トロピカル~ジュ!プリキュア 第40話感想 今、一番ファンタジーな物語を書こう。

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伝説のパパイアがあるとしたら、こんな味なのかも。

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「紡げ! みのりの新たな物語!」

活躍したひと

みのり

 みのりファンタジア。自分が普段から空想ぎみな思考パターンをしているくせに、一生懸命現実とファンタジーを線引きしたがる難儀な子。そしてその難儀さの根底にあるのは“自分は物語の主人公みたいになれない”→“現実はファンタジーみたいにうまくいかない”というネガティブシンキングだった。トロピカる部で活動し、自信を回復した今、彼女はやっと大好きだったファンタジーと向きあうことができる。

トロピカってたもの

伝説のパパイア

 みのりが書いたファンタジー小説『マーメイド物語』に登場するキーアイテム。食べればすごい力を得られるというが詳細不明。というか未設定。今話はそんな存在するはずのないものをまなつが探そうと言いだしたところから物語が動きだす。
 現実とファンタジーを区別したがるみのりにはこれがトロピカった活動になるとは思えなかったかもしれない。けれど、伝説のパパイアは現実に存在したし、今日はトロピカっていた。

うまくいかなかったこと

 トロピカる部で演劇をやることになり、みのりはもう一度物語創作と向きあうきっかけを得た。しかし、「キャラクターも物語もありがち、作者の経験が入っていない」という自分の創作活動の問題点は解決できていないままだった。

やりきれたワケ

 “伝説のパパイア”なんてものは現実に存在しない。そして物語は作者の体験をベースにするべきだと人は言う。ならば現実に存在しないものを描こうとするファンタジー小説なんてどこの誰にも書くことはできない。そういう理屈になるはずだ。
 だが、みのりは自分が生きる現実世界において、“伝説のパパイア”を確かに見つけた。みのりにはファンタジーを描く資格がある。

 パパイアは熱帯気候にある多くの国々で広く栽培されている果物です。
 原産地では緑色の未熟果をサラダや炒め物にして食べることのほうがはるかに多いので、野菜の一種とみなすほうがメジャーなのですが、まあそれをいったらバナナですら果物とはいえない(※ 現地では青いものをジャガイモみたいな調理法で食べる)って話になっちゃうので、とりあえず果物ということにしときましょう。
 原種は10mもの背丈に成長するのですが、近年の栽培種としては劇中に出ていたような2m程度の矮性のものが広まっています。収穫しやすい=人件費他が安く済むという理由もありますが、それよりもパパイアって意外なくらい風に弱いんですよね。あれ、樹木じゃなくて草なので。幹が木質化していないので。台風が来たときなんか簡単に折れちゃいます。その意味でも農家としては背が低いほうが都合がいいんですよね。

 果物として食べるパパイアはかなり好みの分かれる味をしていますね。甘味もそれほど強くないのですが、それよりまず酸味が全然ありません。果汁が少なくて食感も独特。なので、そのまま食べるよりはレモン汁をかけたりヨーグルトにあえて食べたりするほうがオススメです。タンパク質分解酵素を含んでいるのでヨーグルトと混ぜたらすぐ食べる必要がありますが。よくフルーツグラノーラにドライフルーツとして入っていることがありますね。あれもおいしい。
 野菜として食べるパパイアとしてはナンプラーを効かせたサラダのソムタムが有名でしょうか。日本では生の青パパイアが手に入りにくいので、スイカの白い部分で代用したレシピが広まっています。ただ、もっと身近な利用例もありますよ。おでんとかに入っているミニロールキャベツ。あれを縛っている白いヒモがパパイアです。あれ実はかんぴょうじゃないんですよね。

 花言葉は劇中に出てきた「同胞」のほか、「燃える思い」「同じ思い」なんてものもあるようです。たぶん、これらも次から次に花を咲かせては実をつける性質に生命力や連帯感を見出してのものでしょう。生きてるって感じ!

