本当に未来を信じていないなら、どうしていつも私に「またね」って言うの?
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(主観的)あらすじ
はなはジョージ・クライに立ち向かいます。たとえ世界の時間が止まってしまっても。たとえ仲間がみんな倒れてしまっても。はなはジョージ・クライに拳を届かせるため前へ走りつづけます。
ジョージ・クライは世界からトゲパワワが消えることはないと訴えます。明日への希望を訴えても異端として爪弾きにされてしまうだけ、はな自身が傷つくだけ。だから止まった時間のなかを永遠に生きようと。
どうしてもはなを止めてあげたいと考える彼の攻撃は苛烈で、攻撃を受けつづけたはなはついに膝を屈し、プリキュアの変身も解けてしまいます。
けれどはなはアスパワワも消えることがないと主張します。膝を屈しても、変身が解けても、また立ち上がって、またプリキュアに変身します。
はなは見てきました。自分よりもすごい人がたくさんいること。そんなすごい人たちですらときには絶望してしまうこと。そしてそんな人たちといっしょに、自分にもできることがちゃんとあること。自分とみんなの“なりたい自分”をフレフレ応援してあげられること。
立ち上がり、プリキュアに変身したはなのもとに、プリキュアの仲間たちが再び集います。時を止められていた街の人たちまでも立ち上がり、それぞれが新しいプリキュアに変身します。
はなはひとりじゃありません。みんなで力を合わせてジョージ・クライの巨大なトゲパワワを受けとめ、世界じゅうをいっぱいのアスパワワで抱きしめます。
そしてジョージ・クライですらひとりではありません。
戦いが終わったあと、はなは彼の傍にそっと寄りそい、未来を信じないとうそぶく彼の言葉のなかから明日を夢見る気持ちを見出します。
ジョージ・クライははなが見つけてくれた明日への希望を胸に抱き、幾年ごしかの涙をこぼしながら、再び未来へ向かって歩みはじめるのでした。
若かりし日のジョージ・クライとドクター・トラウムが登場しましたね。
おそらくは今の時間から10年か20年くらい先の未来において、彼らは“何も持たない少女”はなのつくった輝く未来が崩壊する瞬間を目の当たりにし、失意のあまり己の時間を止めてしまったのでしょう。
それからさらにどれほどの月日が経過した未来なのかわかりませんが、やがて彼らはクライアス社を設立し、自分以外の全ての人間の時間をも止める手助けをはじめることになります。
ジョージ・クライの言を信じるなら、はなが屈したあとも未来を信じるたくさんのプリキュアたちが現れ、そしてことごとく潰されていったようです。たしかに絶望的な未来といえるかもしれません。
その芽生えたかすかな希望に誰も心動かされることがなかったのなら。ですが、実際はどれだけ世界が絶望に支配されようと、希望を胸に抱く人々は後を絶たなかったわけで。
一度膝を屈したからって、目の前が真っ暗になったからって、本当は明日を信じることを諦める必要なんてありませんでした。もし、それでも未来を信じたいと願うなら、あなたのその気持ちを応援してくれる誰かはきっといました。
絶望の未来の先にだって明日は来ます。諦めないかぎり。
ソリダスター
“野乃はな”というひとりの女の子がいました。
彼女は昔から、いつか“イケてる大人っぽいお姉さん”になれることを夢見て、毎日元気にがんばっていました。
けれどその夢は彼女の現況からはほど遠く、ときにクラスメイトからの悪意をぶつけられては心折れ、ときに自分の無力さを突きつけられては悩み苦しみ、ときに自分よりずっと大人の人と敵対することになっては恐怖することになりました。現実はいつもままならなくて、いくら輝く明日を信じていたって傷つくことがたくさんありました。
「民衆を守るため戦いつづければ、君は傷つき、穢れていく。ふたりで生きよう。傷つける者のいない世界で、終わらぬ永遠を」
そんな彼女を哀れに思ったひとりの男が、彼女に未来を諦めさせようとしました。
何もしなければ誰にも傷つけられることはない。何も望まなければ前に進むことはない。
「永遠」の花言葉。
