がんばってきた役者の夢はダメだったかもしれない。でも――、今だって! 春日野うららはへこたれません!
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「ウレイノカジツ」
大きな出来事
メインキャラクター:うらら
目標
俳優として、演出家に何を求められているのか理解する。
課題
今回の舞台の演出家はうららがどんなに一生懸命稽古に取り組んでもけっして認めてくれない。与えられる演技指導はいつも抽象的で、具体的に何を改善すればいいのかすらわからない。
あげく、貴重な稽古期間に1週間も休暇を取れと言われてしまった。いよいよ自分は見限られてしまったのかもしれない。そう思った。
解決
シロップの誘いを受けてうららは遊びに出かけた。悩みと挫折感とで頭がいっぱいのうららに対し、シロップはいかにも門外漢らしい突拍子もないアドバイスをいくつも重ねてくる。だけど、不思議とそこまで見当外れでもないような気がした。
うららはシロップと一緒に歌をつくってみることにした。今回の舞台と同じ、翼の折れた天使が主人公の歌。ついでに、昔から食いしんぼうだった自分らしさを混ぜてもみた。楽しかった。仕事に楽しさを感じることはうららにとって大切な原体験のひとつだった。
休暇明け。うららは勇気を出して、天使は実は食いしんぼうだったという自分なりの新解釈を演出家に提案してみた。演出家は嬉しそうにその解釈を採用してくれた。
ピックアップ
賃貸契約
本来、マンションの賃貸契約を仲介するときは宅地建物取引士の国家資格を取得した者が重要事項説明などの事務手続きを行う必要がある。
・・・ブンビーさん、本当に資格持ってる? あなたそもそもビル管理調査部所属のはずでしょ? 宅建資格持ちがそんな全然関係ない部門に配属される?
いないいないばあ
赤ちゃんをあやすときの定番の遊び。
生後半年くらいの赤ちゃんの多くは他人の存在を顔のみで認識している。だから顔を隠されると一時的にその人がいなくなったものと錯覚してしまう。しかし同時に、赤ちゃんは自分の保護者が一時的にいなくなってもすぐ戻ってきてくれるものと信じているため、「いないいないばあ」のかけ声でまた顔を見せてくれると、その期待どおりになったことを喜び、あるいは安心して笑うのだ。
何気ない日常の遊びではあるが、発達心理学の観点から見ると興味深い反応であるため、意外と大真面目に研究されていたりする。専門家によっては簡易的に自閉症を判定する際のひとつの目安として用いることもある。
想い出のベンチ
昔、同じベンチでうららがひとり泣いているのをシロップが目撃したことがあった。(『Yes!プリキュア5Go!Go!』第18話)
あのときもうららは歌の仕事がうまくできない辛さを苦にして泣いていた。それから、シロップがうららと特別に親しくするようになったのもこのときの出来事がきっかけだった。
悪意あるコメント
一昔前、ニコニコ動画という動画サイトが爆発的に流行した時期があった。動画上にコメントが流れるシステムが目新しかったのも人気の理由だが、それ以上に視聴者が気軽にコメントを書いてくれる場であることがアマチュアクリエイターのモチベーションを刺激したのが大きかった。彼らが自分の作品への感想を読むことができる機会というのは、視聴者側が想像しているよりはるかに貴重なものなのだ。
だが、やがて同サイトは集まった多くのクリエイターから距離を置かれるようになる。もともと2ちゃんねるの流れを汲む、自由で猥雑な交流を尊ぶ気風だったこともあり、気軽にコメントを書ける場がいつの間にか気軽に誹謗中傷できる場へと変貌してしまったためだ。モチベーションを盛り下げる場にわざわざ固執する理由をクリエイター側は持たない。
SDGsに絡めていうなら、誹謗中傷というのはシンプルな話、クリエイティビティの持続性を損なうものといえる。
