ねえ、これはひとときの夢。この歌声も夢のなかだけだから。
(主観的)あらすじ
「ねえ、これはひとときの夢」
ディーヴァ候補に挙げられた瞬間からセレナはずっと窮屈な思いをして生きてきました。
誰もが彼女の一挙手一投足に注目し、常に「美しくあれ」と要求してくるのです。
初めてアンテルと出会ったのは、そんな窮屈な街から抜け出した先の、穏やかな湖畔でのことでした。
かつてセレナに袖にされて以来姿を消していたアンテルが帰ってきました。それもセレナ以上のディーヴァとなって。
美しさを至上とする鳥族の価値観に倣うなら、次に“愛のさえずり”を歌うべきはセレナの側です。けれど彼女の歌声はヴォイシアに奪われていて、歌うことなど叶いません。だからこそ彼女は自分とよく似ているフォルナの歌声を買いあげたのでした。
歌声のみに価値を見出されたような立場にあるフォルナは、なのに幸せそうでした。
彼女は元々美しい歌を歌えるようになりたいと願っていました。だから、この夢のようなひとときをくれた人たちに感謝を。フォルナはレッスンの成果をどんどん吸収していき、喜びのこもったその伸びやかな歌声は、いつしか、固く閉ざされていたセレナの心を開くほどになるのでした。
セレナはアンテルの歌の、まるで美しい者を呪うような詞に恐怖していました。対してフォルナは、きっと違う、彼の歌声は優しかったと言います。
アンテルのデビュー公演最終日。この日、彼との約束の完遂を待ちつづけることに耐えかねたヴォイシアがついに暴れはじめました。
ヴォイシアは生まれつき姿も声も醜いモンスターでした。誰にも愛されず、誰にも傍にいてもらえず、あげく地下深くに封印されることとなってしまった彼は、いつしか美しさそのものを憎むようになっていました。
セレナの歌声を奪ったのもそのため。ようやく美しい声を得た彼でしたが、けれどなぜだか心が満たされることがありません。歌声によってわずかに侍らすことのできた取り巻きも再び離れてしまい、彼はもはや自暴自棄になっていたのでした。
そんな彼のため、アンテルはかねてから約束していた歌を捧げます。美しさの裏で苦しむ全ての者たちを理解し、慈しむ、愛のさえずりを。
彼もまた、そして彼の愛するセレナもまた、それぞれ美しさに苦しめられてきたひとりでした。
こうしてヴォイシアは美しさへの呪縛から解き放たれ、セレナの歌声も元に戻りました。セレナとアンテルは真心から通じあって同じ歌を響かせあい、さらにヴォイシアはありのままの姿で、フォルナも代役ではないひとりの歌姫として、ともにひとつの舞台に立つことになりました。
美しかった夢は醒め、新たにもっと光り輝く舞台が幕を上げます。
舞台に立った経験はあるでしょうか? 無かったとしても、アニメなりテレビドラマなりで、四方八方から数々の照明に照らされる舞台を見たことくらいはあるかと思います。
あの何十本とある照明機材、実は電球1個あたり500Wほどの出力があります。よく見かける(最近見かけない?)家庭用電球が60Wなので、8倍超ですね。それが数十個です。それほどの光量が小さな舞台ひとつ目がけて一斉に降り注ぎます。
暑っついです。立っているだけでもけっこう汗が出ます。ドーラン(厚塗りの化粧みたいなやつ)なしで日常的に長時間浴びていると日焼けすることすらあるらしいです。
まぶしいです。客席の方を向くと嫌が応にも光が目に入ってきて、お客さんに自分を見てもらうため、こんなにも大きな力を借りているんだと自覚することになります。
緊張します。バックンバックンします。高揚します。ウキウキです。ワクワクします。
舞台に立つのって、楽しいです。
(まあ、私が経験したのは学生演劇をしていたころの数回だけなんですけどね)
「ねえ、これはひとときの夢」
フォルナはこう歌いました。
まさしく。ひとつの舞台に立てる時間なんて、長くてもせいぜい数時間です。その一瞬の輝きのためだけに設営や打ち合わせを数日、演目の練習を1ヶ月以上、日常の基礎練習も合わせれば数年、数十年――。
ほんの一瞬の脚光を浴びるためだけに人生を燃やしつくしてもいいと本気で思えるのが舞台人という人種です。(私はそこまでにはなれませんでしたが) あそこにはそれに見合うだけの熱量が、確かにありました。