大人になることを拒絶し、永遠に少年のままでいたいと願う、あどけない思いを託された黄色い花。
「夢を見るのはけっこう。だが、叶わぬ夢はキレイゴトだ」
「キレイゴトでもいい。それでも、みんなで明日を信じれば、奇跡が・・・」
幼い理想は美しいものだけれど、幼いままでは残酷な現実を前に儚くなってしまう。この戦いの余波で黄色い花びらが千切れ飛んでしまっているように。彼女自身の戦いが可憐な花びらを吹き飛ばしてしまっているように。
傷ついてしまう。穢れてしまう。これ以上そんな彼女は見たくない。
だからこそ、永遠に少年のままでいられる方法を用意してあげたというのに。
「永遠なんて要らない!」
なのに、彼女はそれすらも拒絶してしまう。
「はぐたんが来てくれて、大勢の人と出会えた。すごい人ばっかりだなって。けど、そんな人も迷いながら生きてる」
「生きるって苦しい。思いどおりにならない。めちょっくなこといっぱいある」
現実が苛烈であることを正しく認識していながら、彼女はどういうわけか、幼い夢を抱いたまま、現実に身を置くことをやめようとしない。
「でも、だから、私は応援したい。フレフレ――その気持ち、『ひとりじゃない』って抱きしめたい」
誰かのために、と彼女は言う。その“誰か”に幾度となく傷つけられてきたというのに。せめてその“誰か”さえいなければ現実はもう少し優しくなるというのに。
「野乃はな! 13歳! 将来の夢は超イケてる大人っぽいお姉さんになることです!」(第1話)
到底自分ひとりにしか関係ないような夢を掲げているくせに、彼女はその夢のためだと言って自分以外の“誰か”を応援したがる。
たったそれだけのことのために、自分がいくら傷つこうと厭わない。何度でも立ち上がって、また自分を傷つけた現実に向きあおうとする。
「たとえバカにされたって、そんなの夢だって笑われたって、傷ついたって。私は何度でも立ち上がる。立ち上がって、みんなを応援する!」
わざわざそんな苦しみを味わわないで済む方法が、時間を止めてしまうという救済が、今ここにあるというのに。
「なんでもできる、なんでもなれる! フレフレ私! フレフレみんな!」
彼女はそれを選ばない。
どれだけ花を散らせても、まだ元気な花は残っていると胸を張る。
止まった時間に身を置く男には、そうすることのできる理由が理解できません。
「これが――これが、私のなりたい“野乃はな”だ!!」
永遠の少年でありながら、男の想定する永遠とはどこか違う「永遠」。
過酷な現実を前にしても儚くならない人の夢。
諦めない、負けない。
クラスペディア
「明日を失いつつある世界のため、剣は何も持たない少女を選んだ。そして少女は勇気を胸に戦った。なぜ少女は戦うことができたのか。誰かのために身を削ってまで」(第11話)
「うん。理想の王国。そこでは皆が心穏やかに微笑みを絶やさない、花が咲き乱れる美しい国」(第23話)
「少女が目指すのは花咲き乱れる理想の王国。夢は叶い、人々は笑顔に満ちた。だが、人々の望みは尽きなかった。ひとつの夢が叶えばそのまた次へと。明日への希望は欲望へと変わり、王国を狂わせていった」(第46話)
ジョージ・クライの知る“何も持たない少女”を傷つけたのは、彼女の傍で理想を享受してきたはずの民衆でした。彼は彼女以外の人間を等しく見下すようになりました。
「民衆を守るため戦いつづければ、君は傷つき、穢れていく。ふたりで生きよう。傷つける者のいない世界で、終わらぬ永遠を」
どうにかして彼女を民衆から引き離そうとしました。結局のところ彼が時を止めようとする最大の理由は、“何も持たない少女”に対する民衆の干渉を止めることだったのでした。
けれど、はなはジョージ・クライのその善意を拒否します。
「野乃はな! 13歳! 将来の夢は超イケてる大人っぽいお姉さんになることです!」(第1話)
彼女の個人的な夢を実現するためには、周りのみんなとの関わりあいが不可欠だったから。
クラスメイトから悪意をぶつけられて、心折れてしまったことがありました。
「大丈夫、はなは間違ってない。もう我慢しなくていい。はなの未来は無限大!」(第23話)
けれどそのときはお母さんが抱きしめてくれて、そのおかげで立ち直ることができました。
