犬飼いろはのキャラクター考察レポート

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みんなの笑顔で彩る世界! キュアフレンディ! あなたの声を聞かせて。

↓これ何?っていう解説はこちらの記事で↓

 各キャラクターへの理解を深めるために毎年自分用につくっているメモです。
 毎年見せびらかしてるくせにあんまり読む人を楽しませるつくりになっていない自覚はあるので、せめてもの試みとして今年はスクショを添えてみます。

犬飼いろは(キュアフレンディ)

【過去】――何が自分をつくったのかという認識

1【誰の役に立ちたいか】(A+C)

「私、ちっちゃいときよく鏡石にお願いしてたんだ。『動物とお喋りできますように』って。そしたらもっともーっと仲よくなれるでしょう?」(第1話)

 世界中の動物たちと友達になりたい。

 どうすれば世界中の動物たちと仲よくなれるだろう? そう考えたとき、いろはの頭に「お喋りできたらいいんだ!」というアイディアが思い浮かびました。
 たとえば最初塞ぎこんでいた悟とはお喋りしているうちにすぐ仲よくなれました。反対に、お喋りできないこむぎには気を許してもらうまでずいぶんと時間がかかってしまいました。
 世界中の動物たちと友達になろうとしたら時間がいくらあっても足りなくなることでしょう。もし言葉でわかりあえるようになったらどんなにステキでしょうか。
 最初、いろはは動物と話せるようになることについて、そういうふうに漠然と考えていました。

2【誰に支えられているか】(B+D)

「いろは、オオカミと友達になりたいんでしょ? なれるよ! だって、こむぎも最初はガルガルしてたけど、いろはのこと大好きになったよ! ガルガルだった子たちとも今はすっごく仲よしだし」(第30話)

 いつも自分を信じていてくれる、こむぎ。

 一度気を許してからのこむぎは、どんなときでもいろはのことを信じてくれるようになりました。プリキュアになって、言葉を話せるようになってからはさらに、ときどき頼もしくすら感じられるほど強固に信じてもらえている実感があります。
 いろはが自分のことを疑いたくなってしまうときですら、こむぎはいろは以上にいろはのことを信じてくれます。その信頼に、いつも救われています。

3【嬉しかった想い出】(B+C)

「さくらに頬を触られたときにね、心が通じあえた気がしたの。動物とも友達になれるんだって。うれしかった!」(第32話)

 ゾウのさくらとの触れあいを通して、言葉が通じない動物とも友達になれることを知った。

 動物たちとお喋りできたらいいのに、と思ういろはですが、同時に動物たちとは言葉を介さなくても心を通じあわせることができるという事実を知ってもいました。
 体が大きくて、その体と同じくらい大きな優しさを持っているさくら。優しい人の気持ちはきっと絶対に伝わるんだ。その鮮烈な体験があったからこそ、後にこむぎを拾ったときも諦めず優しさを与えつづけられたのかもしれません。

4【傷ついた出来事】(A+D)

「話せるようになったらもっと仲よくなれると思ってたのに。ケンカなんかしたくないのに」
「それはこむぎちゃんも同じだと思うよ。こむぎちゃんはいつも犬飼さんのためにがんばってる。役に立ちたいんだよ」
「・・・私は仲よくしたいだけなんだけどな」
(第6話)

 こむぎのことを飼い主として守ってあげたいと思うのに、なんだか変にこじれてしまった。

 いろはに何度か起きた、言葉は万能でも手っ取り早くもないと痛感することになった場面のひとつです。
 こむぎが人間の言葉を話すようになってからというもの、こむぎのワガママに対処するのが大変になってきました。いろはのためにお手伝いしたいんだとか、想い出が篭もっているから前のリードじゃないとイヤだとか、いちいちいろはを説得にかかるようなことまで言ってくるのです。
 以前まではいろはがぎゅーってしてあげればだいたい納得してくれたのに。今は、こむぎのほうの気持ちもちゃんと受け止めてあげなければなりません。

