真・女神転生5 プレイ日記 その3 品川区:コンテナヤードまで

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色々とアドバイスありがとう。東京が大変なときだけど、こういうときだからこそ、当たり前の生活を守らないといけないと思うんだ。

このブログはあなたがプレイ済みであることを前提に、割と躊躇なくネタバレします。

現況

 ハマオン目当てでプリンシパリティをつくろうとしていたら合体事故でロアができました。
 ・・・うん。いや、まあ、悪くはないんだけれども、せめてルー・ガルー戦が終わってから来てほしかった。

 対ルー・ガルー仕様。
 とにかく物理攻撃が怖いのでできるだけダストマをかけておきたい。禍つ霊を集められたときはドルミナーで眠らせてやるとターンスキップできて便利。・・・と期待していたのだけれど、実際には戦術に組み込めるほど頻繁に状態異常をかけられるわけではなかった(※ だいたい5回に1回)ので、今回主人公は全然役に立っていません。ボス相手でも当たるには当たるってだけマシなんですけどね、このゲームの状態異常。解けるの早いけど。
 色々試してみましたが、このゲームのボスは複数回行動するので、かけるなら毒がよさそうな感じですね。意外とバカにならないダメージを出してくれます。まあ、解除判定も行動のたびに毎回来るので、ヘタしたら1ターンで解けちゃうんですが。

 ちなみにそのルー・ガルー戦は前回同じで、禍つ霊スキル「羅刹王の宴」でステータスを下げたあと力押しでカタがつきました。禍つ霊対策も素直に障石を使ったほうが楽。
 デバフは必中なのにどうして状態異常の付着率だけあんなに低いの・・・。

サブイベント:東京への邪魔者を排除して

 魔界から東京へ移住したいリリムと、それを食い止めたいプリンシパリティの対立。

 今のところ法の神にも古き神にも肩入れする気はないので、だったらシンプルに人間にとっての利害判断でプリンシパリティに味方すべきかな? ・・・と思っていたんですが、話を聞くところによるとどうやらリリムは人間の精気は啜っても生命までは奪わないつもりでいる様子。
 まあ、メガテンの悪魔なのでそもそも信用できるのか?って話がまずあるんですが、それはさておき。
 一応向こうが友好的な態度で共生を望むのなら、こちらも誠意をもって寛容さを示すべきかもしれません。トラブルは絶対起きるでしょうが、最初から拒絶するのと何か起きてから反省するのとでは、後の世に残せる教訓の深みも全然違ってくるでしょうし。(※ もはや移住リリムが東京から排除されること前提の思考)

 そんなわけで、当初依頼を受けていたプリンシパリティを裏切ってブッコロしました。(※ 誠意とは?)

 ただ、少し前にタオが話していたことを思うと、この判断本当に正しかったのか?って思うところはやっぱりあるんですよね。

 「東京が大変なときだけど、こういうときだからこそ、当たり前の生活を守らないといけないと思うんだ」

 日常は絶対に守るべきものなんですよ。そもそも人間は何のために争うのか、というのを考えると。

 今、私の主人公が悪魔と戦っているのって、自分たちの日常を守るためのはずなんですよ。

 人間が戦争するのは平和を求めるからです。
 誰だってできることなら命のやりとりなんかしたくありません。当たり前です。たとえ戦いに娯楽性を見出す人がいたとしても、この前提は変わりません。娯楽と自分の命を天秤にかけるのはどんな狂人でも割に合いません。
 だけど、たとえば余所からの侵略の危機にさらされているとか、飢饉や経済封鎖で自力での生活維持ができなくなったとか。そういうやむを得ない事情が生じたときは、むしろごく自然に戦争という選択肢が視野に入ってくるでしょう。そういうもののためになら自分の命をかけるのも割に合います。
 平和を取り戻すために。自分たちが当たり前の日常を営むために。

 防衛戦争であっても、侵略戦争であっても、人間があえて争おうとする行為の本質は同じはずです。
 人間が何よりもまず大切に守ろうとするのは、第一に日常です。

 そう考えると、自分たちの日常を乱しうるリスクを飲んでまで移民を受け入れるのって本末転倒だなあと。我ながら自然な判断じゃなかったなあと。
 リリムを受け入れようと思った自分の判断に対して、そういうふうに考えるわけですよ。

 うん。実際のところ、どっちを選ぶのが正しかったんでしょうね? 私にとって。

一神教というシステムの目的

 「私の強さが知りたいというのか。ならば教えてやろう。私の強さとは、神への揺るがぬ信仰。絶対の存在である神を信じ、迷わず行動することだ」

 自信を持てない自分が嫌いだ、強くなりたいというイチロウに対し、天使アブディエルは信仰が意志の強さを支えていると答えます。

 一神教というものの目的はまさにそこにあります。

 原始的な宗教の多くは多神教です。山に川に。森に、畑に、風に、歌に、あるいはかまどに。自然物・人工物の区別なく、人間の営みに隣接する森羅万象ありとあらゆるものに神が宿ります。
 加護が欲しいからです。
 神を敬い、贄を捧げる対価として、何らかの利益を期待するからです。たとえば天災からの赦しを。たとえば豊かな収穫を。たとえば戦の勝利を。
 人によって求める利益が異なるからこそ、神が複数いる必要があります。
 平和を脅かしうる危機が多様だからこそ、それに対応する神も複数存在することになります。

 対して、一神教の神はモノに宿りません。神は神です。それ以上でもそれ以下でもなく、ただ“神である”ことのみを存在意義として君臨します。
 そして一神教の神は人間に対して何の利益ももたらしません。時たま奇跡を観測させるだけに留め、人間の営みに関しては良くも悪くも干渉しようとしません。
 そういう神に、人間は祈りを捧げるわけです。

 多神教の神と違い、一神教の神は具体的な加護を一切もたらしません。
 なのに人間は祈ります。祈ることそのものに幸福さえ感じます。
 一神教とは、“何の対価も求めない純粋な信仰”を生みだすためのシステムです。

 アブディエルは“自分の信仰が揺らがないこと”“神が絶対の存在であること”の2点を根拠として自分のなかに強い意志を獲得しています。
 これが一神教の強みです。

 もし、あなたが何らかの利益を期待して神を信仰していたなら、その利益がもたらされなかったとき、あなたは信仰することをやめてしまうことでしょう。
 もし、信仰する神に“神である”以外の何らかの設定が付加されていたならば、あなたは神に対して思索を広げ、ただ信仰する以外のアプローチを思いついてしまうことでしょう。

 一神教にはそういう揺らぎの余地がありません。
 私たちにできるのは、ただ祈ること。その一点。
 どんなときでも、どんな場所でも、揺らぐことなく神への愛だけを胸に抱きつづけることができます。

 その一本気、まっすぐで強い心持ちを自身のなかに構築できることこそが、一神教というシステムの効能です。
 一神教とは、ただそれだけを目的として洗練されつくした、人類最初で最大の発明品です。

 イチロウのように生来頼るべきものを得られた試しのない人間なら特に、一神教の神への信仰はてきめんに効果を発揮することでしょう。

 ただまあ・・・。今作の法の神って、一神教というより多神教的な価値観に基づいた神様なんですよね。
 人格あるし。加護をくれるし。うまくやれば殺すことすら可能なようだし。
 たぶん、こいつを信仰しようとしたところで絶対的な心の安寧は得られないと思う。絶対どこかで信仰を疑うことになると思う。
 アブディエルもああ見えて実は結構危ういんじゃなかろうか。

 これだからLawは。(またこの結論)

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