自分の無力さを突きつけられて、悩み苦しんだことがありました。
「いつでもがんばり屋さん。誰かのために一生懸命になれるところ。失敗してもガッツで乗り越えるところ。素直で表情がクルクル変わって、見ているだけで元気になれるところ。まだまだいっぱいあるよ。私が憧れた、はなのステキなところ」(第11話)
このときは友達がはなのステキだと思うところをたくさん見つけてくれて、それで自信を取り戻すことができました。
自分よりずっと大人の人と敵対することになって、恐怖に震えたことがありました。
「みんなに笑顔が。アスパワワが。――笑顔は、守るだけじゃない。笑顔が、みんなのアスパワワが、力をくれる!」(第24話)
このときはみんなを積極的に笑顔にしようとする人、笑顔になってくれる人みんなに勇気をもらって、そのおかげで戦えるようになりました。
そう。
民衆を嫌うジョージ・クライははなのことを“何も持たない少女”と見なしますが、実際のところはなは“何も持たない少女”なんかじゃありません。はなは大好きなみんなからたくさんのものを受け取っています。
はなが身を置く現実にはたしかに残酷なことがたくさんあって、つまずいてしまうことも何度もあります。ジョージ・クライはそんな彼女の姿を哀れみましたが、はな自身はまた違った認識を持っています。
「私、なんかすっごい幸せだ!」(第45話)
つまずくたび、転ぶたび、彼女は多くの人の応援を受けてきました。彼女自身もたくさんの人を応援してきました。そのたびに自分もみんなも笑顔になって、なんだかイケてる未来にちょっとずつ近づけている気がしました。
「フレフレ私! フレフレみんな!」
彼女の口癖をみんながいいなと言ってくれて、マネをする友達まで増えてきました。自分が言うたび、そして誰かが言ってくれるたび、心に元気が湧きあがってきました。
だから、はなはみんなと離れてひとりになることを選びません。
みんなといっしょにそれぞれの夢を叶えていく、輝く未来を望みます。
「輝く未来を抱きしめて! みんなを応援! 元気のプリキュア! キュアエール!!」
はなは元気のプリキュアです。みんなを応援して、応援を返されて、みんなでいっしょに強くなっていく女の子です。
どんなに傷つけられることがあったとしても、こんな夢みたいにステキな現実、手放す理由がありません。
「赤ちゃんはみんなで育てるの。ひとりじゃ未来は育めない!」
もしもこの現実世界に「永遠」と呼べるものがあるとしたら、それは人と人との関係性の間にあるのでしょう。
「永遠」の花言葉を持つもうひとつの花は別名ゴールデンスティック。まるで太鼓のバチのようなかたちをしたその黄色い花には、他に「心の扉を叩く」という花言葉も託されています。
「心にトゲパワワが満ちるときもある。もうがんばれないってときがある。けど、きっと」
「そんなときは」
「いつだって」
「私たちが」
「傍にいます」
「アスパワワは輝いてる! みんなの心、みんなの未来に!」
フレフレ。はなはたくさんの人の心の扉を叩いてきました。その音は反響して、伝導して、繰り返されて、今、こんなにも強く大きく広がりをみせています。
みんなでいっしょに生きる、このままならない現実のなかでこそ。
プリキュア
物語はやがて終わります。
昨今のアニメとしては比較的長い部類に入るプリキュアシリーズとて例外ではありません。私たちに未来を信じる大切さを訴えてくれた『HUGっと!プリキュア』も次週で最終話です。
はなたちがテレビからいなくなってしまうなら、私たちはこれからどうやって未来を信じたらいいのでしょうか。
「女の子は誰でもプリキュアになれる。そしてその力はこの宇宙を生みだしたビッグバンにも匹敵するんだ」(『ドキドキプリキュア!』第49話)
そのことに対応するためか、最近のプリキュアは毎年必ず「街の人たちもみんなプリキュアに並ぶ強さを持っているんだ」といった話を描くようになっています。
今年はついに言葉そのまま街の人たち自体がプリキュアに変身しましたね。いつかやるだろうとは思っていましたが、正直このネタは宇宙を舞台に多様性を描くらしい次作でやるものだと予想していました。『HUGっと!プリキュア』の思いきりのよさを甘く見ていました。やったね!