しょせんはひとときの夢。始まる前の舞台はただの薄暗い箱でしかありませんし、終わったあともきれいさっぱり元の空っぽに戻ります。
それでも、そこで演じられた刹那の夢は、あの舞台に立った主役の心に、あるいは見届けた観客それぞれの心に、きっと永遠に残ります。あんなに輝かしい夢は他にそうそうありません。
夢見るように
どうかこの扉を開けてなよ。
苦しむあなたを放っておけはしない。
ねえ、これはひとときの夢。
この歌声も夢のなかだけだから。
フォルナはセレナに感謝していました。歌声だけの代役という無礼きわまる起用のされかたでありながら、それでも彼女が純粋に感謝しているのは、まあ、なんというか、芸事というもの自体そういうものだからとしかいいようがありません。(学生演劇の経験ごときでこういうのを語るのもおこがましい話ですが)
「大丈夫! 僕にすべてを任せてくれれば、パルティシオじゅうが憧れる歌い手になれるはずだよ!」
「パ、パルティシオじゅうが!?」(第8話)
幸いなことにセレナとルピエは誠実な雇い主であり、またフォルナ自身も情熱に篤い入門者であったため、彼女はレッスンを通してメキメキと実力を伸ばしていきました。
前話で歌ったときとは打って変わって技巧的な歌いかたをするようになりましたね。そのことを強調する作劇上の意図なのか何なのか、ちょっとテクニックに振りまわされぎみというか、若干大げさな歌いかたにもなっていましたけど。
「ひどい歌。――でも、意外に悪くありませんでしたわ」
「けど、そんな私だってステキになれるかも」(第8話)
なんにせよ、フォルナが夢見ていたステキな自分は着々と現実のものになりつつありました。
たとえその実力を発揮することになる舞台が他人のものだったとしても、フォルナは幸せです。彼女の望んでいることは、あくまで自分が美しい歌声を手にすることだけなのですから。
だから、そのチャンスをくれたセレナには感謝の気持ちしかありません。
そして、一方でフォルナにはわかりません。
「セレナさん、アンテル様の初公演以降ずっと部屋に篭もりっきりで心配なよ」
どうしてあんなにも美しいセレナが、これほどに悩み苦しんでいるんだろう?
セレナはフォルナにとって憧れです。理想の自分に限りなく近い、まさに夢の体現者です。
だから彼女は笑っているべきだと考えます。だってフォルナは憧れの自分に近づきつつあることに、今でさえこんなにも幸せを感じているんですから。ましてその向こう側にいるセレナなら、本当ならもうすっごい幸せになっていいはず。
「さすがディーヴァ同士のお見合い。話題沸騰なよねえ。セレナさん。元気出すなよ。セレナさんは今でもみんなから注目されるディーヴァなよ」
その“注目される”痛みを、彼女はまだ知りません。
痛みは知りませんが、その夢のような幸福感なら知っています。
セレナさん。あなたのような美しい人なら、私のこの幸せな気持ち、きっとわかってくれるなよ。
衆人の檻
この世で最も尊きもの、それは美しき歌声。
美しさこそ全てのこの世界。讃え、敬い、そして、見上げなさい。
「ミス・セレナ。あなたはもうディーヴァ候補なのですよ。一挙一動が注目されていることをお忘れなく」
「常に品格を」
「鳥族の誇りとしてのふるまいを」
「ミス・セレナ」「ミス・セレナ」「ミス・セレナ」・・・
セレナにとって“注目される”ことは苦痛でした。
彼女が美しくあろうとする動機はフォルナとは違い、自分ではなく他人のためでした。
ひょっとしたらセレナもかつては自分のために美しさを磨いていたのかもしれません。けれど、まあ、自分がやりたくてがんばるのと、他人から強制されてがんばるのだと、全然違いますよね。
「私がウルカと結婚しないとアルムのみんなが困ることになる・・・」(第2話)
そういえば犬族のリィリも同じ構図で悩んでいましたよね。彼女は一族の役に立てることがすなわち自分の幸せであると考えていました。けど、そんな彼女ですら強制されたお見合いにはなかなか納得できずにいましたっけ。
「そのような身なりで、歌うこともできない男の手を、私が取るなんてありえませんわ」(第8話)
どうしてもその手を取ることができませんでした。
彼が理解してくれなかったからです。