 それが厄介で、でも、それが本来当たり前の友達との関係でした。

【現在】――自分は何者なのかという認識

A【がんばっていること】(1+4)

「いろは。この子はね、体もだけど心が傷ついてる。急にひとりぼっちになって、ケガをするような怖い目にも遭って、辛かったと思うわ。仲よくなるには時間がかかるかもしれない。仲よくなっても、元の家族が見つかったらお別れすることになるのよ。――それでもこの子と一緒に暮らしたい?」(第5話)

 たとえ報われない可能性があったとしても愛情を注ぎつづける、という覚悟を持って動物たちに接している。

 今のいろはをかたちづくる基盤のような経験であり、ある意味では呪いのような経験則でもあったでしょう。
 これは動物の生殺与奪の一切の責任を人間が負わなければならないという覚悟です。人間社会において動物たちがひとりでは生きられないことを前提としたものであり、また、動物たちが簡単には自分の意思を表明できないからこそ、人間側に必要となる認識でもあります。
 現実に即せば間違いなく尊い覚悟ではありますが、同時にこれは、ペットと飼い主という非対称の関係性で固定化してしまう考えかたでもあります。
 いろはも、こむぎも、結果から見ればこのときのいろはの覚悟にずいぶん苦しめられたことになります。

B【任せてほしいこと】(2+3)

「私、オオカミやあなたたちのことちゃんと知らなかった。まだまだ知らないこといっぱいあると思う。だから教えてほしいの。――友達になりたいからだよ!」(第30話)

 友達になるために必要なことなら何でもしてあげたい。わかりあえない原因があるとしても、話を聞いて、わかってあげたい。

 もともといろはには、動物と仲よくなるためなら何でもしてあげられるという献身的な性分がありました。
 オオカミたちには自分がただ人間だからというだけで拒絶されてしまい、大きなショックを受けたものです。ですがそのとき、気持ちが折れかけたいろはのことを、こむぎが代わりに信じてくれたのです。
 それならいろはが諦めるわけにはいきません。言葉でも、言葉以外のものでも何でも使って、いつかオオカミたちとも友達になろうというガッツが、このときいろはの心に芽生えました。

C【よく気がつくこと】(1+3)

「悟くん――。私が困ってるとき、いつも傍にいてくれて、何度も助けてくれた。“私も”だよ! 悟くんが困ってるとき、私が助けになりたいの! 悟くんと笑ってる時間が好きだから。これからもずっと、ずっと一緒にいたいから・・・!!」(第36話)

 誰かに好意を向けられるたび、その都度それを鏡のようにして、自分のなかにある同種の愛情を自覚する。

 いろはにとって一番の死角にあったものが、自分に向けられる好意です。
 なにせ、必ずしも注いだ愛情に見合う愛情表現を返してくれるとは限らない、動物たちの相手を普段からしているのです。一方的に愛することに慣れきっていました。
 けれど、いざ悟に告白されて、深い愛情を表明されたとき、自分はまんざらでもなく感じたのです。好きだって言ってもらえるの、当たり前だけど、やっぱりうれしい。

 こむぎも話せるようになってからというもの、毎日のように好き好き言ってくれています。それを幸せに感じる自分がいます。
 案外、自分は愛するだけじゃなく愛されることも好きなのかもしれない。いろははこの1年、たくさんの人との関わりを経て、そういったことを学んでいきました。

D【耐えがたいこと】(2+4)

「毎日こむぎと過ごして、どんどん仲よくなって、いっぱいケンカして。私、こむぎのことが大好きになって。こむぎと離れるなんて絶対にイヤ! ――ワガママ言ってごめんなさい。でも、私ずっとずっとこむぎと一緒にいたいんです」(第38話)

