人は誰しも攻撃衝動を持っていると思う。こちらに落ち度がなければないほどワクワクするような、大義名分ありの攻撃衝動。――あれから3日、歩きつづけている。
「田中革命」
気になったポイント
「ゲームとは現実から逃避するもののはずだからだ」
初手からいきなり同意しがたい発言。私もソロプレイのほうが好きだけどさ。別世界の擬似体験を「現実から逃避する」と捉えるのは現実に対する憎しみが強すぎると思う。リア充はゲームしないとかその手の偏見ありきだろそれ。
消しゴム集めブーム
要は財力でクラス内ヒエラルキーを確立していた佐藤に対して、田中が一方的にライバル視していた構図。最初から勝負が成立していない。事実、佐藤はブーム終息後も一緒に遊ぶ友達ができている。
世界にひとつの激レア☆オリジナル呑楽消しゴム
つまりはいわゆる手づくりグッズってやつですよね?
「ゲームはひとりでやるものだ。ひとり孤独に開発者と戦うものだ」
開発者を仮想敵にしている時点ですでにソロプレイの感覚じゃない。田中が戦っているのは結局ゲームの世界の外側。結局対戦相手ありき。対人戦で負けるのが不快だから、代わりに接待プレイしてくれるCPUを望んでいるだけ。
「そんな余所行きな言葉ではなく、気付いているんだ。もっと単純な、そう、病気だ。ただの病気」
どこかで聞きかじった他人様の言葉で自分を貶めて予防線張ったつもりになってんじゃねーよ。
心象風景の川を流れてきた花
ツバキ。花言葉は「控えめな素晴らしさ」「謙虚な美徳」「誇り」。
スピリット・オブ・サムライ。
ドードーは死に絶えた
「俺がなぜこの事実上の決勝ともいえるふたりきりの不毛な争いに参戦したかというと、珍しい消しゴムをひとつすでに持っていたからだと思う」
「珍しい鳥なんだね、君は」
かつて、田中にとってドードーは力でした。持たざる者である自分にチャンスをくれたヒーローでした。
ドードーが絶滅した“珍しい鳥”であることは、田中にとってたいへんに価値のあることでした。
「思い起こせばドードーを持っていたがために参戦した消しゴム集めと、ドードーを手に入れるためにプレイしているズーデン。その対比を思ったとき、これは必ず手に入れなければならない宿命のようなものを感じた」
その幻想的な力のイメージは、田中が大人になっても変わることがありませんでした。
ドードーは変わらず田中のヒーローでありつづけました。消しゴムブームのときと違って、ドードーを手に入れたところで誰かにチヤホヤしてもらえるわけでも、ゲームのランキング上位になれるわけでもないけれど。それでもどうしても手に入れなければならない気がしていました。
けっして「病気」などと陳腐な言葉で片付けていいものではありません。ドードーは現実を変えうる力。ドードーは夢を叶えてくれるヒーロー。ドードーは・・・、田中にとって本当に大切な、人生における道標のようなものでした。
「飛べないまま絶滅していった鳥。自己投影しているのかもしれない。まるで俺のようだ」
「いや、このまま報われずに死んだところで俺はレアにもなれないただのノーマルだ。このゲームは世界中で人気を博しているぶん、市場の規模も大きい。アカウントそのものを売買する仲介業者なども存在する。500万円以上費やした俺の、ランキング3桁台のアカウントはせいぜい売れても数十万円だ。ditch-11のアカウントがもし市場に出たら大金が動くだろう。ドードーを所持しているだけのアカウントなら数万円で手に入る。でも違うんだ。それは違う」
それこそドードーを求める自分を「病気」と吐き捨てるようになったころの田中のなかでは、ドードーのイメージはだいぶ変質してしまっていました。
このころの彼にとって、ドードーは金額というかたちで数量化できる力でしかなくなっていました。それも、ノーマルでしかない自分よりもさらに価値低く、ましてditch-11と比較したら歯牙にもかからないほどのか弱い存在。
飛べない鳥。絶滅してしまった鳥。絶滅したのは、ドードーが力ない存在だったから。
冷静といえば冷静です。実際、ドードー消しゴムは佐藤に勝てませんでした。ドードー消しゴムは小学生の田中を救ってくれませんでした。
けれど大切なことを忘れてしまっています。
