跳ぶのが怖い。応援されることも。けど・・・。
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(主観的)あらすじ
何かが心に引っかかっていてプリキュアに変身できなかったほまれ。けれどそんなこと関係なしにはなは彼女に憧れていて、今日も彼女のセンスを頼ってビューティーハリー開店のお手伝いに誘います。ほまれがレイアウトしたビューティーハリーは大好評大成功! ほまれにははなたちにはできないことができる、確かな力があります。
それなのにずっとうつむいているのはどうしてでしょう。そっとしておくべきという考え方もありますし、実際かけてあげるべき言葉も思いつきませんが、それでもはなには放っておくことなんてできませんでした。
はなたちの応援を受けて弱い自分を振り払ったとき、輝木ほまれは力のプリキュア・キュアエトワールに変身するのです!
“鬱の人に「がんばれ」と言ってはいけない。彼らはとっくにがんばり尽くしているのだから、これ以上がんばれと言われても辛いだけ”
そういう言論が広く浸透しはじめた当時、通っていた大学の心理学系の教授(専門は犯罪心理学だったかな?)がひどく腹を立てていたことが印象に残っています。
曰く、“では誰にも声をかけられず孤独に過ごしていれば人は立ち直ることができるのか。肉体的なケガだって外部から栄養を摂取しなければ自然治癒すらままならないというのに”。
1年もの間ずっとうつむいたまま生きてきた輝木ほまれが、今日この日に希望を取り戻しました。その意味を、どうか考えてみてください。
なりたい自分
「もうすぐお店オープンなんだけど」「何かが違うと思うんだ」「力を貸してー!」
悪ふざけしているようにしか思えない謎センス。まあハリー主導ですからね。仕方ないですね。
あの人、大人キャラと見せかけて実はイクメン1年生みたいなポジションなので、言うこと為すことだいたい未熟です。お兄さんみたいな見た目に騙されてはいけません。精神的な目線の高さははなたちと同等か、場合によってはもうちょっと低いくらい。
さてこの開店前からすでに絶望感ただようショップをいかにリフォームするか。そのための最初の一手なんてひとつしかありません。
「うーん。どんなお店にしたいの?」
そもそも何がしたいのか。その確認。
「そらぎょーさんお客さんが来る店にしたいわな! お子さんからマダムまでビューティーハリーがオシャレにまとめまっせ!」
「だったらお店のイメージずれてると思う」
「めっちゃセレブ感出してるのにー。なんでや!」
そこよ。幅広い客層を呼び込みたいと思っているはずなのに、怪しいコンセプトショップのごとくテーマを尖らせているのが良くない。わざわざツッコむまでもないところでツッコミ待ちしてくれる、ハリーさんは良い牽引役です。
未来は無限大。なんでもできる、なんでもなれる。
そうはいうけれど、現実として未来は現在から連続しているものです。誰もが明日からいきなり輝く未来を勝ち取れるわけじゃない。
お店のイメージがずれているというのはそういうことです。どういうお客さんに来てほしいのかという希望と、現在のこのレイアウトを喜びそうな客層があまりにも乖離している。こんなショップじゃ怪しい雰囲気を喜ぶサブカルオタクか雑多な店内から自分らしいものを発掘することが趣味な個性派さんしか来やしません。
そういうお客さんを相手に商売したいというならアリですが、ハリーの希望は「お子さんからマダムまで」ですからね。残念ながらこの現在の延長線上にハリーが思い描くような未来はありません。
「私、なりたい“野乃はな”があるの。だからがんばるの」
未来を志向していながら、はなは夢見がちな少女というわけではありません。その視線は未来よりもむしろ現在に向けられていて、未来のために現在を努力するというスタンスを形づくっています。
なんでもできる、なんでもなれる。でもそれは今じゃない。
「プリキュアは諦めない!」
「“諦めない”・・・。私も・・・、私も・・・!」(第4話)
プリキュアに変身できた野乃はなと変身できなかった輝木ほまれの違いは、つまりそういうことでした。
いくらもう一度跳びたいと願っていようと、そのために今を変える努力をしなければただの夢想。
「うーん。どんなお店にしたいの?」
未来のために現在を変えなければいけないことくらい、本当はほまれもわかっているはずなのに。
変わる今日
「跳ぶのが怖い。応援されることも。けど・・・。もう自分から逃げない! 私は私の心に勝つ!」
