URAHARA 第11話感想 傲慢たれ、クリエイター。

メインストリートがまっすぐだなんて誰が決めたの? 行きたいお店が端と端にあるなんて、行ったり来たり面倒よ! ―― かみさまごっこ

URAHARA Vol.1 (豪華版)[Blu-ray]

 この脚本の迷い足っぷりに画面とセリフのチグハグ感、そのくせやたらと凝ってあった原宿時計はじめ各種美術。これは・・・またやりましたかね?
 まあそういう邪なゴシップ趣味は水洗トイレにポイしとくとして。

揺れる現実、揺るがぬ夢

 夢は現実を変えられません。けれど、現実を変える力をくれるのは夢だけです。

 「妄想? うーん・・・みーんな妄想? なんですナ!」
 みさがうっかり落っことした特大の爆弾。それはりとたちに多大なショックをもたらしたものの、しかしその割に物語の軸足がそちらに移る気配は全然ありません。
 うん。まあ、だってねえ。それって、りとたちはとっくに乗り越えてきたテーマですもん。

 全てのクリエイターはギャラリーを必要とします。あらゆるクリエイティブが自己表現欲求から生まれてくるがゆえの必然です。
 けれど同時に、クリエイティビティにおいて他者の存在はギャラリーとしてだけでなく、自分にはなかった新しい表現をもたらし、クリエイティビティを促進させる外部刺激ともなりえます。(こっそり論の軌道修正をしていますがご容赦)

 りとたちはモラトリアムの自己解体作業のさなか、他人からの賞賛を求める醜い自分の姿と向き合い、そして受容しました。
 「フォロアがいなくなってもいいんですかナ?」
 「ひとりぼっちに戻ってもいいんですかナ?」
 「描いた絵をひとりぼっちで眺める日々に戻りたいんですかナ?」

 自分が他人の賞賛を求めていることを認めつつ、それがさらなるクリエイティビティへと循環する幸福な日々の有り様を自信に転化して、揺るがない自分らしさを手に入れたのでした。
 「そんな日はもう来ない! まりとことこが私の絵を見てくれるから!」

 たとえ現実だと信じてきた全てが妄想に沈んでしまったとしても、今さらりとたちの立つ足場まで崩れてしまうことはありえません。
 「これまでのことが全部本当じゃなかったとは思えない。ひとつひとつのことに私たちのみんなの思いがこもってる。それまで嘘だったとはどうしても思えない」
 その足場は自分のクリエイティブを見ていてくれる友達への信頼と、自分のクリエイティブに対する確信でできています。ならば現実だろうが妄想だろうが、私には関係ない。私は私だ。いつだって私だ。

 今のりとたちには揺るがない自信があります。
 自信というものは持てる人にとってはあまりにも当然で、揺るがぬ絶対で、あらゆる前提で、――そうであるがゆえに他人にはきわめて説明しがたいもの。
 「妄想の世界で生きていられるならいいではありませんか」
 「いけないに決まってるでしょ!」
 「ホントじゃないんだから!」
 「それじゃお姉さんたちはダメなんですナ。現実、本当の世界じゃないと」

 物語としての体裁をとるならそれでも説明しようとするそぶりくらい見せろや! とツッコミたい気持ちがないわけでもないですが、なにぶんこれはそういう性質の話題です。「現実」「妄想」「本当」「嘘」「良い」「悪い」「わかる」「わからない」・・・などときわめて抽象度の高い語彙のみで論争されたっきり、今話の主題になることもなく、ゆるっと流されます。

 今ひとつピンと来なかった方は無理に今話を噛み砕くより、第7話~第9話あたりを見直した方が手っ取り早いかも。

むしろ私たちが現実を塗り替える!

 「それだー! だって今の原宿は私たちの妄想がつくった街なんでしょ。だったら私たちでつくりかえることができるかも」
 クリエイター。世界に元々あった古くさい価値観をガン無視して、むしろゼロベースから自分の好き勝手を世界に押しつけていく、きわめて傲慢な人々。
 モラトリアムの試練を経て、りとたちはすっかり一人前のクリエイターへと成長しました。目の前の現実が妄想だった程度のことでは今さら揺らぎません。むしろ今度は彼女たちの側から現実を脅かす番です。

 「メインストリートがまっすぐだなんて誰が決めたの? 行きたいお店が端と端にあるなんて、行ったり来たり面倒よ!」
 「ただ円いだけじゃなくて、少しデコボコした方がいいかなあ」
 「裏路地も充実させない? 知らずに入り込んだ先に新しいお店があるとステキだと思うんだけど」