忌憚のない意見を言うべきでは無い、とまでは私も考えない。
ただ、その発言をした結果何が起こるのかを想像したうえで、自分が責任を持てる範囲のことを発信してほしいと思う。その言葉はあなたの嫌いなクリエイターだけが読むわけではない。
インターネット空間へのワープ
シロップは”超一流の運び屋”を自負しており、品物を運ぶ場所と相手さえ特定できればパルミエ王国だろうとエターナルだろうと、まだ顔も知らなかったのぞみたちのところだろうと自由に行き来できる能力を持つ。今回はその能力を使ってインターネット空間に巣くうシャドウのもとへうららを運んだものと考えられる。
そういえば当たり前のようにうららの部屋を見つけていたが、あれもこの能力のおかげだろうか。
「春日野うらら、降板ですか・・・」
通常、舞台演劇の稽古期間は1ヶ月もあれば上等な部類です。どんなに長くても2ヶ月を超えるものはそうそう無いんじゃないでしょうか。
そういう背景事情があることを考えると、稽古期間中に1週間の休暇を勧められたうららが役を降ろされたと勘違いしたことにもすんなり納得できるんじゃないでしょうか。
・・・というか、私なんて第2話の時点でてっきりもう降板が確定したものと思っていたくらいですしね。
この演出家さん、この業界の人にしてはメチャクチャ気が長いと思います。というか、本人のいうとおり、うららに相当期待しているんでしょうね。何が何でもこの俳優を使いたいという強い意志がなければ普通ここまで時間をかけて育てたりしませんよ。
少し舞台演劇における役割分担の話をしましょう。
舞台演劇における最高権力者(=最高責任者)は演出家です。彼らは舞台上で展開されるドラマ全体の表現を統括します。映画の世界だと「監督」と呼ばれる立場ですね。
次に強い発言力を持っているのが脚本家。説明するまでもなく、ドラマの骨子からセリフのひとつひとつまでこの人が執筆します。ただし、現場において脚本というのはあくまで叩き台くらいの立ち位置です。舞台をつくっていく過程で必要を感じれば演出家も役者もセリフや場の流れをどんどん改変してしまいます。なお、演出家が脚本家を兼ねることもよくあります。
それから俳優。彼らは自分に割り当てられた配役をつくりこむのが仕事です。よく誤解されがちですが、彼らはセリフを読み上げるだけの人形ではありません。台本を読みこみ、セリフひとつひとつが発せられる背景事情を想像し、台本に書いていないところでの生きかたまでも想像し、元はただの文字列でしかない配役をひとりの人間として創造するところまでが俳優の役目となります。
まず脚本家が骨子をつくり、俳優たちがそれぞれの配役に肉付けし、演出家がその全体を見てひとつの作品としてまとめあげる感じですね。
ただし、実際の現場では俳優が主体的に配役の肉付けをすることを嫌う演出家も大勢います。彼らは自分が最高責任者であるところの舞台を自分個人の作品と捉え、配役ひとつひとつに至るまで自分の考えた解釈以外を認めようとしません。
↑で書いたことと盛大に矛盾しますが、彼らにとっては与えられたセリフを正確に読むだけの人形こそが優れた俳優で、自我を出そうとする俳優は演出家の領分を侵す邪魔者でしかありません。
舞台演劇において演出家が振るえる権力はきわめて大きいので、こういった専横的な製作現場は当たり前にまかり通ります。
うららは――、ぶっちゃけた話、後者の専横的な演出家の下にいたほうが評価されるタイプの俳優なんだと思います。
普通に台本を読んでいて「あなた何が言いたいの?」「あなたのアンジェラを見せてちょうだい」などと言われてしまうのはそういうことです。台本に書いてある範囲でしか役づくりしていないんですね。たぶん、今回の坂本さんという演出家に出会うまで、そもそも本来的な俳優の仕事がどういうものか知る機会も無かったんじゃないでしょうか。
だからうららは1週間も稽古をキャンセルされてしまったわけです。