 これ何の記事でしたっけ? そうそう、プリキュアだ。

この世にプリキュアはいない

 「・・・自分の経験って、どう入れればいいんだろう? これは空想。ファンタジーなのに」

 今話の脚本は成田良美氏。プリキュアシリーズには初代『ふたりはプリキュア』から参加しており、シリーズ構成も2回務めている大ベテランです。
 演出は南川達馬氏。こちらも演出家としての仕事をすでに10年続けている、中堅どころのクリエイターですね。
 声優としてみのりに声を当てているのは石川由依氏。wikipediaによると弱冠6歳から芝居の世界で生きてきたとか。
 もちろんその他にも作画だとか、撮影だとか、製作進行だとか、『トロピカル~ジュ!プリキュア』は何百人ものスタッフが関わってつくられています。

 ですが、このなかに自分がプリキュアになった経験がある人はひとりもいません。間違いなくいません。だって、プリキュアなんて現実にいるわけがないんですから。つくり話なんですから。
 「物語を書くなら自分の体験をベースにしなければならない。そうしなければリアリティが出ない。オリジナリティも出ない」 そう言う人たちがいます。
 バカバカしい。現にここに、自分が体験したわけではない物語を立派に描いている人たちが何百人といるのに。

 演劇の世界でも「自分が体験した以上のことは演じられない」と主張する人たちがいました。だからとにかくいろんなことを経験しておくべきだと。せめて普通に高校に通って、普通に大学に通って、普通にバイトくらいはやってみて、ひととおり当たり前の人生経験を積んでから、芝居の世界に足を踏み入れるべきだと。
 どうせ演じることになるキャラクターは他人なんですけどね。大会社の社長とか、ヤクザとか、プリキュアとか。だけど、そういう特別な生きかたなんて普通に暮らしていたら自分では一生体験できないわけで。極端な話、ごくごく平凡な東京都在住サラリーマン・山田太郎さん25歳独身の人生だって、その山田太郎さん以外には絶対体験できないわけで。
 だったら俳優は自分以外を演じることができないのか? って話ですよ。ンなわけない。

 「『マーメイド物語』のダメなところは、キャラクターも物語もありがちで、私自身の経験したことが入っていないところ。それを直せば――」

 みのりはそういう当たり前の話をまずわかっていません。
 というか、逃げています。目をそらしています。
 だって、ねえ、これを読んでいるあなたですらわかっていることでしょう? あなたが小説を書いたことがあるか、何らかの創作活動をしたことがあるか、そういうの私は知らないですけど。たとえほとんど創作したことがない人だって、こんな当然の事実、もちろん知っているはずです。私はあなたじゃありませんがそのくらいのことならわかりますとも。
 本当ならわかっていて当然なんです。このくらいのこと。普通に、常識的に、14年(※ あるいはウン十年)ものあいだ現実の世界を生きてきたのなら。
 (※ それはそれとしてナマイキ言ってスミマセンでした)

 「自信満々だったぶん、恥ずかしさで耳まで真っ赤になって。それでも足りなくて。私はその日から、もう1行もお話が書けなくなった」(第28話)

 「私には無理。できない。空想と現実は違う。私はファンタジー小説の主人公じゃないもの」(第4話)

 あらゆる創作活動には自分の体験から描くことのできない部分が絶対に含まれます。
 もちろん、全てを自分の体験ベースで書けだなんて誰も言っていないわけですが、だったらなおさら「書いているのがファンタジーだから自分の体験を入れられない」なんて言い訳は通用しません。

 みのりはずっとわからないふりをしてきました。
 だって、現に書けなかったから。
 どうしてだかどうしても上手に書けなかったから。
 書けないことを「仕方ない」と思い込むための言い訳がほしかったから。

 言い訳がなきゃ、だって、みじめじゃないですか。
 書きたいはずなのに書けないだなんて。
 大好きだったはずのことを好きでいつづけられないだなんて。

 そんなの、やるべきことをやらずにただ怠けているのと同じ。
 あるいは、本当は全然好きじゃなかったって認めるのと同じ。

 どっちかです。
 そしてどっちにしろ不誠実です。カッコ悪い。
 だからこそ、みのりには自分を納得させられる言い訳が必要でした。
 大好きだったファンタジーを自らの手で遠ざけてでも。

 「・・・でも、ちゃんと直せるのかな。面白くできるのかな」

 できなかった自分に向きあうのは、だから、怖い。

この世には現実しかない

 「だから私はダメなんだ。本を読んで、それでわかった気になって、頭でっかちで・・・。恥ずかしい。穴があったら入りたい」

 違います。

 みのりのダメなところは、そうやって言い訳するのに都合が悪いものをすぐ選り分けたがるところです。
 本で読んだ知識と自分自身で体験したこと、それぞれの情報にいったいどんな違いがあるというのでしょう?