常に美しくあろうとする苦しみを。苦痛に耐えて努力しつづけなければならない宿命を。誰かのために自分ひとりで苦痛を背負う、その孤独なプライドを。
「僕は誰も来ないこの場所で、こんなふうにのんびりしているのが好きなんだ。パルティシオは明るくてステキな街だけど、なんだかたまに忙しいからね」
彼の隣にいるのは心地いいと感じていました。
彼の言うことが自分にはよくわかると思っていました。
けれど、彼の方はセレナの気持ちをわかってくれていませんでした。
美しくあれと強制してくる人たちと、美しくあらねばならない自分を理解してくれない思い人とに挟まれて、セレナはひとりぼっちでした。
「『美しさこそ全て』――ああ、なんと憎らしいことか! 私は生まれたころから醜かった。皆いつも私を嘲笑い、遠巻きに見るだけ。そしてこの封じられたさらなる醜い姿・・・」
一方、ヴォイシアは生まれつき孤独でした。視線を向けられることがあるとすればせいぜい嘲笑されるときだけ。誰ひとりとして彼という一個の人格に興味を持ってくれる人はいませんでした。
「どうだ、この声は美しいだろう。これさえあれば全て思いのまま。――そう、こんなふうに!」
だからセレナの歌声を奪いました。自分が美しくさえあれば孤独にならなかったのだろうと、憎しみを込めて。事実、彼女の声で歌っていると小さなモンスターが数匹、彼の傍に侍るようになりました。
彼が美しくあろうとする動機は自分のため。けれどフォルナと違って自分を高めるのではなく、ただ周りからの注目を集めたかっただけなのでした。
「この美しき声・・・私の一部としてもなお妬ましく、悲しく感じるのは何故なのだ」
これによって目的は達成できたにも関わらず、不思議と彼の心は満たされません。
当然です。集まったモンスターたちが聞き惚れているのはあくまでセレナの歌声。ヴォイシアを慕って来たわけではないのですから。
自分のすぐ隣で通りがかりの一団が誰ともわからぬ他人の話題に興じていたところで、はたして自分は孤独じゃないといえるでしょうか。私ならかえってさびしさを強く感じるところです。
彼は依然孤独なまま。依然として醜いままであることを突きつけられ、依然として“美しさ”が彼を苛みます。
「な、何故だ! 何故私を置いていく! 私は美しくなった。なのに何故! 何故去る!?」
美しいものを手に入れただけではヴォイシアは満足できません。それはあくまで手段でしかなく、あくまで彼の望みは孤独から解放されることにあるからです。
自分が美しくないせいで孤独を強いられ、他人の美しさを奪ってみてもその美しいものが注目を集めるだけで、自分自身は相変わらず孤独で。ヴォイシアはいつもひとりぼっちでした。
「まさか・・・。私が歌えなくなったのは・・・」
なんという皮肉か。
セレナは自分を苦しめてきた自身の“美しさ”を奪われ、ヴォイシアは自分を苦しめてきた他人の“美しさ”を奪い、しかしどちらも依然変わらず“美しさ”によって苦しめられつづけます。
石に炎が。この熱さ、まるで心が焼かれているかのようだ。何故!?
美しさ。美しさ。愛おしさ。
歌ってみせよう。君への愛、あなたへの愛。
その弱さも、苦しむ姿さえも、僕はずっと愛しつづけていくから。
セレナとヴォイシア。“美しさ”に苦しめられてきたふたりの心を救うことになったのは、アンテルによる、抱きしめるような愛の表明でした。
セレナは周囲に求められて“美しさ”に執着するようになりました。
ヴォイシアは周囲に求められるために“美しさ”に執着するようになりました。
その“美しさ”への執着は、いずれも自分を理解してくれない他人のためのものでした。
だからこそ苦しむ姿ごと全てを受け入れてくれるアンテルの愛が救いになりえます。
対して、フォルナの望む“美しさ”はあくまで自分を高めたいがためのものでした。
そして今彼女はそれを追求しながらとても幸せそうです。
それはつまり、フォルナのスタンスこそが健全で、セレナとヴォイシアは不健全だということなのでしょうか?
いいえ。
「私は今、この人が隠してきた心の飾らぬ姿を見せてもらってるなよ。ルピエさんが言ってたとおりなか。見栄っぱりで、怖がりで。けど、私だってルピエさんにいいとこ見せたくて歌ってるときがあったなよ。だからおあいこなか」
そもそも、どうして美しさに憧れるのでしょうか?
