すずめの戸締まり 感想 生きるか死ぬかなんて運でしかないとして。

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けまくも畏き日不見の神よ。遠つ御祖の産土よ。久しく拝領つかまつったこの山河、恐み畏み、謹んでお返し申す。

このブログはあなたが視聴済みであることを前提に、割と躊躇なくネタバレします。

大冒険!

 これはどこにでもいる普通の女の子が、世界を救うために日本中を旅する物語。

 主人公岩戸鈴芽。何の力も持たない平凡な女子高校生です。ある日偶然出会った王子様に不思議な縁を感じ、彼を手助けするために旅を始めました。
 王子様の名前は宗像草太。日本中を回って“閉じ師”という浮世離れした仕事をしていたのですが、ひょんなことから化け猫に呪われ、小さな椅子の姿にされてしまいました。
 化け猫はダイジンと呼ばれています。いわゆるライバルキャラ。鈴芽を気に入っていると同時に草太のことはひどく嫌っており、彼女たちを引き離すため日本各地でちょっかいをかけてきます。

 そんな、一人と一脚と一匹が織りなす、にぎやかでワクワクするロードムービー。
 鈴芽は行く先々でたくさんの人と出会い、笑ったり悩んだりしながら成長していきます。

 瑞々しい心理描写と美しい風景美術で人気の新海誠監督に、叙情的かつ爽やかなサウンドを提供するRADWIMPS、クセのある制作陣の手綱を引いて王道作品にまとめる手腕を持つ川村元気プロデューサー。この3者のタッグがこういう(ある種照れくささすら感じる)まっすぐな作品を手がけて面白くならないわけがありませんね。

 なお、今作は恋愛映画ではないので鈴芽が草太に惹かれていく過程はあまり時間をかけて描かれることがありません。そもそも一般的な意味で鈴芽が恋をしたのかというところから疑わしい。
 それでも確かに、鈴芽は草太を慕うようになるのです。

 どうしてか。

 それは、彼女が今回の旅を始めた理由に密接に関わってきます。

戸締まり

 「けまくも畏き日不見の神よ。遠つ御祖の産土よ。久しく拝領つかまつったこの山河、恐み畏み、謹んでお返し申す」

 草太が唱えるこの歌は祓詞と呼ばれるものによく似ています。人間が犯した罪に対する罰として引き起こされる天災に際し、その罪を禊ぎ神様の許しを請う儀式の一部として歌われるものです。

 なお、現実に日不見(ひみず)という名の神様はいません。一般的にはモグラの異名です。けっして太陽の下に現れようとしないことからこう呼ばれました。物語の流れからすると、今作でいう「日不見の神」とはモグラというよりか“ミミズ”のことだと考えるべきでしょう。日不見とミミズで語感も似ていますね。
 そしてこの祓詞によると、日不見の神は同時に産土神でもあるといいます。産土神とは土地に着く守護神のこと。つまり、“ミミズ”とは本来、自らが守護する日本列島を人間に貸し与えてくれた善神だったんですね。
 ところが、人間はせっかく神様から貸し与えられた土地(=「拝領つかまつったこの山河」)を常にくまなく有効活用できるわけではありませんでした。災害や経済的な都合などにより、どうしても人が住まなくなった土地というものはできてしまいます。
 神様としては当然面白くありませんね。せっかく人間のためを思って貸してやった土地なのに、ろくに使わず放置するだなんて。だから“ミミズ”は荒れ狂い、地震を起こして廃墟付近でのうのうと暮らす人間たちに神罰を下すんです。

 そこで草太ら閉じ師の出番。彼らは廃墟となってしまった土地の所有権を日不見神に返却すると宣言し、使わなくなった土地の戸締まりをします。
 “後ろ戸”とは元来、仏堂の裏手の扉のこと。通常、人間が出入りする必要のない場所にあえて設えられるこの扉は、人間の世界と神様の世界を区分けするためだけに存在します。そこに鍵をかけることはつまり、次に鍵を開けるときまでこの土地は神様のものだと明確化する行為。日不見神は再び自らの神域となったその土地を、再び人間が貸してほしいとねだるいつかのときまで、ミミズらしく気ままに耕しつづけることでしょう。

 『すずめの戸締まり』の前提にはそういう、人間と神様との間に営まれてきた当たり前のコミュニケーションが存在しています。

 “言葉に言い表せぬほど貴い日不見神、遠い先祖の代より我らを育んでくれた産土神よ。あなたから長らくお預かりしていたこの土地を、深い感謝と敬愛を込めて、ここに返却いたします”

要石

 「すずめ、やさしい、すき」

 では、要石とは何なんでしょうか?

