超人女子戦士ガリベンガーV 第34話感想 仏像に込められた人々の思いを想像してみよう。

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生徒役:電脳少女シロ、花京院ちえり、神楽すず

最終的に、そこの人々の顔になっていくんです。

出演バーチャルYouTuber

電脳少女シロ

「わらわは食いしん坊で手づかみでリンゴを食べるので、何もしていないのじゃ」

 天衣無縫の快幼児。知識が広く深く、それでいてデコボコとムラっ気があるので、ちょくちょくそうと気付かずオタクにしか伝わらない言いまわしをしてしまいがちです。彼女のファンやアイドル部なら問題なく通じるのですが、小峠教官はオタクじゃないので、この番組では意思伝達に苦労する珍しい姿が見られます。
 「いるだけで○○な子」という表現がこれほど似合わない人物もなかなかいないでしょう。いればだいたい何かしています。傍若無人に暴れてみたり、賢く機転の利くトークを繰りひろげてみたり、斜め上にカッ飛んだ名言を連発してみたり、他の共演者を気遣ったり、イジりたおしたり、あるいはゴキゲンにキュイキュイ笑っていたり、八面六臂の変幻自在! ちょくちょくワケワカンナイこともやりたがりますが、そういうときは「シロちゃんの動画は為になるなあ!」と、とりあえず納得しておきましょう。彼女はあなたが為になることを望んでいます。
 まるでアブない人のようですが、そして実際アブない人なのは確かなのですが、ああ見えて彼女は共演者をよく見ています。聡明です。共演者の対応力を推し測り、ギリギリ捌ききれる程度のムチャ振りを仕掛けるのです。おかげでいつのまにか人脈の輪がずんどこ広がってきました。タチが悪いったらありゃしない。

花京院ちえり

「ちえりちょっと、かわいいだけじゃダメだと思って。爪痕を残したいと思います。がんばります」

 かわいいの具象化にしてかわいいの伝道者。けれどかわいいだけでいるつもりもありません。子どものころ憧れたアイドル目指してかわいくなりました。かわいいだけでアイドルになれないのなら、かわいい以外の全部も精一杯に頑張ります。
 花京院ちえり最大の魅力はなんといってもかわいいことです。彼女はかわいくあるため私たちの前に現れ、そして私たちもかわいいと言いたいがために彼女のところに集まります。かわいいことは良いことです。そして花京院ちえりはかわいくあるためにありとあらゆる努力を欠かしません。理想のため歯を食いしばってがんばる不屈の人です。女は度胸、ちえりはかわいい。今日もちえりちゃんはかわいいなあ!
 そんなわけで、花京院ちえりがかわいくあるためには良き理解者の存在が欠かせません。そのことを彼女は誰よりもよく理解していて、だからこそ誰よりもファンを慈しんでいます。ファンと一緒に笑いあっている彼女が一番かわいい。さすがのファンもガリベンガーVのスタジオにまでは着いてきませんが、代わりに小峠教官がかわいいと言ってくれます。

神楽すず

「あ、ピースしてる! プリクラ! あはは、こなれてますね」

 きわめて激しい言葉づかいとウラハラ、実は相当マイペースな楽天家さん。ギャップが激しいのにもほどがあるというに、別に無理してキャラをつくっているわけでもありません。むしろ演技はド下手くそ。自然体でしかいられない。気の向くまま好き勝手喋っているときが一番アニメキャラっぽくなる愉快な子です。
 彼女は普通の子です。歌を歌うときは多少トチっても気にせず楽しげに歌いきり、ロボットを操縦するときはまるでアニメ脚本家が書いたような芝居がかったセリフをいつものテンションでサラッと口にします。神楽すずはどこにいても、何をしていても、神楽すずです。たとえテレビ局のスタジオで数百万画素の業務用カメラを向けられていようと、ライブ会場で合計数千ワットのパーライトに照らされていようと、彼女は普通の子であることをけっして手放しません。
 どうしても失敗してしまう瞬間はあるでしょう。けれど、もしその次の瞬間にまた立ち上がっていられたら、失敗は大した失敗じゃなくなります。それこそが神楽すず。いっそ人生哲学じみている鋼のクソ度胸を引っさげて、彼女は今日も威風堂々と笑います。

授業構成おさらい(+ 補足事項)

超難問:仏像の謎を解明せよ!