それはステキだからです。
美しい人は自分が見てもステキで、周りの人に聞いてもステキだと言っていて、なんか「いいなあ」とうらやましく感じられるからです。すっごいふわふわした表現になっていますが、そのくらい素朴で根本的な感情だということです。
細かく語ろうとすればイデア論にどっぷり浸かるはめになるでしょうが、そのレベルの話は割とどうでもいいか。どうせ結論では素朴な理想美への憧憬に帰結するはずですし。
自分を高めたい気持ちも、周りからよく見られたい気持ちも、どちらも同じ美しさへの憧れ。どちらか片方だけを持っている人なんていなくて、誰でもみんな美しくなりたいし、美しく見られたい。だってみんな美しいものが好きなだけなんだから。
美しさに囚われて自分を苦しめる必要なんて本当はなかったんです。美しいもののことを考えるのって、元々はもっと単純に、幸せなことだったはずなんですから。
ひとつの美しさに執着しすぎて、色々考えすぎて、色々複雑にしすぎて、そのせいで余計な悩みがひっついてしまっただけであって。
「どんなマダラも水玉に変えてみせるのが僕の仕事さ」
美しさなんて、視点を変えてみればきっとどこにでも見出せる、ありふれたものなのに。
真実の思い、今開かれた扉。そのまばゆさを、美しさを、信じるカギは胸にあるから。
今上がった幕から差し込む光浴びるあなたと籠のなかから羽ばたく勇気。
さあ、ひとときの夢を手放して。
あえて問いましょう。
究極の“美しさ”とはいったいどこにあるのでしょうか?
それはきっとあなたの心のなかに。
だって、あなたの心にはこれまで出会ってきた全ての美しいものの想い出が刻まれているんです。そのなかから最も理想的だと思う美しさをあなたは自由に選ぶことができます。場合によっては複数の美しいものを組み合わせて、もっとステキなものを想像することもできるでしょう。新しい出会いがあれば自分にとっての理想像を更新することもあるでしょう。
あなたの知りうる最も美しいものは、常にあなたの心のなかにあります。
ひとつの美しさに執着する必要なんてありません。執着するまでもなく、それはいつだってあなたの心に美しく描かれています。だから安心して、あなたはまだ見ぬ美しいものを探しに飛び出していい。
この世界は数えきれないほどの美しいものと、美しいものを愛するあなたの同志に満ちあふれています。
さあ、次なる夢に胸ふくらませて。
コメント
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はじめまして。ツイッターを通じて第二話の感想あたりから拝見させてもらっています。
毎回舞台も人物も雰囲気もコロコロ変わり、主人公すら出て来ず、説明描写も皆無、恐らくほとんどの方には訳がわからないと思われる内容に対して、失礼にも原作を見ずに書いているならすごいと思うほどに、正直大変良く内容を読み込んでいると感心し、一ファンとしてお礼申し上げます。
今回のお話のキーワード・テーマとして、アニメでは強調はされていませんが、「まだらもみずたま」を取り上げているのはさすがです。これについて美しさは相対的な物とか、そう言われるからそうだと思っているだけの錯覚だ、美しさなど存在しないとシニカルに見ることもできますが、ブログ主様が最後に記されているように、私の見る所では原作では「あなたが自分でまだらだと思っているものは本当はみずたまなのではありませんか?」と言う問いかけ、一周回って本当の美しさは有るそれも全ての人にと言うメッセージで終わると感じます。
さて、今日から始まる「空の国」の物語は登場人物もストーリーもトップクラスの人気が有ると共に、原作通りならば、ある意味人類に普遍に存在するテーマを取り上げます。それについて「メルスト」のアプローチをブログ主様がどのように見られるか、大変楽しみにしております。
失礼いたしました。
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お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
原作ゲームは最近やっとプレイを始めたところです。とはいえ感想を読みに来てくださっているかたの多くがアニメで初めて『メルクストーリア』に触れた人の反応を期待しているようなので、せっかくだしアニメの展開に追いつかないようにプレイしようと・・・していたのですが、そもそもプレイ時間を確保できなくて全然追いつけない有様だったりします。
現在動物の国1st、妖精の国1st、少数民族の国1st、あとなんとなく王国1stも読了。うん、噂には聞いていましたがアニメとは情報量もストーリーの方向性もだいぶ違いますね。正直に言うとどちらの方が好みということはなく、どっちもそれぞれの魅力があってどっちも好き。
「まだらもみずたま」の件については作品の意図を正確に読み取ろうとしていたわけではなく、ぶっちゃけ私の琴線に引っかかったので語りたくなっただけだったり。
私はどんなものでもとりあえずポジティブに評価できる人が好きです。きっとこの世のあらゆるもの全部、視点次第で良いところも悪いところもいくらでも見つけられるものだと思います。でもポジティブな評価の方が、なんというか、それがつくられた理由に触れられるような気がして。
だってわざわざネガティブな結果を求めて何かをする人って、たぶんいないでしょうから。みんな何か行動するからにはポジティブな結果を期待しているでしょうから。もちろん自分自身のありかただってそうです。あえて自分を不幸にしたがる人なんてまずいないはずです。
空の国・・・人類普遍のテーマですか。どういうのだろ。とりあえずいつもどおり好き勝手書きましたが、もし見当違いな解釈だったとしても悪びれずに軌道修正しつつ、次回以降も感想を書いていきたいと思います。(自分に甘い)