少女終末旅行 第10話感想 壊し、残し、そして拾い集めてきたもの。

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この赤い光がなんとなく悲しい色に思えるのは、この音楽のせいか、それとも――。

―― 感性領域

 タイムリミットのお知らせ。
 少なくとも原作マンガでは今話の駅ホームを最後に、以降創作文字が出てきません。望みがあるとしたら最終話にもしかしたら、って感じでしょうか。アルファベット残り3文字だったのにね。
 あるいは、ボケがキツくてまだ読めずにいるイシイの航路図に未解読っぽい文字があったので、もしかしたらBlu-rayでならもう少し進展できるかも?

 まあそれはしょうがないとして。

 終末を巡る少女たちの旅行は今日も続きます。
 どこまでも続く、いつもどおりの無人都市。けれどそこで描かれるちーちゃんとユーの物語は日々少しずつ違っていきます。10話あれば10話、12話あれば12話、どれもそれぞれ違うお話。
 美しくも似通った景色なのに、どうして物語が違っていくのかといえば。

死神にとっての終末旅行

 「進化というものには限界があるのかもしれません。この都市も大規模な破壊が起こったあとはそれっきりです。この層にいた人々もいつしかいなくなりました」
 「破壊の先の創造がなければ、ただ終わるだけだもんね」

 ちーちゃんたちのいるこの世界はすでに終わっています。一個の生命体としての限界にたどり着き、すでに“進化”を終えてしまっています。
 絶望。世界にとって、この先の未来には何ひとつ望みが残っていないわけです。きっとありとあらゆる望みを叶えつくしたから。できる限りの進化という進化、ひとつ残らず全部やり尽くしたから。

 なのに、どうしてでしょう。そこで紡がれる少女たちの物語が日々少しずつ違っていくのは。

 ちーちゃんとユーだけはまだ生きているから、というのもひとつの見方です。水面を跳ねることを覚えたサカナがいるように、あらゆる生きものは生きている限り、常に進化の可能性を宿しているものですから。
 ふたりの少女は日々変わっていきます。誰かの絶望を見届け、何かの終末を見届け。終末を見つめる神様に触れ、人が行き着く果ての墓に触れ、途絶えた文化の残響に触れ、あるいは無生物にすら等しく訪れる死に触れ。「音楽」を学び、「時間」を学び、「共感」を学び。
 少女たちが日々変わっていくから、物語も日々違っていくわけです。

 「たまに見かけるようになったけど・・・やっぱり動かないね」
 「機械の死体か」
 「なんか前に見た墓を思い出すよね。この列車も黒くて箱みたいだし」

 ところで、ちーちゃんが壊れたロボットのことを「機械の死体」と表現するのは彼女たちが以前に機械の死に立ち会ったことがあるからで、ユーが列車のかたちから「墓」を連想するのは彼女たちが以前に黒くて四角い墓を見たことがあるからでした。
 確かに変わっていくのは生き物であるふたりの少女たちなんですが、しかし彼女たちを変えたのは死者であるはずの他の存在たちなんです。
 進化できるのは生命の特権ですが、一方で進化の糧となれるのは生命だけとは限りません。

 少女終末旅行。
 行く先々で終わり損なったモノたちに終末をもたらしてまわる、ふたりの死神たちの旅路。
 それは終わり損なったモノたちにとってはありがたいものかもしれませんが、そういえば見届ける死神の側にはいったいどんな意義があるのでしょうか。
 その答えが、たとえばこれです。

 終末者の死体は、歴史は、魂は、ちーちゃんとユーの心に変化をもたらします。
 少しずつ、少しずつ、少女たちの世界観を拡張していきます。感性を豊かにしていきます。心を進化させていきます。
 彼女たちは行く先を知らない旅路のあちこちで、終末したモノたちからの贈り物をいくつも継承してきたんです。

感動のレンジ

 「夕日だね」
 「赤いね」
 「赤いな」

 夕日なんてものは見ようと思えばほぼ毎日見られるもので、言うまでもなく珍しいものではありません。色こそ日によって違っていますが、それでもはっとするような赤色だって貴重というほど貴重なものではありません。
 今日初めて感情を揺さぶられたというなら、それは普段なら見ても特に感動しないものだったからです。
 久しぶりに外に出られた開放感。遠くの空で切り取られたおもむき深さ。さびしくも美しい音楽。少し前まで交わしていた会話。すりむいた膝の痛み。それら全てを踏まえてこその感動。

 私たちは主観によって世界を観測します。私の見ている赤とあなたが見ている赤とはまったくの別物です。もっというと、昨日の私と今日の私ですら世界の見え方は全然違います。
 どんな生き方をして、どんな知識をもって、どんなことを考えながら、どんな気分で見つめるかによって、世界の見え方はガラリと変化するものだからです。
 私とあなたが別人であるように、昨日の私と今日の私だって別人です。

 「音楽って悲しくなったりするものなんだっけ?」
 「よくわからないけど、聞いてたらなんか悲しいような気持ちになった」
 「雨音の音楽を聴いたときは少し楽しくなったよね」
 「うん」
 「――本当だ。なんとなく悲しい音楽だね」

 けれどその一方で、ある程度の普遍性をもって共有できる感動というものもあります。
 真っ赤な夕日は(そのときどきによって程度の違いこそあれ)やっぱりどんなときでもある程度は悲しく感じるものです。
 あれって何なんでしょうね。

 何か、心のなかに同じモノサシのようなものでもあるのでしょうか。
 異なる人生を経て、異なる知識を踏まえ、異なる考え方で、異なる気持ちでありながら、それでも同じものを見て同じように感動する。
 人類は文字という伝達装置を発明したことによって繁栄を可能としました。離れた場所や遠い時間を書物でつなぎ、人類の歴史全体であらゆる知恵や技術を共有してきたんです。
 もしかしたら、それと似たような概念が感性の世界にもあるのかもしれませんね。哲学の世界でたびたび提唱される、イデアだとかスーパーイドだとか呼ばれるような、個を超越した共有領域。
 ひょっとしたらそこに、太古の時代のどこかの誰かが夕日を見て感動した、そんな記憶が刻まれているのかもしれません。私たちは彼の記憶を継承し、共有して、だから夕日を見てみんな一緒に感動できているのかもしれませんね。
 きっと、それはすごく幸せなことだと思います。初めに夕日を見て感動した彼にとっても、それを継承した私たちにとっても。

 文明が途絶え、人間が消散し、私たちの歴史を当たり前に繋いできたものが消えてしまった、終わった世界。
 そんな世界でたくさんのモノたちに正しく終末を与え、受け取っていく。ちーちゃんとユーの終末旅行はきっとそんな、大切なつながりを再生していく物語。
 肝心の彼女たちの道行きの果てにあるべきものは未だちっとも見えないのだけれど・・・何か救いがあればいいなあ。こうなると私にとっても他人事ではないのだし。

 「こいつから音がした気がしたんだけど・・・。墓で拾った変な機械なんだけどさ」
 「ああ、あれか。――って、ちゃんと返してって言ったじゃん!」
 「いやあ、これ使えそうだったし」

 そうとも。あなたの終末は決して無価値じゃない。
 あなたの終末はどこかの誰かを未来につなぐ、糧となる。

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