 友達とお別れしなければいけなくなること。

 一方的に愛することになってもいいという覚悟が崩壊した瞬間。
 こむぎのことをたくさん愛し、こむぎからもたくさん愛された結果、分かちがたい絆ができてしまいました。
 自分は思っていたほど無私ではいられない。求める気持ちも、求められたい気持ちもたくさんあって、こむぎがよくワガママなことを言うみたいに、自分のなかにもワガママな気持ちがあったんだ。
 いろはにとって、友達とは本当はそういう生っぽいものだったのでした。

【未来】――これまでの総括とこれからの夢

α【自分の手で守りたいもの】(プリキュアになる最初の理由)(1+2+3+4)

「こむぎが痛いと、私も痛い。“私も”だよ! こむぎとお散歩したり、ごはんを食べたり、眠ったり。そんな毎日が、こむぎと一緒の毎日がワンダフルなの!!」(第2話)

 こむぎに、自分の手の届かないところで危険なことをしてほしくなかった。

 最初のころのいろはは完全に保護者でした。
 セリフでこそこむぎと対等な関係でありたいという意思を伺わせていますが、その実、このシーンはいろはの目の前でこむぎが傷ついている場面です。それを半分でも肩代わりしてあげたい。こむぎと一緒の日々は自分も同じくらい幸せを感じているんだから、まるで恩返しみたいな理由で危ないことなんてしなくていい。
 これはそういう、対等になりたいと思うこむぎに対し、いろはのほうはあくまで自分が損を被っていたいという考えかたの違いが表れたセリフです。

β【まだ足りないもの】(物語を通して成長するところ)(A+B+C+D)

「お母さん! なんとかできないの!? ――本当に、本当にフクちゃんには何もできないの?」
「今ならまだフクちゃんは家に帰れる。お鶴さんと一緒に暮らした場所で、お鶴さんと過ごすことが、フクちゃんにとって一番いいと思うの」
(第44話)

 できることを全てしてあげるのが正しいという、一種の傲りがあった。

 いろはにとって、動物のために何でもしてあげることは当たり前で、献身することこそ自分の喜びだという意識はなかなか抜けることがありませんでした。
 たとえ効果が薄くとも、徒労に終わるかもしれなくても、割を食うのが自分だけならやってあげたい。フクちゃんの終末医療には、いろはのそういう“やってあげたがり”な意識を砕く威力がありました。

 実際のフクちゃんは自分の人生に満足していましたし、自分が長く生きることよりもお鶴さんに愛情を伝えたいという気持ちのほうがより強くありました。
 いろはだってこの時点ではとっくに、自分は一方的な愛情の受け渡しより相互的に愛しあう関係のほうが好きなんだという自覚があったはずです。それでもなかなか納得しきれなかったのは、ここに“死”という取り返しのつかない要素が介在していたからなんでしょうね。

γ【いつか叶えたい理想の自分】(最終的に思い描く理想)(α+β+1+A)

「あったかい・・・。これ、ガオウやザクロともしたいな。友達って“悲しい”や“苦しい”もあるけど、でも、“嬉しい”や“楽しい”はその何倍もあるから」(第45話)

 たくさんの動物たちを愛するだけでなく、自分も愛してもらうためにこそ、世界中の動物たちと友達になりたい。

 こむぎの飼い主として育ったいろはにとって、初め動物というのは自分の側から無条件の愛情を注ぎ、あらゆる危険から守ってあげるべき存在でした。動物たちのほうからお礼だとか、好意の表明だとかをしてもらうことを期待する対象ではありませんでした。
 でも、動物たちにはっきり嫌われてしまうと悲しく感じましたし、大好きな子が遠くに行ってしまったり、あるいは亡くなってしまったりすることを考えただけで身を引き裂かれるような思いがしました。
 反対に、言葉を話せるようになったこむぎに好き好き言ってもらえると、それだけで心がぽかぽかしてくるのです。

 結局、いろはは動物たちを愛することも、動物たちから愛されることも、両方合わせて大好きなのです。

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