失敗した前話と成功した今話でほまれの置かれた状況が大きく変わったわけではありません。はなたちと出会う前からほまれはずっと跳びたがっていて、今話彼女がしたことといえば、せいぜいそこに向かって第一歩目を踏み出したことくらいです。全ての答えははじめから彼女のなかに揃っていました。
ですが、それは今日でした。
ほまれの現在と未来は、今日、劇的に変わりました。
「キミは一度の失敗と思っているかもしれないけれど、身長が伸びてから一度もジャンプに成功してない。それが真実でしょ?」
若年アスリートにはよくあることだと聞きます。
スポーツというのは突き詰めると、いかに優れたフィジカルをつくりこむか、いかに完璧に肉体をコントロールするか、その2点に集約されるもの。本来アスリートにとってフィジカルの成長は歓迎すべきものです。しかし子どものうちはあまりにも成長が急激すぎて、大きくなった肉体をコントロールする勘所をつかめず混乱してしまうこともあるわけです。
例えるなら、昨日まで軽自動車に乗っていた人がいきなりF1カーに乗るようなものですね。そんなの一朝一夕で乗りこなせるわけがない。
あの日の失敗はあの日限りの偶然ではなく、ほまれの置かれている状況はあの日も今日も全く変わっていないわけです。今のほまれがジャンプしても必然として失敗するでしょう。アスリートに要求される高度な身体コントロールは何もせずして自然と身につくものではありません。
ですが、それでもほまれが変わったのは今日でした。
あの日から何も変わっていないはずの、今日でした。
「跳べ! キュアエトワール!」
今日、ほまれの身に何が起こったのでしょう。
昨日までできなかったことがどうして今日できるようになったのでしょう。
それがあの子のしてくれたことの価値です。
フレフレ
「そっとしといたれや。充分がんばっとるヤツに『がんばれ』言うのは酷やで」
それはひとつの事実です。「がんばれ」と言われてがんばれないのは、その人の心のキャパシティがすでに他のものでいっぱいで、がんばる余裕がないからです。これは本当に努力を積んでそれでも失敗した人でも、はじめから何もしていないように見えるなまけ者でも同じこと。その人の心のキャパシティに対して努力することのストレスが大きすぎるんです。
心というのは案外勤勉で、“なにもしない”ということがありえません。白い小部屋に閉じ込められて一切の努力を制限されると大抵は24時間を待たず発狂してしまいます。常に何かをしていなければ人の心は壊れてしまうわけで、逆にいえば壊れていない人の心は常に何かをしているということでもあります。何かに打ち込むこと、何かをつくること、自分を鍛えること、遊ぶこと、休憩すること、過去に思いをはせること、ぼんやりと暇を潰すこと、誰かを憎むこと、自分を嫌って苦しむこと、すべて等しく心の働きです。
「がんばれ」と言われてがんばれないのは、その人にがんばる気がないからではありません。どんな人の心だってできることをできる限りしようと日々活動しています。それでもできないことがあるのは、動機づけ、トラウマ、進行中の別のタスク、様々な要因によって努力のストレスを心のキャパシティで受けとめきれずにいるのが原因です。
だから、ただ「がんばれ」と繰り返されたところで人はがんばることができません。むしろがんばらなければいけないのにがんばれないというコンフリクトが新たなストレス要因になるだけです。
この不毛さを回避して、それでも誰かにがんばってもらおうとするならば、その場合はちょっとした搦め手が必要です。トラウマを解きほぐしてストレスを和らげたり、その人が取り組んでいる別のタスクを受け持って心の余裕をつくったり、あるいは“この人が言うならがんばろう”と思えるような関係性を構築して動機づけとしたり。
ただ、こういうのは本当に親しい人にしかできないことですね。その人のために深く関わろうとする覚悟も必要です。だからこそ安易に「がんばれ」と言ってはいけないなんていわれるのですが。
「私もゴメン! なんて声をかけたらいいのか正直わかんなかった。もっとイケてる言葉言いたかったけど、心がウーってなって、フレフレしかできなかったの」
今のはなとほまれの関係性ではそこまで深く介入するのは不可能です。相手の事情を知らないんだからイケてる言葉なんて出てくるはずもありません。はなの立場から「がんばれ」を言うのは無責任とすらいえるでしょう。
ですが、だからといって「がんばれ」を言わないことが本当にその人のためになるでしょうか?