「みんなの心にプリキュアがいる。みんなみんな、プリキュアなんだ!」
そう、みんなです。みんながプリキュアです。そうでなければこの物語が描かれた意味がありません。
野乃はなはプリキュアです。
薬師寺さあやはプリキュアです。
輝木ほまれはプリキュアです。
愛崎えみるはプリキュアです。
ルールー・アムールはプリキュアです。
野乃すみれも、野乃森太郎も、野乃ことりも、十倉じゅんなも、百井あきも、若宮アンリも、愛崎正人も、庵野たんぽぽも、ヨネさんも、チャラリートも、パップルも、ダイガンも、ドクター・トラウムも、ジェロスも、ジンジンも、タクミも、その他たくさんの街の人たちも、みんなみんなプリキュアです。(ところでハリーとはぐたんどこ行った)
ジョージ・クライが見限った民衆も、そしてジョージ・クライ自身も、例外なくその“みんな”に含まれます。
ジョージ・クライはプリキュアです。
「夢を見ていたのは僕の方かもしれないな。永遠など――」
おそらく大多数のプリキュア(オールド)ファンは「ピーター・パン気取りで都合よく現実から目ぇ逸らしてんじゃねえよ、オッサン」と思っていたでしょうから、今さら何言ってんだって感じではありますが、まあいいでしょう。いや、よくないわ。
オッサン、この期に及んで夢見たまま自分の人生を終わらせようとしています。
そんな無責任なプリキュアがいてたまるか。
「いっしょに行こう」
「どこへ?」
「未来へ」
というわけで、彼ははなたちに倣って輝く未来を信じなくてはなりません。プリキュアなので。
「そうだ、苦しみだ。何度救っても人間がたどる未来は破滅へと続いている。プリキュアの戦いは無意味だ」(第46話)
彼はずっと見ないふりしてきましたが、はなたちの後にも世界を救おうとするプリキュア的な人物は複数出現していました。ずっとずっと、たくさんの人が自ら時間を止めようと願うほどのドン詰まりの未来においてすらも、キュアトゥモローのようなプリキュアが現れつづけていました。
ジョージ・クライははなを“異端”と表現していましたが、逆です。むしろ誰もがはなのようになりえて、誰もがはなのような人に感化される可能性を秘めています。ただ、不幸にしてそうならない可能性もあるというだけであって。
「無理だよ。僕は未来を信じない」
こういう最初から諦めたようなことを言う人に、はなは以前も会っています。
「もうわかっているのでしょう? 私はクライアス社製のアンドロイド、RUR-9500 / ルールー・アムール! あなたたちの未来を奪いに来た! 邪魔なプリキュアの力を調べるためにあなたの母にニセモノの記憶を植え付けて潜入した! 嘘をついてあなたに近づいた! 私はあなたの家族を、学校のみんなを、街の人々を、みんな! 騙した!」(第17話)
たとえばかつてのルールーもそうでした。自分の犯してしまった罪を言い訳にして、最初から未来を諦めていました。
あのとき、はなは彼女にどう接したでしょうか。
「騙されてなんか、ない! 私がそう思ってないから、そうなの!」(第17話)
「嘘。本当に未来を信じていないなら、どうしていつも私に『またね』って言うの?」
はなの目から見た、ありのままの相手の姿。
それがジョージ・クライ自身の思う自分の真実に合致するかどうかなんてどうだっていい。
はなが本当に“何も持たない少女”かどうかって話くらいにどうでもいい。
彼自身にとってはどうだか知りませんが、はなにとっては自分の目に映る姿こそが彼の真実です。かつてはなが落ち込んだときはさあやがはなのステキなところをたくさん見つけてくれました。それははなにとっても大きな救いになりました。
だから。
はなにとってジョージ・クライはステキな人です。自分と同じく未来を信じてくれる、大切な隣人です。