今は台本通りの演技をすることよりも、いったん時間をかけて思索し、自分の生き様を改めて見つめ直し、それを配役の人間性と照らし合わせることで、自分と配役を一体化させる過程が必要だと判断されたから。
「儚い天使より食いしんぼうの天使のほうが面白くないか?」
「勝手にキャラを変えるわけにはいかないの」
そうじゃないんですよ。むしろどういうキャラなのか考えることこそが俳優の仕事の中核。演出家や脚本家の意図に一方的に委ねるべき部分ではありません。
俳優というのは本来きわめてクリエイティブな仕事なんです。ペンの代わりに声と身体で物語を著す作家のようなもの。
「あの。食いしんぼうの天使ってどうでしょうか。翼の折れたアンジェラは地上で暮らすうちに人々と仲よくなりますよね。みんなといっしょに食事して、みんなと食べるごはんがおいしくて、食いしんぼうになるんじゃないかと!」
「ふむ。――休暇をあげたかいがあったかな。やってみて」
「・・・はい!」
そんなわけで、根気よくうららの俳優としての意識改革に付きあってくれたこの演出家さん、ものすごくいい人だなあって私は思うわけですよ。そりゃ売れっ子にもなるってものです。
うららは大女優だったお母さんに憧れ、舞台上で幸せそうに笑っていた彼女がどんな景色を見ていたのか知りたくて俳優の世界に飛びこんだ子です。今回この演出家さんの指導を受けられたことは、彼女が夢を叶えるにあたって必ずや大きな糧となることでしょう。
春日野うららはへこたれません!
「がんばってきた役者の夢はダメだったかもしれない。でも――、今だって! 春日野うららはへこたれません!」
うららにとって挫折は日常茶飯事でした。
「で、どうなんだよ? 女優のほうは」
「・・・あはは。なかなかいい役がもらえなくて」
「本当、厳しいんだな」
「厳しいよ。でも、春日野うららはへこたれません!」(『Yes!プリキュア5Go!Go!』第18話)
ずっと昔から、子役のころからそうでした。
うららが俳優を志したのはお母さんへの憧れのためでした。
幼いころ死に別れてしまったお母さん。ビデオ動画で観る舞台上の彼女はいつも幸せそうで、ステキに笑っていて。そんな世界を夢見て自分もお母さんの背中を追いかけたというのに、情けないことに自分ときたら苦労の連続。全然楽しいことばかりじゃない。笑ってばかりいられない。しょっちゅうオーディションに落ちては悔し涙をこぼす日々でした。
だけど、へこたれない。自分でそう決めました。
お母さんがどうして幸せそうだったのか、うららはまだ知りません。
お母さんが何を見て笑っていたのか、うららにはまだわかりません。
だってお母さんは亡くなっています。直接聞くことは叶いませんでした。
それでも幸せそうに笑っていたことだけは確かだから。
どんなに辛い日々が続いたとしても、諦めずにがんばりつづければ、きっと最後には報われる。お母さんみたいに。そう、信じられる。
「どうすればよかったのかな・・・? 悩みすぎてわけわかんない。わかるのは――、私じゃダメだってこと。がんばったんだけどなあ」
がんばればいいってものじゃない。そう、言われてしまいました。
うららにとって最も手厳しい言葉。だってこれまで挫折の連続だったんです。諦めずがんばりつづけていればいつかお母さんみたいになれる。その信念があったからこそ、何度挫折を味わっても折れずにいられたのに。
もし、がんばるだけではお母さんみたいになれないとしたら――。
「憧れてた舞台に出られるってがんばってきたけど、私じゃダメだったみたい」
プリキュアシリーズお得意の日なたと日陰の対比演出。
努力の先にあるはずの未来まで否定されてしまったら、うららの手にはもう何も残りません。
シロップはいいなあ、何でもできて。超一流の運び屋だし、今はキュアローズガーデンでバラを育ててもいるし、俳優の卵なんかよりよっぽどオーラあるし、昔からいつも前向きで励ましてくれるし。