 村松先生は仏教美術の研究者です。仏像をあくまで美術品として鑑賞する立場の人ですね。とはいえ美術を学術的に研究する以上は制作された歴史的・文化的背景だったり、製作者の素性だったりを探る必要があるため、結局仏教や歴史についての造詣も深くなるんですけれども。
 もっとも、研究者としてやっていくのでなければ美術鑑賞するのにそんな肩肘張る必要はありません。あったほうが楽しいという人もいるでしょうが、そうじゃなくても楽しめる人も少なからずいます。かくいう私も美術館に行くときは解説文ガン無視して作品だけじっくり楽しむスタンス。美術品は歴史的・文化的価値抜きでもそれ自体がまず美しいんです。村松先生も仏像を鑑賞する際は1体あたり1時間ほどかけて鑑賞するのを推奨していますね。

 仏教に限らず、大抵の宗教は初めのうち偶像崇拝を認めていませんでした。宗教とは本来自分自身が善く生きるための哲学だったからです。人は神様仏様のために祈るのではありません。祈ることで心の安寧が得られるから祈るんです。従って、祈りの場に偶像は必要ない、むしろ不純だと考えられていました。
 ところが、今日ではむしろ積極的に偶像を活用する宗派が多くなっています。偶像は宗教的象徴であると同時に、美術品でもあるからです。時間をかけてゆっくり美術品と向きあうと、心のなかに様々な思いが湧きあがってきます。製作者の思いや時代の流れに思いを馳せ、神仏という存在に想像力をはたらかせ、あるいはそういった思いが沸き起こる自分自身の心に不思議さを感じ。
 ――すなわち、偶像を見つめる私たちの心の動きは祈りによく似ています。

導入:仏像のイメージは?

 「ちえりちゃんは元気ですか? 相変わらずかわいいですね」
 「元気でーす! あは、覚えててくれたの!? ありがとう!」

 この全力で嬉しそうにしてくれる笑顔があるから「かわいい」って言ってあげたくなるんです。私たちも、たぶん小峠教官も。あれは見ていてこっちまで幸せな気持ちになれる笑顔だから。これからも元気でいてくれないと困ってしまいます。
 「でもね、聞いてください。ちえりちょっと、かわいいだけじゃダメだと思って。爪痕を残したいと思います。がんばります」
 「そうですか? いやいやいや。かわいいという爪痕を残してるじゃないですか」

 まったくもってそのとおり。この傷跡はいつまでもいつまでも私たちの心を暖めつづけるでしょう。もしそれとは別に具体的・実際的な爪痕がほしいというのなら、たとえばこのブログのようなかたちで私たちも喜んで協力しましょう。(サイト維持費を払い忘れないかぎりは)
 ただ、それはそれとして花京院ちえりが強い信念のもと気高く努力している姿もまた、私は好きです。心から尊敬しています。好きなだけがんばってくれると嬉しい。我ながら重たいファンになってしまったものです。自律だけは怠らないので許してほしい。
 「いいの!? ありがとう! ありがとう!」
 この「ありがとう」かわいくね?

 さておき。

 「みなさんにですね、仏像のイメージを聞いてみたいと思うんですけども、どういうイメージがありますかね」
 「えー。私、ちょっと怖いイメージがあります。しかめっ面してるイメージが」

 こういうとき、変にひねらず素朴なコメントをする神楽すずはいつも先生の欲しい言葉を投げてくれますね。
 仏像はいわずもがな仏教のものです。仏教徒を自認していない大半の日本人にとってはちょっと距離を感じてしまうのではないでしょうか。今回の授業では仏像を美術品として語るので、まずはアイスブレイク!(ちょっと違う) 仏像の面白さを知って、親しみを感じていきましょう。

 五劫思惟阿弥陀仏はボリューミーな髪が特徴の仏像です。国内に16体しか残っていないという珍しいモチーフで、番組で紹介されたのは東大寺のものですね。
 「五劫」は途方もなく長い時間のこと、「思惟」は深く思索するという意味です。阿弥陀が仏に至る悟りを啓いたときの修行姿を彫ったものがこの仏像になります。先生は「美容院に行く時間がなかった」と表現していましたが、より正確には座禅を組んだまま延々と思索を続けていたというのが正しいところです。
 悟りを啓いた者の髪の毛は1本1本が自然と丸まってあの特徴的な髪型(螺髪)になるそうな。そこはかとなく便利ですね。

 みかえり阿弥陀はユニークな逸話のある仏像です。
 元々は東大寺の宝物庫に保管されていたといいます。あるとき、この宝物庫に入った永観というお坊さんが「仏像は衆生を救うことが使命なのに・・・」と嘆く仏像の声を聞いたんだそうな。以来、この仏像は宝物庫から出され、永観のもとで大切に奉られるようになりました。
 やがて永観は東大寺を離れ、自分のお寺をつくって引っ越すことになりました。そうなると、この仏像はあくまで東大寺の持ち物ですから、返却しなければなりません。ところが、この仏像は永観とよっぽど離れたくなかったんでしょう。永観の背中に引っ付いて離れなかったんだそうです。仲よしかよ。
 どうやっても離れようとしない仏像はついに永観の寺へ持ち出されることを許され、ここでも大切に奉られることになります。ある日、永観がいつものように衆生を救うための修業をしていると、またもやこの仏像が動きだし、永観のいる方へふり返って一言「おい。永観、遅いぞ」と励ましの言葉をかけました。相棒かよ。
 現在に伝わるこの姿はそのときのものとされています。声をかけられた永観がいたく感動して、ずっとそのままのポーズでいてほしいと頼み込んだんだとか。なんというか、かわいいコンビですね。

トピック1:最も古い仏像はどれ?