もしもジョージ・クライにとってはなが信じるに値する人物ならば、彼にとってもジョージ・クライは未来を信じられるステキな人だということになるでしょう。
「はは・・・。君は本当にステキな女の子だね」
自分で自分の未来を信じることができないなら、代わりに“誰か”に信じてもらえばいい。
はなたちプリキュアは、いつだってそうして挫折を乗り越えてきました。
ジョージ・クライはプリキュアです。これからの私たちもそうであるように。
もしもこの世界に「永遠」というものがあるのなら、きっとそれはソリダスターよりもクラスペディアの花姿によく似ていることでしょう。
私たちの愛するプリキュアには、やっぱりそちらの花の方がよく似合っているでしょうから。
コメント
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ジョージ・クライは決して未来を信じているわけじゃないんですよね。「未来を信じたい」という"願望"を捨てられない、というだけで。あるいは「"未来を信じる"という君を信じたい」というだけで。
まあ野乃はな/キュアエールにすれば、その"願望"こそ未来を信じている"証"ということなんでしょうが……それは違うんじゃないか?と私は思うんですけどねぇ。
結局ジョージを力押しで根負けさせただけで、彼の異議申立てに何の回答も与えず放り投げてしまった印象が拭えない。
ただ、今回唐突に出てきた二人の男性をはじめとして、このまま放り投げっぱなしにするのはあまりに不自然な要素がかなり残っているので、次回最終話でもう少しスッキリとした決着をみせてくれることを期待したいですね。
ところで、引坂理絵さん演じる主人公・野乃はなによる毎回恒例のオープニングナレーション(一回ごとに収録しており、スランプに陥った引坂さんが「なんでもできる、なんでもなれる」と言えなくなってしまったこともあるとか)なんですが、今回は座長として番組を一年間引っ張ってこられた引坂さん御自身の万感の思いが強く込められたものになっていて、正直本日の視聴で私が一番感動したパートがここでした。
やっぱり、作り物のヒーローがどんなにカッコ良く活躍しようとも、現実のヒーローが放つ説得力には到底及ばないんですよね。だからこそ、生身の人間をヒーローに祭り上げそして時に吊し上げることがどれ程残酷なことであろうとも、現実のヒーローを求める人々の気持ちは止められないんだろうな、と。
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どちらかというと「未来を信じられるあなたであってほしい」という期待(祈り)を贈られた喜びが大きいんじゃないかなー、とは思いますね。何気なく使っている「またね」に本当に明日への希望が隠れていたってことはないでしょう。
でもそれでいいんです。はなとジョージ・クライはそもそも別の人間。お互いの事情や本心なんて知りようがない。それでも、善意とか愛とかを贈られることって単純に嬉しいものですから。(具体的に何かされると大抵ありがた迷惑だったりもするんですが)
未来の問題に対して具体的な取り組みを示すってのは子ども向けアニメではあんまりやらないです。その手の架空の問題って、視聴者たる子どもたちにとって全然関係ない話になってしまうので。特に女の子向けだと寓話的な物語づくりになっていることが多いのでなおさら。
オタク好みではあるんですけどね。シミュレーションとしての面白さ。
生身のヒーローが持つ説得力についてはそのとおり。その人が自分と同じ世界に生きているというだけでものすごい説得力。そこはさすがに否定しがたいです。