 まあ、そういう私も両者に違いがあること自体は認めますけどね。
 本で読んだ知識と体験を伴う知識とでは情報としての立体感が違います。自分で体験するときは様々な角度・様々な視点から対象を観察することができるので、創作行為として出力するときに表現を柔軟に変えることができます。それだけ対象を深く理解できたという自負を持つこともできるでしょう。それがリアリティと呼ばれるものとなり、オリジナリティと呼ばれるものにもなっていくんです。
 それはわかります。

 ですが、みのり。あなたが今逃げだしたのはそういう話じゃないでしょう。
 あなたはパパイアの味を知りませんでした。たったそれだけの話です。
 パパイアがどんな味の果物かってことくらい、本を読めば書いていたはずです。「甘くて、サクッとしていて、独特の芳香があって、酸味はない」とか、そのくらいの情報は知ることができたはずです。それだけわかれば“伝説のパパイア”の味くらいどうにでも設定できたはずでしょう。色や形まではアドリブでも一応イメージできたくらいなんですから。
 あなたはただ、知らなかっただけです。別に食べなくても知ることができた情報をたまたま知らなくて、そして知らなかった言い訳として「本の知識しか持っていなかったから」と言っているだけです。

 私が冒頭で書いたパパイアのウンチク。あのなかで私自身の体験が伴っているのは味の話くらいのものです。他は子どものころ本で読んだこととか、さっきネットで調べたことばかり。ヨーグルトであえたことすらありません。ロールキャベツの紐はかんぴょうだと思って食べていました。それでもあのくらいは書けます。
 別に、必ずしも全部自分で体験しなければダメってことはないんです。(※ このレベルで知ったかぶること自体が恥ずかしいっちゃ恥ずかしいのであんまり堂々とは言えませんが)

 「青パパイアは野菜で、熟すと黄色くなって果物になるの」
 「へー。さすが、詳しいな」

 「パパイアの木ってもっと大きいはずじゃ?」
 「これは収穫しやすいように低い木に育ててるんだよ。それに、低いと風が吹いても倒れにくいんだ」

 みのりが本で身につけた知識は通用していました。みのりほど知識のないまなつたちにとっては驚くべき情報ばかりでしたし、より深い見識のある農園主さんからも深い話を引き出す呼び水として役立ちました。そこに、本で得た知識か実体験によるものかの優劣はありません。
 そもそもがみのりが自分で本を読んで調べたこと自体、一種の体験でしょうに。
 本からの知識と実体験。ファンタジーと現実。物語の主人公と自分。あるいは日なたと日陰。この子はどうしてこう、身のまわりにあるものをいちいち区別してしまうのか。

 「――パパイア農園って日当たりが最高ね。どうして?」
 「パパイアは・・・。パパイアは南国フルーツだから日当たりが大事。太陽の光をいっぱい浴びて育つの」

 みのりがどんなに否定しようと、本で身につけた知識も知識は知識です。それじゃダメなんてことはありません。けっしてありません。
 みのりがプリキュアになれたあの日のように、今日もまた日の光が差しこんできました。思えばあのときもそうでしたね。

 「また“何もできない”? そんなのばっか。“私には無理”。“できない”。“どうせ私なんか”。――まなつは信じてる。あなたならプリキュアになれるって」(第4話)

 みのりを日陰に引きこもらせるものは、いつだってみのり自身のつまらない言い訳。

みのりファンタジア

 「パパイアは太陽の光を浴びて育つ! 私はみんなと出会って、プリキュアになって、太陽みたいにキラキラした冒険をしてきた! ドキドキワクワクする物語に負けない、トロピカってる物語をみんなと一緒にしてきた!」
 「何言ってんの? 意味わかんない」
 「私は、キュアパパイアだってこと!」

 みのりはパパイアではありません。
 キュアパパイアではあるかもしれませんが、だからといって太陽の光を浴びて育つ特殊能力を持っているわけではありません。そういうことができる人間なんて現実には存在しません。もしパパイアのように育つことができたというのなら、それはみのりの勝手な思い込みでしょう。