 「なんか4番とか2番はぱっと浮かぶ仏像の形なイメージがあって、てことは最近につくられたのかなと思って。段々古くなるとちょっと形がどんどん変わってってくのかなって」
 かわいいだけじゃなくなりたいと言っただけあって有言実行、元々オカルト知識が豊富なのもあって、今回はだいぶマジメな考察を披露してみせた花京院ちえり。
 惜しむらくは、昔は現代のように文化が世界中に共有され、平準化していなかったことに思い至らなかったことですね。仏教はアジアのほぼ全域に布教されているので、仏像の姿にも、時間による技術発展以上に地域性というものが色濃く出ます。
 「仏像はいろんな地域に伝わっていくんですけれども、最終的にその地域の人の顔になっていくんです」

 正解は2番のガンダーラ仏。
 ガンダーラという地域はアレクサンドロス大王の侵略を受けており、このためギリシャ系の人々との交流がありました。ギリシャ人は古くから彫刻美術を愛好しており、なかでも人物像の製作に熱心な人々でした。なんと、神話をモチーフにして彫刻するときですら、神様を人間の姿として彫りあげていたほど。人体大好きギリシャ人。今日多くの文明において神様が人のイメージで描かれるようになったのは、侵略戦争によってギリシャ文化が広く拡散した影響だともいわれています。
 「最初につくった人は何かを参考にしてつくったんですか?」
 仏陀はインド人のはずなのに、ガンダーラ仏は西洋人のような顔をしていますね。髪も螺髪ではなく波うっています。これを根拠として、この仏像は信仰心に篤い人が己の信仰のために彫ったのではなく、ギリシャ人ないしギリシャ文化に造詣が深い誰かが、ギリシャ文明のノリでこの仏像を彫ったのではないかと考えられています。

 ガンダーラにおいて仏陀の姿を彫るという文化が生まれたことで、以後、他の仏教圏でも少しずつ仏像というものが広まっていくことになります。

 「なんていうんですか。バックが簡素っていうか」
 ちなみに神楽すずが気にしていた、仏像の後ろにある丸い石板も良い着眼点。これは光輪といいます。よくキリスト教の宗教画で神様や聖人のバックに丸い輪っかが描かれていますね。アレです。神様や聖人は自ずと光を発するものだと説かれており、それを絵や彫刻に表現しようとするとこうなります。ガンダーラ仏にはこういうところにも西洋文化の影響が出ています。
 後の時代の仏像はこの光輪の装飾を凝るように発展していきます。小さい仏像をたくさんあしらって曼荼羅にしているのを千仏光などと呼びます。

 「なんか、背中の背景とセットに見えたので、壁を掘り出してつくられたのかなって思ったから。なんかこう、意図してつくったというよりも、掘ってくうちにこうしたステキなお姿が見えたのかなって思いました」
 そしていつものことながら意外なところで人を感心させることを言う電脳少女シロ。前半部分だけならともかく、「掘っていくうちに見えた」という発想は元々そういう知識を持っていたから出たものなのか、それとも完全に個人的な感性によるものなのか。つくづく底の見えない子です。
 実は彫刻というのは本当にそういうものなんです。いえまあ、私は彫刻をしたことがありませんが、知識としてそういうものだというのを聞いたことがあります。
 もちろん彫刻をつくるときは事前にモチーフを用意して、それに似せて彫るのが大前提です。ですが、自然の石材や木材というものは当然ながら構造が不均一。固い小石や木目などに阻まれて、必ずしもイメージ通りには彫れないものです。
 ところが、一流の彫刻家の作品はそういった苦難を感じさせず、ぴったりイメージ通りノミを動かしたかのような完成度を示します。それはどうしてかといえば、彼らはある程度素材の質に合わせてアドリブで彫ることができるから。彼らはしばしば「埋まっていたものを掘り出しただけだ」といったことを語ります。彫刻とは単純にモチーフをそのままコピーするのではなく、彫刻師と素材との語らいのなかで生まれてくるものなんです。