 鈴芽の手により要石の役目から解放されたダイジンは、初め痩せ細った仔猫の姿をしていました。気の毒に思いエサを与えてくれた鈴芽の優しさに過剰になつき、以後、彼はどれだけ誤解されようとも献身的に、鈴芽の戸締まりの旅を支援してくれます。まるで生まれてはじめて女子から声をかけてもらえた思春期の少年のごとく、それはもう一生懸命に。
 ついでに、ふくふくとした愛らしい外見で行く先々に出会う人間片端から愛想を振りまきまくり、SNSで話題沸騰のアイドル猫として大活躍してもいました。

 彼は要するに、さびしかったんです。
 要石が必要とされていたのは、閉じ師による戸締まりだけでは“ミミズ”の怒りが鎮まることのなかった土地。
 “ミミズ”は人間が借り受けた土地をろくに利用せず廃れさせてしまったことに対して怒ります。必然的に彼が封じられるのはいつの時代もめったに人の立ち寄らないさびしい場所で、だから彼はずっとひとりぼっちでした。
 それがいいかげん嫌になったからこそ、今回ついに脱走してしまうわけです。

 ただ愛されたかった。
 誰でもいいからぬくもりを分けてほしかった。

 そんな彼を最初に思いやってくれたのが、たまたま鈴芽だったのでした。

 反対に閉じ師は嫌いでした。自分をさびしい土地に縛りつけてしまうから。

 「これで終わりか・・・。こんなところで・・・」

 草太も体験したとおり、要石というお役目はひどい貧乏クジでした。
 本当にただの生け贄。要石にされる側にメリットなんてただのひとつもありません。

 それでも、ダイジンは最終的に自ら要石に戻ることを選ぶのです。

 このままでは鈴芽が自ら進んで要石になろうとしてしまうから。
 このまま草太が要石であるかぎり鈴芽は絶対に喜ばないから。
 そしてなにより――。

 「ありがとう、ダイジン!」

 鈴芽がダイジンの気持ちをわかってくれたから。

 ダイジンはもう、さびしくなくなったから。

特別な誰か

 「生きるか死ぬかなんてただの運なんだって、私、小さいころからずっと思ってきました」

 「うん、そうだ。きっと大事なことをしてる。私もそう思うよ」

 草太に再三止められたにも関わらず鈴芽が強引に旅についていったのは、第一にこれが理由であり、第二にこれが理由でした。

 死ぬことなんて大したリスクだとは思えない。そんなことよりももっと大事なものがある。あってほしい。

 このあたりの鈴芽の気持ちは劇中で細かく説明されていませんでしたが、別に説明されなくても何となくわかるという視聴者は多かったのではないでしょうか。前作『天気の子』でも主人公の行動原理はこれと似たようなものでしたね。たぶん、今の若者に広く共通した思いなんだと思います。(※ 新海監督や私は果たして若者か?というツッコミはさておき)

 生きることなんて誰にでもできます。今どき生きることに才能や努力なんて必要ありません。
 もし今の日本でそれができない人がいたとしたら、それはその人のがんばりが不足していたのですらなく、ただただ不幸にして、本来誰もに平等に与えられるべきものがその人にだけ与えられなかったというだけのことです。

 ただし、そうやってただただ命をつないでいくことを私たちが「生きている」と呼ぶかというと、それはNoです。
 だってそうでしょう。生きているだけで偉いだなんて本気で褒めてくれる人がこの世にどれだけいるでしょうか。生きることなんて本当に誰にでもできることです。何か、それ以上のことを成し遂げなければ、今を生きる私たちは誰にも存在を認知されません。
 大きな事業を成すのでも、偉大な記録を残すのでも、大勢の仲間をつくるのでも、社会の役に立つ尊い仕事をするのでも、何でもいい。何でもいいから、“誰にでも”はできない何かをできるようにならなければ、私たちが自分は「生きている」んだって実感できる日は永遠に訪れません。

 特別な誰かになりたい。
 そういう何者かになれと、学校で繰り返し繰り返し教えられてきました。
 生きることなんて簡単だからこそ、現代日本の価値観において「生きる」ためにはそれ以上の努力が必要になるんです。