「がんばれ」という言葉は命令です。その人が今は充分にがんばっていないと評価し、これからさらにがんばることを強制しようとする言葉です。本質的に結構キツい言葉です。
ですが、この言葉を口にするとき、あなたはどんな思いを抱いているでしょうか?
「人を応援するってすごく難しいことだと思う。でも、このままじゃ・・・」
「うん! あんなほまれちゃん、やっぱりほっとけない!」
その人ならがんばってくれると思う信頼。がんばってくれることに喜びを覚える親愛。がんばってくれたらもっとステキになれるだろう希望。まあ色々あるでしょうが、往々にしてそれは相手が今よりももっと幸福になってくれることを願う、善意と好意をいっぱいに込めたポジティブな思いなのではないでしょうか。
「がんばれ」の言葉自体は命令で、ともすると現在の相手のあり方を否定しかねないキツい言葉です。ですが、そこに込められたあなたの思いは言葉の本質とウラハラに優しいものです。思いやりに満ちた暖かなものです。
そこに、「がんばれ」を言うことのステキがあります。
「みんな私のこと心配してくれてる。わかってる。なのに・・・」
「ごめんね。応援してくれたのにキツいこと言っちゃった」
その善意は、その好意は、ちゃんと届きます。
だって、あなたが本当に伝えたかったのは命令の言葉じゃなくて、善意や好意の方なんですから。
そしてそれらの思いは相手を少し元気にします。
だって、がんばってほしいというのはつまりそういうことでしょう?
自分の幸福を願うポジティブな思いを伝えられて悪い気になる人はそうそういません。言葉は魔法です。言葉そのものと一緒に、あなたの伝えたかった思いまで余すことなく伝えます。
もし「がんばれ」を言わなかったら、あなたはどうやって同じだけの善意と好意をその人に伝えられたでしょうか。
「私やはなちゃんにできないことが、ほまれさんにはできる」
ほまれは力のある子です。本当はやりたいことを実現できる力をはじめから持っていました。
「ほまれちゃんはどんな自分になりたいの?」
ほまれは夢を持つ子です。本当は自分がやりたいことくらい初めからわかっていました。
それなのに、今まではできずにうつむいていました。今日のこの日まで輝く未来を思い描けずにいました。
心のエネルギーが足りていなかったんです。
身体にケガをしたときは栄養のあるものを食べると早く元気になれるように、心にケガを負ったほまれは何よりも心の栄養を必要としていたんです。
それをくれたのが、はなのフレフレ応援。「がんばれ」の言葉でした。
ほまれの置かれた状況は昨日も今日も大きく変わりません。別に今日スケートジャンプができるようになったわけではありません。
けれど、ほまれの今日は昨日から劇的に変わりました。今日、やっと充分な元気を分けてもらえたからです。
「この怪物は私が倒す!」
過去の恐怖を断ち切って、未来へ。
ですが、そのための力は自分のなかから自然にあふれてきたものではありません。
「私たち仲間でしょ」
「ここからは一緒に、力を合わせて!」
はなとさあや、応援してくれた友達の「がんばれ」から受け取ったものなんです。
「跳べ! キュアエトワール!」
いつかのあの日は見る人に元気を与える側だった氷上の一番星。その再起は反対に誰かから元気を分け与えてもらうことによって成りました。
輝木ほまれの力はいつだって誰かとの関係性の間にあります。
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