 これはファンタジーです。

 現実に起きた出来事ではありません。みのりの頭のなかだけにある物語です。
 人間が同時にパパイアでもあるだなんてそんなバカげた話、現実にあるわけがないじゃないですか。

 「みのりん先輩。なんでくるるんの言葉がわかったの?」
 「ううん。言葉はわからない。でも、くるるんは遠い海の底から長い旅をしてきたでしょ? だから」
 「なるほど。でも、くるるんはどうして浜辺に打ち上げられていたんだろう?」
 「このあたりの海流に巻き込まれてしまったんだと思う。ローラへのお届けものの途中で」
(第7話)

 みのりは元来こういう子です。

 現実世界にしれっとファンタジーを持ち込む子。
 他人の気持ちなんて本当は誰にもわかるはずがないのに、まるで小説を読むときみたいに読解して、背景を想像して、それで本当に気持ちを言い当てることができてしまう子。想像力豊かな子。文系気質な子。他の人とは少しだけ世界の見えかたが違っている子。みのりファンタジア。

 “伝説のパパイア”とはいったいどんな味がするものでしょうか?

 誰にもわかりません。そんなもの現実には存在していませんし、物語世界にすら存在していません。ちゃんと設定する前にみのりは断筆してしまいました。
 まなつは探しに行こうと言ってくれましたが、これは“青い鳥”ですらないんです。最初から存在するわけなくて、いくら遠くを探そうと、近場を振りかえってみても、絶対に見つからないと最初からわかりきっている類いのものです。
 じゃあ、どんな味でしょう? 存在しないものの味って。
 そんなの今決めたらいい。簡単な話じゃないですか。想像して、創造したらいい。創作活動を行う人なら誰もがみんなやっていることです。それがファンタジー。想像力の翼は自由です。

 “伝説のパパイア”とはどういうアイテムだったでしょうか?
 食べるとすごい力が手に入る果物。そうでした。
 じゃあ、みのりにとってすごい力を得られる瞬間って、たとえばどういうときだったでしょうか?

 考察します。

 「おいしい。どうしてこんなにおいしいんだろう。太陽の光をいっぱい浴びたから? 栄養満点だから? 農園の人が愛情を込めて育てたから? ――それもあると思うけど、それだけじゃない気がする」

 知りうる事実を繋ぎあわせ、整合性を検証し、そのうえでひょいっと飛躍します。いつもの推理ごっこのように。

 「みんなが私のために色々考えてくれて、そんなみんなと一緒に食べたから。――伝説のパパイアがあるとしたら、こんな味なのかも」

 これが本当に正解なのかはわかりません。ぶっちゃけ、みのりの推理はそんなに的中率が高くありません。あんまり論理的じゃないからです。
 だけど今回に限っては間違いなく合っています。みのりの推理はそもそも“正解”を志向していません。あれは物語的な“ふさわしさ”を追求するためのものです。だから、伝説のパパイアなんてものが現実にあるとしたら、絶対に今彼女が考えたとおりの味であるべきです。これはみのりの思い描く物語なのだから。

 「物語を書くなら自分の体験をベースにしなければならない」 そう言う人がいます。「自分が体験した以上のことは演じられない」 そう言う人もいます。
 事実です。
 というか、別に意識しなくても自然とそうなります。本来、空想と現実は地続きだからです。

 みのりは幼いころから『人魚姫』や他のファンタジー小説が好きで、そういう作品に憧れて『マーメイド物語』を書きました。残念ながらその情熱が読んだ人に充分伝わったとはいいがたい結果になってしまいましたが、少なくとも、みのりの読書体験は創作のための原動力として間違いなく役立っていました。
 その意味で、あの作品はしっかりみのりの体験が反映されたものだったんだろうと私は思います。ただ、ほんの少し思い違いをしていただけで。
 みのりにはすでに強力な想像力が備わっています。読書体験によって培われた想像力。それも、言葉を話せないくるるんの通訳ができるほどに。あるいは、存在しない“伝説のパパイア”の味がわかるほどに。