 チャンスでした。

 いつもの日常のなかで偶然にも“閉じ師”などという奇怪な職業の人に出会えたことは。
 そしてその彼が自力で仕事を行えなくなったことが。
 おまけに自分だけが彼を手伝えるというこの状況が。

 鈴芽は善良な人物なので、そうはいっても別に彼に取って代わろうとかそういう邪心を抱いたわけではありません。
 なんならすでに“特別な存在”である彼から、特別な存在として認めてもらえるだけでもきっと充分でした。それだけで鈴芽の自己肯定感は満足するはずでした。彼はそんじょそこらにいないレベルのイケメンでもありましたし。

 彼に必要とされるなら死んだって構うもんか。

 もしその思いが本当に恋だというのなら、これは鈴芽の恋の物語だったのでしょう。

まだ、空想のなかにいる

 「昨日が二次試験だったのに、あいつ、会場に来なくて。ありえねえよ。バカすぎるぜ、あいつ。これじゃ4年間の努力がパアじゃねえか」

 草太は鈴芽が思っていたほど特別な存在ではありませんでした。
 閉じ師であることは本当でしたが、同時に現役大学生という地に足ついた身分も持ち併せていて、将来の夢は学校の先生。その夢も(少なくとも今年は)叶わないでしょう。

 鈴芽の日常を激変させたおとぎ話の王子様が、急に等身大の男の子に見えてきます。
 自分が恥ずかしくなります。浮かれていました。甘えていました。自分のことしか考えていませんでした。要石を抜くだなんていうとてつもない迷惑をかけていたのはわかっていたはずなのに、草太のことを特別な存在だと盲信するあまり、具体的にどれだけ困らせていたのか全く想像していませんでした。

 鈴芽を慕うダイジンとそっくり同じ構図です。
 たまたま、ちょっと優しくされたから、自分はこの人の“特別”になれるんだと無邪気に信じきっていました。

 あげく、鈴芽の犯した罪は草太からもうひとつ大切なものを奪います。
 生きる権利。草太は要石にされてしまいました。
 生きることなんて、本当なら誰もが当たり前にできることのはずなのに。

 さて、こうなってしまったとき、鈴芽は何を考えるでしょうか。

 死ぬことなんて大したリスクだとは思えない。そんなことよりももっと大事なものがある。
 それが鈴芽の基本的な考えかたです。
 だったら答えは簡単。

 「私が要石になるよ」

 あの人は本当は特別な存在なんかじゃなかった。
 覚悟もない英雄願望のせいで取り返しのつかない迷惑をかけてしまった。
 全部自分の責任だ。あの人の全てを、なんとしてでも取り戻さなければならない。

 そのために、今度は自分ひとりの力で特別なことを成し遂げよう。

生きることの価値

 「お母さん。ねえ、お母さんどこ?」

 鈴芽のお母さんは12年前に亡くなっていました。

 鈴芽が死を怖れなくなったのはそのときからです。
 東日本大震災はあんなに優しかったお母さんを殺し、ただの子どもでしかなかった自分を生かしました。理不尽だと思いました。どれほど優れた人間だったか、生きるためにどれほど努力していたかなんてまるでお構いなしに、震災は生きるべき人間と死ぬべき人間とをランダムに振り分けたのです。

 だから、生きることそのものに価値なんてない。
 生きた人間に何か価値があるとするならば、それはもっと別の、特別な指標によって測られるのでしょう。

 たとえば、そう。
 おぼろげな記憶のなかでの出来事。後ろ戸を開けて常世に迷い込んだ鈴芽を迎えに来てくれた、あのときのお母さんのような――。

 「草太さんのいない世界が、私は怖いです」

 もし叶うのなら、自分は草太を生かすために死にたい。
 だって自分はもうどうやって生きたらいいのかわからないから。
 草太は最初鈴芽が思っていたほど“特別な存在”ではなかったかもしれません。でも、だからこそ、彼には特別でもなんでもない当たり前の生活がありました。少なくとも彼は生きるための方法を知っています。今の鈴芽と違って。

 ただ生きるだけのことなんて本来なら誰にでもできるはず。今の鈴芽にはどうしてかそれができないのだけれど。
 だからせめて、この命は生きるべき人を生かすために使ってしまいたいと、鈴芽は願います。

