それは、ほら。コイツがいるじゃん。
―― 不可侵の観測者
人は死んだらどうなると思いますか?
どうにもならないんです。
幽霊とかあの世とかが存在するかはわかりませんが、少なくとも死者がこの世界に生きる私たちに干渉してきた確かな例はなく、つまり、少なくとも彼らはこの世界において何をすることもできません。
自分の死を観測することすら叶いません。生きている誰かにその終末を見届けてもらわない限りは。死者は、自分ひとりだけでは死ぬことすらできないんです。
「世界に誰もいなくなったら――誰が覚えているんだろう」
だから、人はこの世界に人工の観測者を創造しました。この世の全くあらゆるところを同時に観測できる全知全能。誰にも害されず誰よりも長生きで人類最後のひとりの死までも見届けられる悠久不滅。
神様。
人が死の恐怖を克服するためにつくりあげた、人類最古の偉大なる発明品。
「死ぬのが怖くて生きられるかよー!!」
ところで、神様の機能はただひとつ、見届けることしかありません。
個人の都合でときどき好き勝手にアタッチメントを取りつけられることはありますけどね。現世利益がどうとか天罰・聖戦がどうとか。
ですがそれらの機能が実際に発動したことはありません。神様がこの世界に干渉してきた確かな例はないんです。神様は死者と同様、この世界において何をすることもできないはずなんです。あくまで思想上の存在ですからね。
けれど、それでも神様は唯一、観測者としてだけは機能しつづけ、今日に至るまでたくさんの人に長く愛されてきました。
この世界に実在しない、けれど確かに在る、この世界の一部。
終末世界の旅人は、ときにそういった存在しえない存在とも出会います。
「うおおー! 月光パワーぜんかーい!」
遺品
まるでコインロッカーのごとき味気ない見た目。骨壺すら入っていない小さな個人スペース。
昔の人はどういう理由でこんな墓所をつくったんでしょうね。
地表から遠く離れているために人間すらも組み込まねば炭素循環を維持できなかったのか。あるいは死とは違う終末を迎えたためにそもそも遺体が残らなかったのか。そのあたりの事情が語られることはありません。
とにかく、どうやら制約があったっぽい葬送のなかで、それでも彼らはせめて遺品だけでも残そうとしたわけです。
「カナザワって・・・誰だっけ?」
だって、死者は無力だから。自分で自分を観測できない以上、彼らは誰かの記憶に留まることでしか、生きることも死ぬこともできません。
もしも誰の記憶からも忘れ去られてしまったなら・・・それは“無”です。きっと初めからこの世界に存在しなかったのと同じことになるでしょう。誰も私を知らない。どこにも私がいない。この世界から私という爪痕そのものが消滅してしまう。
それはきっと、死ぬことそのものよりもずっと怖ろしいことなんじゃないかなと、私なんかは思います。
「――ああ。思いだした。カメラがなかったら忘れてたよ。ありがとう、カメラ」
「大丈夫。このカメラがある限りカナザワのことは忘れないよ」
そういう意味で、遺品というものは死者が自身の生きた証を立てるためにとても有効な道具です。記憶というものは時が経つごとに風化していくものですが、もし遺品があれば、それを見ただけで自分のことを思いだしてもらえるのですから。
想い出を補強するために写真というものがあるように、遺品は死者の存在証明を補強します。
個人的には遺骨なんかより遺品の方がずっと大切だとすら思っています。遺骨ってお墓のなかにしまいっぱなしですし、意外と50年も経てば土に還ることになりますしね。
もっとも、この墓所にある遺品たちは生きている人に見てもらうためのものではないようですけれど。
一度閉めるとぴったり閉じて開けられない。取っ手すらない。そもそも上段の方は人間が気軽に開け閉めできるような高さじゃない。
ここに眠る人たちは自分の死の観測を完全に神様にゆだねているのでしょう。
信仰なんてものは自己完結の世界なので、それで本当に世界に自分の爪痕を残せるのかというと少々疑問は残りますけどね。とはいえ自分の死を観測してもらうという目的において、死者の主観では観測者が生きている人だろうと神様だろうと観測してもらえていることには変わりないわけで。
・・・ちなみに、さっきからカナザワをまるで死んだもののように扱っていますが、半分以上わざとです。
「でも、生きてても死んでても、もう会うことはなさそうだよね」
死の観測において重要なのは死んだ事実そのものではなく、その人がこの世界で確かに生きていたという存在証明の方なんですから。あのあとカナザワが生きていようが死んでいようが、彼という存在がちーちゃんとユーの記憶に刻まれた時点で、どちらにしても彼の終末は果たされたんです。
恐怖
「死ぬのが怖くて生きられるかよー!!」
どうしてそうまでしてでも自分の死を観測してもらいたいのか。
それはまあ、先ほども書いたように、死んだあとで自分という存在がこの世界から消滅してしまうのが怖ろしいから、という理屈ですね。生きている以上いつか死ぬのは仕方ないけれど、それでも生きていたこと自体を無かったことにはされたくない。
言い換えるなら、「絶望と、なかよく」。
知りあった誰か。あるいは生きがい。もしくは神様。自分にいつ何があっても絶対にこの世界に爪痕を残せる、死んでもなんとかなるさ、という安心感がほしいんです。
そういうものを確立できた人はイザというとき強いですね。
たとえば既婚者とか。何か大きな賞をもらった人とか。宗教家とか。割と気軽にムチャなことをする割に、妙に安定感があるんですよね。殺しても死ななそうというか。(失礼)
たぶん、ミスしたときリカバリが効くかどうかで仕事の能率が全然違ってくるのと同じことなんだろうな。
ユーが何に頼ってそういう境地に達しているのかは明言されません。十中八九ちーちゃんだと思うけれど。
トラブル時のユーとちーちゃんの差って、多分そういうところだと思うんですよね。特別な訓練を受けているからではなく、生きることに執着があるからでもなく、単に死を怖れているかどうかの違い。
・・・こう書くとまるでユーがただのクレイジーみたいですね。
ルナティック
「月が見える夜ってさ、なんかテンション上がるよね」
「なんだろう、不思議な力を感じる。これが月の魔力ってやつなのかなあ」
「すごい! まるで月光が溶け込んでるみたい」
私たちの世界において神様という存在は観測されたことがありません。
ですが、神様と交信する手段はどういうわけか昔からいくつも語り継がれてきました。
たとえば満月の夜。たとえばお酒。他に歌とか踊りとか演劇とかコーヒーとかお茶とか煙草とか大麻とか。要は酔っぱらえるものなら何でも。人間って意外といろんなもので酔っぱらえるんですよね。
そういったものを利用して、心をこの世界の常識から解き放つんです。
そうして自由に飛んでいった先に神様が待っている。
「ねえ、ユー。いつかずっと高く登ってさ、月に行こうよ」
実際にはありえない、荒唐無稽な夢を、今だけは心から信じてみる。
あとで現実に立ち返ってしまえば、こんな妄想に何の意味があるのかと考えてしまうかもしれません。ですが、だからどうした。少なくとも今ばかりは大きな意味がある。
「ちーちゃんはいつも不機嫌だよね」
いっつも辛気くさい顔をしている不器用な子を、今だけでも心から楽しませてあげることができる。
金色に輝くライムライトの下で、ふたりの少女はまるで妖精のように踊り狂います。
今だけは。
ただ、この世ならざる、よくわからない衝動に突き動かされて。楽しく。
この世界に実在しない、けれど確かに在る、この世界の一部。
存在しえない存在は、けれど存在するだけの理由があるからこそ、確かにそこに在ります。
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