 そうしてできあがるのはPARKのマスコットキャラクターを模したカワイイ原宿。カンペキ内輪ネタ。
 この傲慢よ!
 私はこの瑞々しいワガママを見たいがためにこのアニメをずっと追いかけてきました。これだけは絶対やってくれると信じていました。
 おめでとう、少女たち。神様にでもなったつもりですか。そうとも、少なくともあなたの主観においてあなたは正しく創造神ですとも。未来をつくっていけ。

 そしてりとたちが塗り替えた現実は、なにも原宿だけじゃありません。
 「みさがお姉さんたちを守るんですナ!」
 クリエイティビティがないと自称していた宇宙人の女の子を、まるごとクリエイティブ色に塗り替えてしまいます。

ギャラリー→→→クリエイター

 「この指輪にはつくってたときの楽しい気持ちがいっぱい詰まっていたんですナ。みさの一番大切なものなんですナ。だから嘘じゃないんですナ」
 「でも、みさ、今までそんなふうに思ってなかったんですナ。まさか妄想――ううん、嘘だったことにこんなにお姉さんが傷つくなんて、みさ、わからなかったんですナ」

 少し前までのみさなら、りとたちが現実にこだわる理由がちっともわからなかったことでしょう。彼女は、だって、ずっと他人のクリエイティブを見て楽しむのが専門でしたから。

 「嘘でも妄想でもいいではありませんか! 楽しかったり嬉しかったりしたのであれば!」
 エビフリャーが代表する、スクーパーズ流の考え方はなんだかんだいって観客視点としては真っ当です。
 アニメでも絵画でも、他人のクリエイティブを鑑賞する側としては、それが面白いかどうかが全てです。クリエイターがどんな思いでつくったか、どんな苦労をしてつくったかなんて、実際作品自体には関係ないですよね。(ドラマとしての付加価値になることはあるけれど)
 私も基本的にはいつもこのスタンスでアニメを楽しんでいます。たまに美術館に行っても作品解説は読みません。作品自体を単体で楽しむことにしています。私が興味を持っているのはあくまで作品であって、作者ではないので。
 たまにはいいこと言うじゃん、エビ天。

 「みさがつくらなくても、お姉さんたちがつくってくれるんですナ」
 みさも今まではこのスタンスでした。だからりとたちが原宿を再創造したり、クレープ屋のお姉さん相手に自作自演のドラマを繰り広げたりしてみせたことを、単純にスケールの大きなクリエイティブとして観客視点で賞賛していました。

 けれど、彼女は第6話のビーズアクセサリづくりをきっかけとして、知らず知らずにクリエイターとしての素養も身につけていったんですね。
 あのとき彼女が何を感じ取っていたのかといえば・・・
 「カワイイ! いい感じだよ、みさちゃん」
 「色の組み合わせカワイイ! 今年の色って感じ」
 「ホントにカワイイよ!」
 「え、エヘヘ・・・」

 そう。褒められること。他人に自分の作品を見てもらえる喜び。
 「この指輪、お姉さんたちに上手って言われてとっても嬉しかったんですナ!」

 「だってみさちゃん、もうわかってるよね。現実と妄想の違い。本当であることの大切さを。私たちのショックをわかってくれている」
 やたらと抽象度の高いりとの物言いをあえて具体化して言い換えるなら、要は妄想世界では他人との関わりがないから、クリエイターとしては困るという話です。
 先ほどギャラリー視点では他人のクリエイティブは面白いかどうかが全てだと書きましたが、クリエイターにとってはそうではありません。クリエイターにとって自身のクリエイティブとはすなわち自己表現欲求の発露なので、誰かに見てもらわなければその欲求を充足できないんです。
 もちろんこれまで語られてきたとおり、クリエイティビティにおいての他人の存在はそれだけのものでもないんですけどね。ややこしいのでそこらへんはファジーに・・・。

 みさの指輪に詰まっている「楽しい気持ち」は、りとたちにいっぱい褒められながらつくった楽しい想い出です。その想い出が、みさに妄想だけでは足りない、他人がいる現実でクリエイティブすることの意義を理解させました。
 「みさたちは『つくれない』んじゃなくて、『つくろうとしなかった』んですナ!」
 りとたちがクリエイターとして塗りかえた現実は原宿の街だけではありません。恐るべき宇宙人、みさの心すら変えてしまったんです。

 いよいよ最終話。
 りとたちはモラトリアムを守ってくれていた都合のいい世界を卒業し、もっと広い世界を塗り替えに旅立ちます。バブルの外に待ち受けているのが甘やかな花園か乾いた荒野かはわかりませんが、何にせよりとたちはもう大丈夫でしょう。
 だって今のりとたちはクリエイターです。現実に振り回されるのではなく、むしろ現実の側を塗り替えようと絵筆を振りかぶる、世界で一番傲慢な人種なんですから。

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