それに比べたら、自分なんか歌での活動を休止して舞台一本に集中してもなお届かない。
「全然ダメじゃない! ダメって決めつけんなよ。舞台とかよくわかんねえけど、お前にはあるじゃないか、歌が! お前の歌すげえし。なんで歌わねえんだよ!?」
自分と違って日なたにいる彼は、だけど、自分まで日なたのほうに連れ出そうとする。
どうしてだか春日野うららが日なた側の人間だと信じて疑わない。
何も知らないくせに。
この春日野うららがどれほどの挫折にまみれたダメ俳優なのかろくに理解もしていないくせに。
「・・・俳優の世界にはすごい人がいっぱいいて。私なんかまだまだで。他のことやってたら追いつけないから。でも――、ありがとう。励ましてくれて」
きっとお母さんも日なた側の人だったんだろうなって思う。
お母さんも、シロップも、うららがいいなって思う人はみんな日なた側。自分はなかなかああいうふうになれない。
だけど、うん。そう。あんなふうになりたいから、うららは自分なりにずっとがんばってきたんです。へこたれずに、ずっと、ずっと。
自らの足で日なたに向かって歩みだします。
うららはそもそもそういう生きかたしか知らないから。
がんばればいいってものじゃないとか、私じゃダメだったとか、そんなの関係ない。
「厳しいよ。でも、春日野うららはへこたれません!」
「でも、のぞみたちの前じゃ無理に笑わなくてもいいんじゃないか?」
「ううん――。私ね、みんなといるときが一番自然になれるの。みんなが私を笑顔で迎えてくれるから。だから、落ち込むことがあってもまたがんばれるの」(『Yes!プリキュア5Go!Go!』第18話)
それが、うららにとっての日常茶飯事でした。
空ならいつもいい風が吹いているから
「お前の歌はすごい。・・・それに、歌ってるときのお前楽しそうだったし」
「――うん。楽しかったなあ」
「ならやめることねえじゃん。歌えよ。俺も、聞きてえし」
楽しそう。そっか、そういうふうに見えていたんだ。
「私、見てみたいの。――舞台の上でお母さんはすごく幸せそうに笑ってたの。あの舞台の上から何が見えるのか私も見てみたいって、そう思ったの。だから、お母さんが立っていたあの舞台に立つまでは、絶対に諦めない。そう決めたの」(『Yes!プリキュア5Go!Go!』第18話)
まるでお母さんのビデオ動画を見ていたときの自分のように。
そっか。シロップには自分が楽しそうに歌っているって、そう見えていたんだ。
「ねえ、シロップ。いっしょにやらない? いっしょに新しい歌、つくろうよ」
シロップがいっしょなら何でもできそうな気がしました。
だって、うららもお母さんのことを思っているときはどんな挫折にもへこたれずにいられたんです。
あの人は幸せそうだった。だからあの人と同じ舞台を目指す自分もいつか幸せになれる。
あのときは楽しそうだったという。だったらこの人が見ていてくれたのと同じ私でいれば、私はきっとまた楽しくなれる。
お母さんの笑顔の理由を知りたいとずっと思っていました。
シロップが見守っていてくれるなら、もしかして自分はお母さんと同じ境地にまで手を届かせられるのかもしれない。
「シロップ! 連れてって!」
「任せろロプ!」
空間の隔たりも、世界間の隔たりさえも越えて飛ぶ超一流の運び屋の翼。
いつか約束していました。
「ん。・・・俺、ブローチつくるの手伝えなかったから、やる」
「――『シロップ乗車券』?」
「その。落ちこむことがあったら使えよ。空ならいつもいい風が吹いてるから。・・・俺が乗せて、飛んでってやるよ」(『Yes!プリキュア5Go!Go!』第18話)
体が軽い。心も。
なるほど、空には本当にいい風が吹いているようです。シロップはいつも大切なものを運んできてくれます。
がんばってきた役者の夢はダメだったかもしれない。でも、今だって・・・!