 「見つかったよ。みんなと出会って感じた、たくさんのトロピカってる気持ち。それが私にとっての“伝説のパパイア”」

 体験を小説に落とし込めなかったのだと、今まで彼女はそういうふうに考えていました。
 現実とファンタジーは違うから、そして自分は現実世界の住人だから、憧れのファンタジー世界と同じ体験なんてできっこないから、だから自分にはファンタジー小説が書けないんだと。

 違います。
 みのりの生きる世界はファンタジーと地続きです。むしろみのりという子は現実に生きていながら、誰よりもファンタジー世界に親和する感性を持ちあわせています。
 この世界には人魚がいるし、怪物もいるし、“伝説のパパイア”だって見つかる。そしてみのり自身はなんとプリキュア。
 みのりはただ、そんな自分のありのままを認めるだけでよかった。

 現実とファンタジーを分けようとしてしまったのがそもそもの間違いでした。
 それはみのりにとって、わざわざ己を半身に引き裂くようなものでした。
 彼女の日常は、彼女自身が思っているよりもっと賑やかで、もっと面白くて、もっと日なたで、ずっとファンタジック。
 そして、そんなファンタジー小説みたいな世界に生きているみのり自身も、本当は。

 「演劇の台本、私に書かせて。『マーメイド物語』じゃなくて私たちの物語。それを書くことが私にとって、今、一番大事なことだから」

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    コメント

    1. ピンク より:

      一応趣味で二次創作イラストを嗜んでる絵師の立場です。
      同じ作品を視聴してても、他の人Aと自分と他の人Bとでビックリするほど解釈の振れ幅があって驚くことはありますね。
      私自身は恋愛方面に上手く舵を切れないので、いわゆるカップリングは新鮮に映ることがしばしばです。

      多分、その人の人生観みたいなのが自然とフィルターになって、ときに同じ作品ベースとは思えないほど異なる二次創作になるのかな?と。

      しかしまあ、なにか間違えてたら恥ずかしすぎるので、流石に食べたことない食物を主軸にしたという経緯にはただただ感心しました(一応褒めてる)
      そういえばパパイアって食べたことないどころか多分見たことありません。
      考えてみればずっと、アボカドかマンゴーかドリアンを頭に浮かべてましたw

      • 匿名 より:

        追伸
        お手本を並べても絵が小学生の落書きレベルな弟曰く
        「身体はぐちゃぐちゃして分からない」だそうで。
        実際私も人体(特に下半身)描くのは苦手ですし「見たまんまを描く模写でこうなんだから、主観無しで物事を表現するなんて夢のまた夢だよな……」と今ふと思った次第です。

        • 疲ぃ より:

           絵が描けない人は骨格や筋肉ではなく輪郭で捉えようとするからダメなんでしょうね、きっと。それぞれのパーツを繋げる整合性を構造として理解しようとしないから三次元的に見ることができない。「見たまま描けばいいじゃん」とは思うんですが、人間はカメラと違って背景と主題(人間とか)を分けて描こうとするので、そこで構造を理解できていないとなかなかうまくいかない。少なくとも私は多分そう。

           小説も基本的には同じなんですが、でもたとえばドラゴンを描写するうえで実際にドラゴンを見たことがなければ描けないなんてことはないわけですよ。というか不可能なので、アニメやゲームの設定をパクるとか、トカゲやヘビで代用するとか、みんなやるわけです。だったら現実に存在するパパイアでも同じことだと私は思うのですよ。

    2. 亀ちゃん より:

      今日はみのりちゃんが主役の話でした
      そのみのりちゃんが「じゃあどうして」と口にしたのにはシックリ着ました
      私の経験談からすると、広島FMから流れる宣伝の時に挙句の果てには若いレディが「
      じゃあどうして家がこんなに傾くの?」と強く厳しく聞きつけたのがシックリ着てインパクトの強さも感じられましたね!!
      そっから私はキュアベースボールギャンブラーと女子寮の寮長(キュアバドミントンギャンブラー)が全話二人三脚で次々とやられ役をやっつけていく話の中で、キュアホワイトソックスを初登場させると挙句の果てには
      「じゃあどうして(以下省略)」
      と強く厳しく聞き求めつけます!!
      だから今後のプリキュアでは「じゃあどうして(中略)の?」と締めくくるとより一層広島FMから始まってプリキュア的に感慨深いワケですが、女児向けプリキュアでは難しさも当然ありますね!!(厳→汗)
      で、次回はトロピカル部全員を軸にした話
      桜川先生がどう話に絡むかも楽しみな大人のプリキュアファンもいるでしょう
      一方、以前の話ではフェニックス学院が登場し、進学校でありながら部活も強く、先輩プリキュアではちゆが走り高跳びを続けるために進学する高校と言っても過言ではないですね
      これはフェニックス学院がトロピカル~ジュプリキュアの以前の話の中で初登場した時からずーっとこの気持ちは不動です!!
      キュアホワイトソックスもちゆがフェニックス学院に行くことには絶対反対しないほど、スポーツでは1番走り高跳びに命を懸けて欲しいと思っているほどです!!