 夏目漱石の『夢十夜』のなかにも以下のような一節があります。高名な仏像彫刻家の仕事姿を見て見物人たちが品評しあうシーンです。私はこの言葉がすごく好きで、私も日常のいろんなことに対してこうありたいものだと思っています。

 「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、
 「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。

 実際にはそんな簡単なことではありません。『夢十夜』の物語のなかでも主人公がマネをしようとして挫折しています。
 素材は均一なほうが、苦難はできるかぎり少ないほうが、自分の思いどおりにできるに決まっています。でも、多少の障害にぶつかったって、そのときどういうふうに進めば妥協なく自分らしくいられるか。そういう自分の置かれた状況に合わせた、現実に向きあいながらも理想を諦めない、逞しい考えかたを持てることこそ“自分らしい生きかた”っていえるんじゃないかなあって思うんです。

トピック2:なぜ如来像が1番偉いの?

 「なんか一番心が広そうな顔してる。2番とか1番はちょっと怖い顔をしてて。なんでも許してくれるのではないか」
 「我慢くらべみたいに一番服をお召しになっていないので、やっぱり誰よりも強いんだと思います」
 「えーと。1番から、次男、長男、母、父」

 この根拠ふわふわながら全員核心を突いているあたりが、いかにも仏像に親しむことができているって感じですね。理屈ではなく感性で正しく観察できています。

 花京院ちえりの言うように、実際如来は何事においても感情を揺さぶられません。
 電脳少女シロが言うように、如来は多少のことにはこだわりません。
 なぜなら如来とは仏教における究極目標に達した人のことだからです。
 仏教の目的は悟りを啓き、苦しみに満ちたこの現世から解脱することにあります。だから如来は現世での出来事くらいではもはや動じませんし、まして物質的な欲なんてものは一切持ちません。

 今回提示された4体の仏像のうち、如来は悟りを啓いた者。菩薩はそのための修行中の身。明王は人の煩悩を戒める存在。天部は異文化・異宗教の脅威から仏教を守る存在。菩薩と如来は(元)人間です。一方で天部と明王は神様です。
 普通に考えたら人間より神様のほうが偉そうな気もするのですが、神楽すずの予想通り、実際の仏教においては菩薩や如来のほうが位が高いとされています。
 これも仏教の究極目標が悟りを啓くことにあるからです。だから、悟りにより近い修行者のほうが偉く、現世の問題にかかずっている神様はそこまででもないんですね。

 仏教の大前提は自助努力です。衆生を救うために悟りを啓こうとする優しい人たちも歴史上たくさんいましたが、あくまで根本思想としてはひとりひとりが修業して自力での現世解脱を目指すことを推奨しています。
 だから、一番尊敬を集めるべき如来の像がどことなく威厳を纏っているのは当然のこと。そういう理屈ではない感受性に訴えかけてくる部分をきちんと感じ取れるのは、芸術作品との向きあいかたがわかってきた証拠といえるでしょう。

トピック3:如来像の特徴は?

 これ、32個も紹介するのはさすがに面倒なので省略します。細かい部分も含めると追加で80個もおかわりがあるみたいですし。
 要するに「これこそ仏像!」っていうそれらしい特徴をまとめたものですね。如来はそもそも仏教において理想的な人物像として彫られているので、これらの特徴を知るだけでも仏教の精神を学ぶことができるでしょう。

トピックex:奥深い仏像の世界

 神楽すずにプリクラ呼ばわりされた妙見菩薩は悪を打ち払う神様です。つまりトピック2で出てきた天部の1柱ですね。ピース刀印はオタクなら知っているかたも多いでしょうが、道教における印のひとつです。本来は仏教のものではありません。
 すなわち、妙見菩薩は異宗教から習合してきた神様ということになります。元々は中国における北斗七星の神様でした。

 物騒担当電脳少女シロとオカルト担当花京院ちえりが強い反応を示した即身仏は、一言でいうなら高僧のミイラです。
 自ら土の中に埋まって死ぬまで念仏を唱えつづけることで悟りを啓くという荒行なのですが、言葉でそう聞くより実際はもっとキツい修業となります。
 土に埋まる前に何十日も断食します。そして内臓が腐らないように防腐剤を飲みます。当然有毒です。そんなほぼ死にかけの状態でやっと土の中に入ります。拘束具などは特につけません。なので、お経を読むのに集中できず苦しんで死ぬと、仏像として使えないたいへん見苦しい死体となってしまいます。もちろん悟りを拓くことも失敗したとみなされます。
 こういう、いってしまえばひたすら面倒くさい自殺のようなものを粛々と行うことのできる精神力と、そして前準備や後片付けを手伝ってくれる弟子が必須なので、即身仏になれるのは基本的に長く修業を積んだ高僧だけとなります。

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