大人になったうららは”無理”という言葉を覚えてしまいました。
中学生のころはそんなものがあるなんて思っていませんでした。努力しつづけることを諦めないかぎりどんなところにも辿りつける。どんな夢だって叶えられる。そう信じていました。
だけど、がんばればいいってものじゃない場面もあることを知って、へこたれないことが取り柄の自分への信頼が揺らいでしまいました。がんばるだけじゃ良い芝居はできない。だったら、がんばるだけじゃお母さんと同じ景色を見る夢も叶わないかもしれない。がんばったって本当は意味がないのかもしれない。そういうふうに、なんだか連鎖してしまいます。
ひとつの疑念がどんどん派生して、広がっていって、まるでありとあらゆる努力が全部ムダなんじゃないかって気がしてきてしまいます。もう何もかも諦めてしまったほうがいいんじゃないかって。
1週間の休暇を言い渡されたときはまるで抜け殻になったみたいに何も手につきませんでした。
思えばあの時間が淀んだ部屋から自分を連れ出してくれたのも、シロップ。
「翼が折れて飛べないときも、お腹が空いて動けないときも、――胸がいっぱい」
うららを羽ばたかせてくれる翼は、うらら自身の身以外のところにもあったのでした。
実際のところ、うららはまだまだ全然”無理”なんかじゃありませんし、へこたれずにがんばりつづける強さは大人になった今でも健在でした。
大舞台を降板させられるというのはうららの杞憂でしたし、むしろ演出家さんはうららのことを高く買ってくれています。うららが成長したところを見せたときは嬉しそうに歓迎してくれました。
今話のうららはただ自分のなかに生まれた小さな疑念に侵されて、あらゆることへの自信を失っていただけです。
シロップに助けられ、プリキュアだった過去の自信に頼ることにはなりましたが、本来彼女の現況はそういうものに頼らなければならないほど悲惨なものではありません。むしろ順風満帆といっていいんじゃないでしょうか。
それなのに、ちょっとした不安感、自信のなさだけでこうも身動きが取れなくなるんですから恐ろしい話です。
たぶん、ベルが操っているシャドウもそういうものなんだろうなと。
ちょっとした思いやりの不足、面倒くさいという思い、身勝手さ。そういうほんのちょっとした、小さな種のようなネガティブな感情を育てて、人が未来へ進もうとする力を奪っているように見えます。
コメント
この演出家さんを見ていて、新人の王貞治選手を我慢して使い続けた水原茂監督と、同じく新人の三宅秀史選手を抜擢して辛抱強く使い始めた阪神の岸一郎監督を思い出しました(岸一郎氏の本が、来年出るそうです)。
最近で言えば、立浪選手の衰えをいち早く関知し、森野選手を抜擢した落合博満三冠御大の中日監督時代も、そうです。
新人を鍛えるよりも、ある程度ベテランを使った方が、そりゃあ、仕事は楽です。
ただ、いつまでもそれでは先細りする。
どこで切り替えるか、です。
さてこのうらら君がそのような立ち位置にいたのか、はたまた、初めからそういう位置を与えられたのかはわかりませんが、演出家さんの辛抱というのは、先ほど述べた水原、岸、落合各氏の若手起用のときの市政と相通じるものを感じました。
では、演出家さんがなぜ答えをあえて先回りして教えず、ある程度の時間を与えて迄彼女を起用し続けようとしたのか。
それはもう、自分自身で得たものでなければ真に身につかないことがわかっていたからでしょうね。
今回は実に、すべての創作者にとって大事なヒントがてんこ盛りの回でした。
あと、すべての指導者と言われる人にとっても。
演劇の世界の場合、後進を育てるという意識が起きにくいのでそのあたりは野球より深刻かもしれませんね。
なにせ劇団の座長をやっているのは基本的に演出家で、演出家が引退すればそのまま解散するのが普通ですから。その後はまあ、やりたい人がまた新しい劇団を立ち上げて各々で業界を盛り上げていったらいいんじゃないかな?くらいの独立気風高めな世界です。(自分に忠実な駒という意味ではなく)個人に才能を見出し、その人らしさを追求するよう指導する演出家というのは本当に貴重な存在です。