますが、ダメ押し。物語は出会った日の回想へと移ります。

 「オリジナルなの!? かわいい!」
 りとのクリエイティブに対して初めて投げかけられた賞賛。全てのはじまり。
 「そうだ! ねえ、女の子描ける? カワイイ女の子! 今流行りのレザーっぽいジャケットに花柄でふわっとしたジャケットを履いてる感じの!」
 「ね、もっとお願いしていい? 私、服つくるの大好きなんだけど、デザイン画がうまく描けないの。で、代わりに描いてくれる人をずっと探してたの」
 「あっ! 今新しいスイーツを考えてて。こないだネットであんこと白玉を組み合わせてパンダにした画像が上がってて、あれにずんだあんとさくらあんとソーダあんも入れて、4色のパンダ白玉とかどうかな。あとね、えとね、あーもう! 絵で説明できたらわかりやすいんだけど・・・」

 3人のクリエイティビティが花開いたひととき。りとの絵を起点に、3人のなかで眠っていたアイディアが次から次へとはじけだします。
 「私ね、ふたりがリクエストしてくれたものを私が描いて、それをふたりがカワイイって言ってくれて、そこからまたアイディアが生まれて。そうやってつくっているときが本当に好きなの。幸せなの」
 なんだ。他人のアイディアからのインスパイアによるクリエイティブ、やっぱりちゃんとできていたんじゃないですか。盗むとかマネするとかなんて偽悪を気取るまでもなく。

 「私は変わってない。これからもまりとことこと3人で一緒にPARKをやっていきたい。それは変わらない」
※ ネタバレ注意(何の?)
 モラトリアムに守られ、アイデンティティの崩壊を伴い、子どもが大人へと変わっていく劇的な変化。けれど、終わってみればなんてこたぁない。結局のところ私は私なんですよ。自分をまるごと否定されるような、死にたくなるくらいしんどい世界観の洗い直しを経験して、その果てにティーンエイジャーが得るものはといえば、そんなあたりまえの確信だったりします。
 楽しかった想い出は私のもの。汚い感情も私のもの。何かをつくりたいと思う衝動も、誰かと一緒にいたいと思う祈りも、何かに執着する気持ちも、全部全部をひっくるめて、私という存在を形づくっている。
 私は私。たったそれだけのことを得心するためにモラトリアムという時間はあります。

 「フォロアがいなくなってもいいんですかナ?」
 「ひとりぼっちに戻ってもいいんですかナ?」
 「描いた絵をひとりぼっちで眺める日々に戻りたいんですかナ?」

 考えてみましょう。そんな安い揺さぶりが私にどんな影響を与えるものか。
 何の影響もありません。私は私。この先本当にフォロアがいなくなるかどうか、ひとりぼっちになってしまうかどうか、そんなのふり返ってみればわかります。生まれてから今日までずっと刻み続けてきた、子どもだったころの私の歴史。私の判断基準はいつだって私のなかにあります。
 「そんな日はもう来ない! まりとことこが私の絵を見てくれるから!」
 私の歴史がこの場にふさわしい前例を見出します。大好きな友達との友情が、しなびたエビ天の妄言ごときで揺らぐものか。

 少女たちのモラトリアムは終わり、彼女たちは“私は私”という絶対的な確信、つまりは根拠不要の自信を手に入れたのでした。

傲岸不遜の孤独主義

 さあて、自身という絶対的な基盤を手に入れてしまえば、いよいよりとの孤独志向は止まりません。

 「私たちは私たちの力でクリエイティブしていく」
 「あなたたちの力は必要ない。だからこれは――要らない!」

 友達は要るけどスクーパーズは要らない。とてつもなく傲慢で一方的な選別がはじまります。目の前の相手がどれだけ焦ろうが嘆こうが知ったこっちゃない。私が要らないといったら要らないんだ。

 「まあよくわからないけど、奇跡ってことでよくない?」
 「そうだね」
 「それでいいよね」

 小難しい理屈なんて要らない。私の目の前の事実は私が好きなように規定するんだ。

 自分の内側を破壊しつくす物語は終わりました。
 これからは自分の外側、世界の在り方を破壊していきます。

 「まさに! 探しているのですよ私は! ゼロからモノをつくり出せるクリエイティブにあふれた人材を!」
 クリエイターとは旧来の価値観をガン無視してゼロベースから新たな世界を生み出せる存在のこと。自分の内的表現を創作物として外界に押しつけるきわめて傲慢な人種のことです。

 さあ、いよいよりとの絵筆が唸るとき。
 しなびたエビ天も迷える幼女もみんなみんな巻き込んで、この世界をあなた好みの色に塗り替えてやりましょう。

シェアする?

フォローする!