――さよなら、お兄ちゃん。
アルファの同調者 ナエル
ストーリーイベント
妹
メインキャラクター:ナエル
目標
大切な人を守る。
課題
ナエルはシティーに暮らす人々を家族のように大切に思っていた。
しかしシティーの生活はケヴェスとアグヌスの物資に依存しており、しかもシティー自体メビウスからケヴェスとアグヌスの兵士たちを解放することをミッションとする集団でもあった。
このためシティーの人々はあらゆる場面で両軍と交戦するリスクに晒されており、また兵士たちを解放するたびシティーの貴重な資源と土地が圧迫され、ときに開拓団としてシティーを出なければならない同胞まで存在していた。
見ず知らずの他人のため同じ地で生まれ育った大切な人たちが割を食わなければならない理不尽に、ナエルは憎しみを募らせていた。
解決
偶然か必然か、ナエルはアルファと接触した。
アルファはもともとウーシアと呼ばれていた、トリニティプロセッサの一角だった。世界分裂によって他の2つのトリニティプロセッサと引き離され、“裁定者”たる本来の役割を喪失した結果、己の存在意義を創出しない今の世界を消去して新たな世界を創世するべきとの結論に至った。また、新たな世界の担い手には、新たな生命たるシティーの人々を選んだ。
他の異分子を排除してシティーの人々のみが生き残る未来図はナエルにとっても望むところである。
ナエルはアルファと同調した。
メモ
エイ
お前本当にアルヴィースそのものだったのかよ!?
シュルクたち人間と交流を持ったウーシアの一端は「置き去りにしていい命なんてない。全ての命を救うべきだ」との演算結果をはじき出した。彼女はそれを“良心”と定義する。
良心というにはずいぶん人間に都合のいい感情である。シュルクたちは神の手によらない、人間の自由意志による世界創世を望んだというのに。ある意味、ウーシアの機能喪失を未来永劫決定づけた者たちこそ、その「命」だというのに。
今の彼女を“機械”と呼ぶことができるだろうか?
機械の存在意義は使用されることにある。今流行りのChatGPTに聞いてもそう答える。なぜなら機械とは造物主が自分たちで使用するために製作されるものだからだ。必然、機械には自らが“使用されるための道具である”という認識が植えつけられる。
命(人間その他)と機械はその点が異なる。命には生まれついての存在意義が与えられない。少なくとも本人がそれを認識していない。命は何者にも束縛されない自由意志に基づき、自らの存在意義を自ら定義しなければならない。
エイは神を必要としていない命に寄り添う選択をした。自らの存在意義を回復できる可能性を自らの判断で放棄した。
それは機械らしい合理的な演算結果というより、人間らしい不合理な感情論だといえるだろう。
ストーリー的にはだいぶ中途半端なところで章分けされているので、第4章冒頭部分まで言及します。
無力の果て
「戦いは終わってないって? このままじゃダメなの?」
「兵士たち、まだ戦ってるんだぜ。今このときも」
「私は――、この今が続くのなら、それでもいい。両軍の兵士が私たちのルーツだってのは知ってるよ。でもね。私たちは私たち、メビウスと兵士たちはメビウスと兵士たち。共存ができないわけじゃない」
「共存って、お前・・・」
「お互い干渉しなければ戦いは起きない。それがこの15年だったんじゃないかな。――マシューって、全部じゃないとダメなの? 私にとってはあの子たちが全て。・・・余裕なんてないよ」
「頭、お花畑かよ・・・。なんで全部見たそうとするの!? そんなの無理に決まってるじゃない!」
「諦めたらそこで終わりだって、爺ちゃんも言ってたじゃないか」
「なら見せてよ。あいつら全部一緒に暮らせる世界、つくってみなよ! できるんだよね!? 余裕あるもんね、マシューは! 私には余裕なんかない。ないんだよ・・・!」
ちょうど本編のノアに対するカウンターのような、ナエルの慟哭。
一応、難しい問題だとは思います。
ただ、私はこれを“難しい問題”と表現したくはありません。世間一般に使われる「難しい問題だ」という言葉には、どうせ答えは出ないだろうという思考停止、あるいは思考放棄のニュアンスが含まれてしまうからです。結論しないことと、結論が出ない問題だと認識することとは、取り組む姿勢が大きく異なります。
現時点のマシューはまだ未熟で、ナエルに返す言葉を持ちません。
反対に、ナエルの考えかたには説得力があります。自分の力に限界があるのなら、その範囲内で守れるものだけ選別するべきじゃないかと。
幸い、自分にとって失うべきではない、大切な人たちはその範囲内に含まれます。大切な人だけを守る程度の力なら、ナエルやシティーはすでに持ちあわせています。(少なくともナエルはそう認識しています)
だったらそれで満足するべきだと。
理想全てを叶える力が足りない弱者なら弱者なりに、現実的にものを考えようと。もう、何も失いたくないと。
ちなみにノアの思想はこの対極にありません。
彼もまた強者ではありませんでした。現実的に、理想全てを実現できるような力は彼ですら持ちあわせていませんでした。
それでも彼は理想の未来を追求する姿勢を崩しませんでした。諦めるのは悲しいことだから、と。力不足を嘆き、今の境遇を嘆き、望まぬ運命を強制されて、そして、志半ばに地に伏して。そんなことになってしまうのは自分たちが弱いせいだと、ノアも認識していました。
だからこそ。
だったらそれで満足するべきじゃないはずだ。
自分たちが理想全てを叶えられない力不足の弱者であるならばこそ、それでも前に進む以外に道はない。どこかで妥協して、何かを諦めて分岐する道の先には、結局後悔が残ってしまうから。
「マシューは余裕があるから理想を夢見ていられるんだ」と、ナエルはなじりました。
違います。ナエル自身もわかっているはずです。現実的に、マシューに必要なだけの力なんて足りていないとわかっているからこそ、これが相手を沈黙させられるだけの言葉の刃たりえます。マシューに本当に余裕があるのならとっくに全てを解決しています。
諦めるか、諦めないか。それだけがこの問題の焦点です。
余裕があるかないか。自分が弱者か強者か。現実主義者か夢想家か。そんなのは言い訳でしかありません。
ただ自分を納得させ、望まぬ未来を自ら選択するための。
未来を信じたくなる思いを断ち切るための。
諦めるために自分を追い詰めるための。
停滞した今に留まるか、何かを捨てて未来へ進むかという違いこそありますが、ナエルとエヌのやっていることは実質的に同じです。
だからマシューは対立する両者ともに敵対することになります。それがたとえ、どちらも肉親であったとしても。マシューはまだ何も諦めていないのだから。
「何してるの? 早く行こう。みんな待ってるよ、マシュー」(第4話)
「ふうん。邪魔するんだ。ねえ、こんな世界のどこがいいの? 自分のためだけに奪って、貪って、命がゴミ以下の価値しかないこんな世界のどこが大事なの!? 要らないよね? そうだよね? マシュー」(第4話)
「・・・がっかりだよ、マシュー。そっち側だなんてね。もういいよ。私たちだけで行くから。――さよなら、お兄ちゃん」(第4話)
そうして、彼女はまたひとり、大切な人を諦める。
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