      追伸
      来週の日曜は12月19日で、私の人生の中で、初めて12月19日の日曜は、朝起きた時から最後の最後まで一生に一度でも構わないので良い思い出作りの日にしたい日曜だと捉え続けています!!
      そのためにはおかやま山陽高校がある地域でもテレビで紹介された玉野市のうえさかといううどん屋ではうどんも、そのテレビで紹介された関東煮というおでんも普通以上に美味いゆえにシックリ来ることもすごく強く願いたいです!!(厳→咲→超大輝)

      • 疲ぃ より:

         昔の高校受験は進学先を選ぶのに学区制限があったそうですが、今はそういうの気にしなくていいんでしたっけ? (※ そもそも私立なんだから最初からそういう縛りは無い)
         『ヒーリングっどプリキュア』沢泉ちゆは自分にできることなら常に最適解を選びたがる子だったので(※ そしてそういうことができてしまう子だったので)、もしかしたら高校も名門を選んでいるかもしれませんね。

    3. 与方藤士朗 より:

      ワタクシの娘(=隠し子)のみのりんということにしておりまして、まあ、その、ね、親(?)としては、思うところ多々ある回でした。

      自分にその体験があるがゆえに、もしくは、見知っているが故に書けることというのは、確かにあります。1957年春、プロ野球の高橋ユニオンズが岡山キャンプ中に球団解散の憂き目にあい、そのときの解散記念写真で、岡山県営球場の背後の半田山が映っている写真があります。その山の遥か手前、球場の外には、私が後に幼少期を送ることになる養護施設が映っています。これは私がまさに、その地に住んだことがある故に気付き、発信できたことです。それゆえ、私でないと書けない文章に仕上がっているとの自負も、あります。
      さて、その岡山県営球場ですが、後に私は高2の年、1986年11月に阪神対巨人のOB戦を観に行きました。私はそこで、1回表に阪神洗髪の小山正明投手から、4番の川上哲治選手が安打を放つのを見ました。
      私が見た川上哲治選手の打席は、その時だけです。彼の現役時代には、生まれてもいません。
      これは、OB戦という偶然があっての上で見られたという「体験」です。

      さて、何でもかんでも自分が体験しなければいかんということになれば、先程述べたようなことでもない限り、誰も何も書けないということになりかねない。先程述べた高橋ユニオンズについての本を書いた長谷川晶一氏は私と同世代ですが、彼にしてもその頃産まれていたわけでもない。しかし、彼は語り部として、高梁球団にまつわる本を書かれ、一定の評価を得ているわけです。
      もし経験しなければ書けないというなら、長谷川氏にしても、そんな本は書けないということになってしまうが、現実に彼はその手の本を多く書かれている。
      なお、氏には野球をプレイした経験はないようです。

      経験からしか書けないなどというのはありえない。みのりんの先輩が指摘したのは、何も経験した者だけで書けということではないことは、明らかです。もしそのレベルの指摘しかできないのであれば、文芸部が聞いてあきれるレベル。ただ、後にみのりんが彼女の指摘を正しいと認識できたということは、みのりんなりに自分の欠点を自覚できた、ということでもあります。
      本を読んでの経験というのもまた、何かを書いていく上での経験の積み重ねとなるものです。
      そこを、「自分の経験がないから書けない」などと言うのは、統一球が導入されて飛ばなくなったから本塁打数が減ったなどと「言い訳」のようなことを言う選手と同レベルです、というか、その選手にも失礼なレベルの言い訳に過ぎない。