田中はドードーに憧れを抱いていました。現実にどういう生き物だったかはあまり関係なく、絶滅したことによる希少価値。周囲に突きつけられる影響力。そういった意味での強さに焦がれていました。たとえ現実には佐藤に勝てずとも、ditch-11に張りあえるはずがなくとも、それでも。
田中に味方してくれる存在のなかでは、それでもドードーこそが、持たざる者という田中の現実を覆しうる一番強い力を持っていたはずでした。
その初期衝動を忘れてしまうから、ドードーの幻想的な力のイメージを自ら否定してしまうから、ドードーに憧れる自分の思いを「病気」などと陳腐な言葉でバカにできてしまうんですよ。
「運ね。・・・確かにな」
「運の要素は絡むかもしれへんけど、自分でコントロールできる部分を諦めたくないやん。淘汰されずにどう生き抜くべきかって、運以外のところで考えるべきこといっぱいあるやん」
「――じゃあ、ドードーは運が悪かったと?」
かつて田中のヒーローだったドードーは、やがて「運」ごときにも敗北するほどにまで落ちぶれてしまいます。
偶然、海を渡ってきた人間たちに食われて。
偶然、暴走タクシーに出くわして。
無様に。
過去の自分への“復讐”
「復讐するとするならば、あの日の俺だ。そしてあの日の俺を救うのは、今の俺なのだ。――俺は10万円を課金した」
田中を救ってくれる人は誰もいませんでした。
田中の父親は学生レベルの信用価値しか持たないぼんくらサラリーマン。田中の兄は親の金で買ったゲーミングパソコンを弟に触らせもしない狭量オタク。担任教師は児童の実像も顧みず型にはまった思想教育しかできない愚物。最後に縋ったditch-11も金だけ奪って呑楽消しゴムをよこしてくれない詐欺野郎。
唯一ドードーだけは味方になってくれましたが、彼ひとりでは田中を救うには力不足のようでした。
誰にも頼れなかったせいで、小学生の田中はずいぶん愚かなことにまで手を染めてしまいました。
愚かで無力だった彼にも、自分自身を救うことはできませんでした。
だとしたら、彼を見返してやることができるのは今の田中だけ。
彼を救ってやれるのも今の田中だけ。
だって、自分とドードー以外の誰も、田中を救おうとしてくれなかったんですから。
田中の人生を救ってやる気があるのは、今も昔も田中だけでした。
かつての自分には力がありませんでした。たかだか10万円程度が手に余る大金でした。
今なら少しは違っています。今なら10万円を自力で工面することもできます。
今なら・・・。今、もう一度ドードーとタッグを組むことができたなら、今度こそ何かを変えられるかもしれない。
田中は、自分自身が田中のヒーローになろうとしたんですね。
「そしてカードの明細を見た父親にヒくぐらいボコボコにされた。殴られながら、いったい誰が悪いんだろうと考えた。教師。クラスメイト。佐藤。兄。父。出品者。入札者。俺。国。歴史。文明。政治。神。――どう考えても、百歩譲っても俺が悪いし、敗者がいるとするならばやっぱり俺だった」
田中は昔からどうしようもなく卑屈でしたが、自分に対する誠実さだけは持ちあわせていました。どんなに悪い巡りあわせがあったとしても、常に悪いのは自分だったと考えて、他人に八つ当たりすることがありませんでした。
まあ、八つ当たりしようにもそんな甘ったれた気持ちを安心してぶつけられる味方がいなかっただけなんですが。そんなんだから幻想にもほどがあるドードーの力なんてものを神聖視してしまったわけですが。
ほんと、卑屈すぎるんですよ。
なんだよ田中革命って。自分が格下であること大前提でものを考えているじゃないですか。ライバルの佐藤だって消しゴム集めブームまでは田中と同じ持たざる者だったはずなのに。
私、田中が革命と名付けるまで「これ、いわゆる学級戦争ってやつか」とか思いながら観ていましたよ。言われるまで今話のサブタイトル忘れてましたよ。革命っていうほど革命っぽく見えませんでしたよ。「何が見えてんだ田中」って思いましたよ。
「課金額はトータルで500万円を超えている。それでもランキングは3桁台だ。ドードーはまだいない」
ドードー以外に味方がおらず、自分自身何か特別なものを手に入れられたわけでもない田中の第二次ひとり相撲革命は、当然ながら今回も惨敗ムードで進行しました。
