強さと愛を! レッツ・ラ・まぜまぜ!
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起源(大好き / 強さ+)
「ほら。お姉ちゃんがいいものあげる。これはね、みくがニコニコになるお守りだよ」
屈折(嘘つき / 愛-)
「そっか。みく、入院したんだ。・・・みく」
変身(出会い / 愛+)
「これはいちかちゃんが、妹のために、私のために、一生懸命手伝って、守ろうとしてくれた大切なチョコなんだ!」
絶望(大嫌い / 強さ-)
「被告人・剣城あきらは他人ばかりを優先し、身体の弱い妹をないがしろにした。あなたはいったい誰を守りたいのですか?」
統合(気付き / 強さと愛を!)
「この寂しさこそが私の強さ。そして、愛だ!」
結論からいうと、キラキラプリキュアアラモードの個人エピソードはいずれも自分を大好きになるための物語でした。
6人はみんなそれぞれ自分のなかに何かしら好きになれない部分を持っていました。そしてそこから目を背けようとするばかりに、自分の持っていたステキなところすらまっすぐ見つめられなくなっていたのでした。
そんな少女たちがキラキラパティスリーという場に集い、変わっていきます。みんなそれぞれ違う個性の輝きをときに好ましく、ときにうらやましく思い、その輝きに照らされて少しずつ自分を見つめなおしていったのです。
この1年間、彼女たちは何か新しい自分を手に入れたわけではありません。ただ、自分のなかの嫌いだったところを好きになり、ステキだったところをもっと好きになり、ありのままの自分を全部まるごと大好きになっていっただけです。
それがいかに難しいことか、彼女たちより少し大人なあなたにはきっと痛いほどよくわかるはずです。それがどれほど大切なことなのかも、きっと。
剣城あきらの歩んだ物語は、輝かしいものが同時に暗がりを生むという両義性を軸に描かれました。
あきらの愛は一方でみくちゃんを悲しませ、あきらの寂しさは一方でみんなを守る強さとなります。その表裏一体をもってこの物語はネガティブな気持ちを含めたあらゆる思いを受容する意義を語ります。
「ほら。お姉ちゃんがいいものあげる。これはね、みくがニコニコになるお守りだよ」
あきらの物語は大切な人を守る喜びからはじまりました。彼女は小さな頃からずうっと妹のために献身し、そしてそのたびに妹の笑顔を見てきました。
あきらは、そもそもそういうことに幸せを感じる人物でした。
そのような幸せは得てして脆いものです。
「そっか。みく、入院したんだ。・・・みく」
それはつまり他人の存在を前提とした、他人に依存した幸福であり、つまり肝心の相手がいなくなってしまえばそれだけで幸せを受け取れなくなってしまうのです。
献身しようにも献身させてくれる相手がいなければ献身できません。笑顔を見ることもできません。いつも一緒にいたみくちゃんが傍にいなくなってしまったために、(イヤな表現をするなら)あきらは別の依存先を必要としました。まるで飼い主をなくしたイヌのように。
剣城あきらは自分の「大好き」を委ねる先を探していました。
新しく献身する相手自体はいちかたちと出会う以前からすでに見つけていて、あきらは困った人を助けてくれるヒーローとして街のみんなから愛されていました。
だから、いちかたちとの出会いは彼女の心の欠落を直接に埋めるようなものではありません。
「これはいちかちゃんが、妹のために、私のために、一生懸命手伝って、守ろうとしてくれた大切なチョコなんだ!」
この出会いはひとつの示唆です。
あきらの献身はあきらの側から一方的に行われるものではなく、ときにあきらも献身される側となりうる、相互性のあるつながりであることの示唆です。それはつまり、あきらの献身は「依存」などという不健全なものではないかもしれないという可能性の萌芽となります。
あきらはいちかたちと出会って、変わりはじめました。
けれど、自分を変えていく日々は必ずしも楽しいばかりとは限りません。
「被告人・剣城あきらは他人ばかりを優先し、身体の弱い妹をないがしろにした。あなたはいったい誰を守りたいのですか?」
たくさんの人たちと関係性をつないでいくなかで、やがてあきらは自分の行いの歪みを弾劾されます。いったい誰のために力を尽くしているのか? あれだけ大切にしていた妹の関係性も実は他人で代替可能なものだったのか?
それは確かに一面の事実です。あきらのなかには彼女の自覚していない暗い利己心がありました。自分には力があるから全員を守ることができる、というのであればそれもいいでしょう。けれど、そこでごまかされた歪みは今度は献身を受けた相手の罪悪感として顔を覗かせます。
どんなに後ろ暗い思いがあったとしても、いつかは向き合わねばなりません。なぜならその歪みはあなたの「大好き」すらをも歪ませてしまうのですから。
みんなを守ろうとするその愛は、果たしてどんな「大好き」のためのものだったでしょうか。
「大好き」ははじめからあきらの傍にありました。
あきらの物語は大切な人を守る喜びからはじまりました。確かに窮極的には自分が幸せになるための利己心という側面もありましたが、しかしそこには同時に大切な人の幸せを祈る愛もあったのです。
「この寂しさこそが私の強さ。そして、愛だ!」
あきらにとって、自分の幸せとみんなの幸せはそもそも区別する必要のないものでした。
あきらは献身によって自らの幸せを得ます。ただ純粋にみんなの笑顔のために尽くすことこそがあきらの幸せです。自己愛と他者愛はひたすらに一致していて、だから自分も他人も傷つけることがありません。つまりあきらの「大好き」は献身する相手にではなく、彼女自身の愛のなかに委ねられていたのでした。
長い道行きの果て、あきらは自分のはじまりに「大好き」を見つけました。
「私は大切な人の笑顔を見たい!」
これが、強さと愛の間をさまよったいぬさんが自分を大好きになるまでのあしあと。
このあしあとは物語が終わってからも続いていきます。
いぬさんの「大好き」のある方へ、ずっと。
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