      もちろん、イレギュラーな形であっても、自らの経験ができるということは、大きなプラスになることも確かです。
      私は先ほどのOB戦のあった年の春に、球場隣の岡山県体育館でその川上哲治氏の講演を拝聴いたしました。どんな話だったかはそう覚えていませんが、物事をきちんとやり遂げるための執念というか、そういうものを肌身で知らされた覚えがあります。
      その時いただいた(印刷ものだが)色紙は、今も自宅に飾っております。

      いずれにせよ、みのりんがもう一度、物語を「書く」という選択ができたことについては、うれしくてたまりません(親?として、特に、ね)。来年1月末まで、彼女がどれだけ成長できるのかを、しっかり、見届けたいという思いでいっぱいです。
      ~なんか最後は、小学生の感想文みたいになってしまった気もしますが、ご容赦を。

      • 疲ぃ より:

         もうね。「書きたい」、出力したいと思っている時点で、必要な入力はすでに蓄積されてあるんですよね。創作って要は自己表現なので。旅先でいい想い出ができたら誰かにお土産話したくてしかたなくなるのと同じこと。書きたいけど書けないっていうなら体験はもう充分やってるんですよ。自覚していなくても。
         もちろん、うまく書けるかはまた別問題ではあるのですが、だからといって「書かない」のはもうそれだけで不健康です。もう一度書こうという気持ちになってくれてよかった。

    4. 東堂伊豆守 より:

      一之瀬みのり嬢って、元々昔から実践経験不足·実践することへの臆病さに対して、猛烈なコンプレックスを抱えていたんだと思います。
      で、件の文芸部パイセンから自作を「作者自身の経験が入ってない」と批判されたとき、それを作品批判というより一之瀬みのり本人の生き様·人間性への批判として受け止めてしまったんでしょうね。
      だから、トロピカる部に入ったみのり嬢が終始「書を捨てよ。街へ海へ山へ出よう」という姿勢だったのも――――彼女にとっての最優先課題が文芸創作能力の改善などではなく、乏しい経験値の補充·経験を避ける臆病さの克服だったから――――と考えると、非常に納得がいく訳で。
      まあなにぶん、みのり嬢本人が文芸創作姿勢の問題と生き様·人間性の問題をごっちゃにして考えているところがあるために、視聴者の側でも「(一般論として)文芸創作に対する姿勢はどうあるべきか?」などという、実はみのり嬢が抱えてきた本当の問題とは関係ない論点に引っ張られてしまったきらいがあります。
      それにしても、このコンプレックスの解消には「それは別に気に病むような問題ではない」とか「たとえ短所があってもそれを補って余りある長所がある」とか理解させるといった手法もあるんでしょうが、みのり嬢の採った手段が「ひたすら経験を積むこと」というド直球ストイック路線な辺り、やっぱり彼女はスポ根スパルタ集団·トロピカる部の模範的部員なんだなぁ、と。
      ともかく、一年近くに及ぶ冒険の日々を経て、一之瀬みのり嬢が遂に再び手掛けることになった文芸作品が「純然たるフィクション作品」ではなく「トロピカる部の実話を基にしたセミドキュメンタリー作品」なのも、この作品が「トロピカる部主催一之瀬みのりコンプレックス克服プログラムの決算報告書」であることに鑑みると当然の帰結と言えます。
      あとそれから、この“決算報告書”が「小説(完成品)」ではなく「脚本(叩き台)」であることも非常に良いことだと思います。一之瀬みのりの新作は“到達点”ではなく“出発点”。少女達の冒険はまだまだ、これから始まる……と。

      • 疲ぃ より:

         もっというと、みのりのコンプレックスの本質は自分に自信を持てないことにこそあって、体験が足りていないと思い込むことそれ自体が彼女にとって都合のいい言い訳だったんですよね。
         でもまあ、結果を見るとうまいこと噛みあったものだと思います。どうやったら自信を持てるのかって問題は雲を掴むような話でゴールが見えませんが、そこを体験量の問題にすり替えられたなら努力のしようもある。あくまで論点のすり替えなので、大抵の場合そこでも努力できずまた別のすり替え(※ あとまわし)をして余計に拗らせがちなんですが、みのりはちょうどいいところで踏みとどまりました。
         元が自信の問題だったので、たくさん良い体験ができたという成功体験はコンプレックスの根本を癒やすのにも充分作用したんですよね。

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