それでもなお、田中は敗因を自分以外に押しつけることができません。誰のせいにもできないせいで、自分の評価額だけがどんどん目減りしていきます。ソシャゲに500万円も課金する奇特な人間の人生がレアどころかノーマルでしかないと自己査定してしまいます。
そんなんだから自分だけのヒーローすらも貶めてしまうんだ、ばーか。
「・・・待ってろよ、ditch-11」
そんだけ他人に執着できるんだったら、もういっそ素直に全部他人のせいにしてしまえばいいのに。
自分以外の誰かへの“復讐”
「たしかに手に入れたドードーの喪失感に気力を全て奪われたように思う。そして運命は残酷なもので、神様は俺からもうひとつ奪ったんだ」
「少なくともドードーは神様が奪ったのではない。あのタクシーだ。まるも誰かが奪ったわけではない。オカメインコの寿命は15年ほど。確かに全うした。それが偶然今日だっただけだ」
「しかし、この忌まわしい巡りあわせを考えると、神様はいるんじゃないかと思うことがある。ゲームでは手詰まりかと思われたタイミングで貴重なアイテムを手に入れる。よくできている。それはそうだ。つくっているやつがいるんだから。じゃあ、この世をつくったやつもいるんだろう。この世はプログラミングされてるんじゃないか」
「――なあ、神様。あんただよ」
支離滅裂。
神様が奪ったものとタクシー運転手が奪ったものと偶然に奪われたものをそれぞれ別々に考えているようで、結局一緒くたに混同しています。ペットの死に至っては「神様は俺からもうひとつ奪ったんだ」と言ったそばから「まるも誰かが奪ったわけではない」と、180度違う捉えかたをしています。
まるで意味がわかりません。明らかに錯乱しています。
ただ、読み取れることがひとつだけ。
ここには「自分のせい」がありません。ずっと、何もかもを自分のせいにして自分の価値を貶めつづけてきた田中が、このシーン以降、自分のせいにするのをやめています。
そうですね。
暴走タクシーの危険運転に巻き込まれた件だけは、明確に小戸川のほうにこそ過失があります。この件についてだけは田中が悪いというほうがおかしいです。
この件だけは誰がどう見ても小戸川が悪いです。
だから、本人も自覚しているように、きっとあのとき田中の心のタガが外れて、――いいえ。壊れてしまったんでしょうね。
田中はこれまでずっと、何もかもを自分のせいにすることで、心の均衡を保っていました。
“持たざる者”。
小学生時点で早くも人生の勝敗が見えてしまう理不尽さに対し、田中は「全部自分のせいだ」という絶対的な言い訳を盾に、自分の心を守ってきました。
何もかもが自分のせいであったなら、この世は理不尽なんかじゃない。
神様に弄ばれてなんかいない。
「そうや。地位と名誉とビッグマネーを掴みに東京に乗りこんだんや」
「で、まだ手に入んないんだ?」
「そら一朝一夕というわけにはいかんからな」
「どうしたら手に入ると思う?」
「それがわかったら苦労せえへんやろ。相方は運やって言い放ったけどな」
「相方?」
「まあビジネスパートナーみたいなやつや」
「運ね。・・・確かにな」
運。運。運。全ては運。
田中のせいじゃありませんでした。
神様とか。タクシーとか。ditch-11とか。佐藤とか。
悪いのはいつだって、全部田中以外の誰かでした。
田中が救われないのは、田中が弱いからでも、ドードーが頼りないからでもなく、もっと他の誰かのせいでした。
「いつも何かを探していたように思う。それと同時に、いつも何か満たされない人生だった――」
田中の心象風景の川を流れてきた花はツバキ。花びらを一枚ずつ散らすのではなく、花弁ごとボトリと落ちる様は薩摩武士たちに潔しと捉えられ、好んで武家屋敷に植えられていました。花言葉は「控えめな素晴らしさ」「謙虚な美徳」「誇り」。
田中にとって、きっと何よりも田中らしさを支えてくれていた、大切なもの。
「――じゃあ、ドードーは運が悪かったと?」
違う。そうじゃない。
たとえ現実にはそうだったとしても、それを認めるべきではない。
それを認めちゃいけない。
あの幻想は。もがき苦しむ強さは。ささやかで儚い力は。――田中の半生を、確かに支えてくれていたのに。
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