ただ、現実に生きる人間にヒーロー性を見出した時点で、その人のヒーローとしての物語って実は架空のものなんですよね。その人のありのままの姿じゃなくて、テレビや雑誌なんかで見た断片的な情報をもとに頭のなかでつくりあげた、本当は自分の頭のなかにしかいない虚構のヒーロー。そのせいで本人を知れば知るほどヒーローイメージが崩れていく、なんてこともしばしばで。
そう考えると“実在する”という説得力以外は架空のヒーローでも充分代替できそうなものなのですが、いやはや、私も含めて人間の心ってなかなかままならないものです。
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今話において、シリーズ15周年にして遂に誕生した「みんなはプリキュア」、なんですが……気になった事がひとつ。
どうしてキュアエール変身解除→キュアエール(自力で)復活→止まっていた時が動きだす→「みんなはプリキュア」誕生、という流れだったんでしょうね。
キュアエール変身解除→(みんなの意志で)止まっていた時が動きだす→「みんなはプリキュア」誕生→(その後押しを受けて)キュアエール復活、では何故駄目だったのか……。
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身も蓋もないことをいうなら『Go!プリンセスプリキュア』ですでにやってるからなんですけどね。
まあそれだけだとあんまりにもあんまりなのでもう少し語ってみると、要は本作において救おうとしていた相手が“他人”だったからだと思います。
はながジョージ・クライの事情を最後まで知らないまま救済したように、ほまれの苦悩を理解しないまま応援したように、ルールーを個人的な主観のみで受け入れたように、本作はあえて相手に共感せず“他人”としての立場から救うことを目指します。
どうしてそんな方法論を採る必要があるのかという話は長くなるので『キラキラプリキュアアラモード』の総括感想あたりを読んでいただければと思うのですが・・・。
ざっくりいうと、過去のプリキュアが共感からの救済に行き詰まったことがあるからなんですよね。いかな超人的な能力を持つヒーローとて、他人の個人的な問題を理解してあげることだけはどうしてもできず、他人の問題を“他人”のままで手助けしてあげる手段が必要になりました。
今作ではそれを応援の力で解決することにしました。これまではながみんなのためにしてこられたことといえば、フレフレして、いっしょに未来を信じてあげることだけ。あくまで理解不能な“他人”として、ある意味突き放した立場を貫きました。
みんながそれぞれの挫折から再起するにはあくまで自分自身の力で立ち上がる必要がありました。それでも応援をもらえるだけでみんなずいぶん救われていましたね。
で、この最終決戦では今までやって来たことの逆パターンをしてみせたわけです。
はながみんなを応援してきたように、はなもまたみんなから応援されてきたというのもこの物語のひとつのミソなので。
はなが膝をついたときははな自身の力で立ち上がらなければなりません。実際に立ち上がるのは絶対にはながやらなければなりません。だってはなの挫折ははな個人の問題だから。
みんなの応援はたしかにはなにとって大きな力となっていますが、そのこととこの問題はあくまで切り離して語る必要があります。応援はあくまで力を育む手助けであって、実際に力を振るうのはあくまで本人です。
民衆とは常に、女神に導かれる"だけ"の存在なのか? というともちろん違います。違うからこそみんな自分からはなに力を貸して、はなにばかり頼らず自分たちもプリキュアに変身しました。
それと同じに、はなの方もみんなに助けられるだけではなく、自分の力で立ち上がらなければならなかったわけですよ。