 このとき鈴芽は自分が思考していたことの意味をもう少し深く掘り下げてみるべきでしたね。

 故郷にたどり着き、幼いころ迷い込んだのと同じ後ろ戸を開けて、鈴芽は再び常世に下りました。“ミミズ”を封じている草太を見つけ、その身を引き抜こうとしたとき、鈴芽は彼が胸に抱いていた思いを聞きます。
 生きたい。まだ生きていたい。せっかく鈴芽と出会えたのだから、と。

 もちろん鈴芽も同じ思いでした。草太を生かしたくてここまで来たんです。
 けれど、だからこそ、彼女はここではじめて自分の決定的な間違いに気づくのです。

 生と死を分けるものは運でしかありません。だからお母さんは死にました。だから鈴芽は死を怖れません。
 それは只人の身で起こせる因果でどうこうできるようなものではなく、生は生、死は死、ただその身に訪れた運命をそのまま受け入れることしかできないものです。
 だからこそ、私たちは死を嘆くんです。
 生を喜ぶんです。
 そこにあるものが人の努力ではどうにもできないものであるからこそ。

 草太は今も生を望んでいました。我が身に降りかかる死の運命を悟ってなお。
 鈴芽もです。それがどれほど抗いがたい運命かは委細承知のうえで、それでも抗うことを諦めたくなかったからここまで来たんです。

 生と死を分けるものは運でしかありません。
 だとしても、それがすなわち「生きることそのものに価値はない」と断ずる根拠にはなりえない。

朝のあとには夜が来て、だけどまた朝が来て

 「ねえ、鈴芽。あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かともたくさん出会う」

 おぼろげな記憶のなかでの出来事。幼い鈴芽が常世で出会ったのは、お母さんではありませんでした。未来の鈴芽でした。

 お母さんは本当にただ理不尽に亡くなっただけで、そのあと鈴芽のために何かをしてくれたという、奇跡めいた事実はありませんでした。
 私たちの人生において、ただ生きる以上の特別な価値を得るための努力が必要なのは確かだったとしても、それすらもまずは命あっての物種。生きることはあらゆる思い、願いや祈り、その全ての土台です。

 いつしか鈴芽は本当に本当の意味で草太に恋するようになっていました。
 どのタイミングで純粋な恋心に変わったのかは誰にもわかりません。鈴芽本人は自転車の上で環おばさんと語りあったときに自覚していそうですが、私はもう少し後、常世で草太の思いに触れた瞬間を推します。
 いずれにしても、そのくらい彼女の恋心は自身の価値観やこの旅での成長に直接的に結びついていて、きわめて自然な心の移ろいで、すなわち、彼女は自分の生の全てをかけて草太との結びつきを強く強く求めるようになりました。

 鈴芽は今回の旅でたくさんの人の好意に触れました。
 草太はもちろんのこと、議会していただけで実は最初から鈴芽の味方だったダイジン、愛媛で知りあった千果、神戸でお世話になったルミさん、飄々とした態度ながら最後まで世話を焼いてくれた芹澤に、わざわざ宮崎から追いかけてきてくれた愛情深い環おばさん。
 みんなみんないい人ばかりで、今回の旅はつくづく良縁に恵まれていました。鈴芽自身もみんなのことを大好きになりました。
 東日本大震災で大好きだったお母さんを亡くしたのは間違いなく不幸な巡りあわせでしたが、一方で鈴芽自身が生き残ったのもまた間違いのない幸運でした。不幸のどん底にいたあのときは想像もできなかったくらい、今はこんなにも幸せなんですから。

 それもこれも、生きていたからこそ。

 「朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返してあなたは光のなかで大人になっていく。必ずそうなるの」

 昔の自分に祝福を授けます。

 それは努力だけではどうにもならない運命的な巡り会わせ。
 けれど途中で投げだしていたらここまで辿りつけなかったであろう未来。
 人は生きているだけで幸せになれるものでもないでしょうが、生きているからこそ巡り会える幸運というものもまた、確かにある。
 だからどうか、幸せでありますように。
 幸せになれると、信じつづけてくれますように。

 あの恐ろしい“ミミズ”ですら人間のために土地を貸し与えてくれた産土神であったように、この世界の真実は見る人によって、あるいは見かたによって、変幻自在に変わっていく。

 どうか、偶然に目の前を訪れた幸運を見落とすことなく、幸せになるために生きていけますように。

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