時が経っていても、離れていても、どこかで繋がっていたのかもしれないわ。
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(主観的)あらすじ
闇の本を探して校長先生がナシマホウ界にやってきました。闇の本の筆者であるクシィは校長先生の友達でしたが、闇の魔法の研究を始めてから彼は校長先生と距離をとるようになっていました。彼が亡くなった今も、校長先生の胸中にはその悲しみがしこりとなって残っています。
オルーバがプリキュアに戦いを申し込みます。彼は闇の魔法とリンクルストーンの力を利用して、封印された残りの眷属たちを復活させようと企んでいました。ところが彼の手下と思われていた闇の魔法つかいたちがそれを妨害します。彼らには彼らなりに別の目的があったのです。オルーバはプリキュアの力によって消滅します。
取り戻した闇の本の前文には校長先生への友情が綴られていました。クシィは危険な闇の魔法の研究を始めるにあたって、友達である校長先生を巻きこまないために距離をとっていたのです。時を超えて繋がる友情のかたちが、みらいの心を揺さぶります。
答え合わせ回。さてあなたの予想は当たったでしょうか。私ははずしました。クシィに限らず魔法界で闇の魔法の研究ブームがあったのも、リアンのメモに眷属の封印場所が書かれていたのも、オルーバが情報をばらまいていたからだったんですね。種がわかれば意外と色々なものがきれいに繋がるものです。闇の本の端々に人間味のあるメモが綴られていたことにもちゃんと意味があったんですね。
今回はみらいたちの日常には直接関係ない話だったので、彼女たちの見せ場はほとんどありません。私たち視聴者と一緒に見届ける立場に徹しました。彼女たちの外にも世界はあって、ジュンたちや勝木さんたちがそうだったように、クシィや闇の魔法つかいたちにも独自の物語があったのです。
それはみらいたちには関係ない物語。けれどそれはきっと手を伸ばせば届くところにある物語。だから私とあなたの物語をつなぎ合わせれば、きっともっと豊かな、新しい物語が生まれるはずです。クシィの手記が校長先生の瞳に涙を浮かべたように。プリキュアという名の「手を繋ぐ」奇跡の魔法はそういうステキな力です。
関係ない物語
闇の魔法つかい大活躍。最後の花道を飾る絢爛舞踏祭。
画面は大変盛り上がっていますが、その実みらいたちにはほとんど関係ない物語です。未だに名前すら知らないくらいですしね。まとめのセリフすらキュアフェリーチェに取られてしまって、今回のお仕事は決め技だけ。
けれど魔法つかいプリキュア!においては、その「関係ない」ことこそが重要なんです。
スパルダは目的のために手段を選ばない人物でした。魔法商店街やペガサス親子、妖精の里・・・周りのものを巻きこむ非道な戦いを躊躇しませんでした。
それでいてドクロクシーの意向に最も興味が薄かったのも彼女でした。リンクルスマホンを求めるドクロクシーに対し「ずいぶん必死だねえ」と他人事のような顔をしていましたね。
彼女の目的はドクロクシーやオルーバに仕えることではなく、ただ闇の世界をつくることだけでした。だからなんのかのいってもドクロクシーには従っていましたし、逆に信用ならないオルーバはとっとと裏切ってしまいます。
「私は私のために闇の世界をつくる。それだけさ!」 闇の世界の真の意味なんてどうでもいい。たとえオルーバが用意した筋書きだったとしても、「だからなんだってのさ」。スパルダの描く物語はオルーバのものではありません。スパルダのものです。
ガメッツは戦いそのものを目的とする人物でした。リンクルストーン・ガーネットと引き替えに、リンクルスマホンではなく決闘を要求するようなアホウでした。
彼は闇の世界にすら大して興味がありません。「闇の魔法の強大な力こそが、今の軟弱な魔法界やナシマホウ界を支配する」 闇の世界は戦いつくした結果としてついてくるものでしかありません。だから自由にさせてくれるドクロクシーには従い、戦いの邪魔をするオルーバは裏切ります。わかりやすい。
「己の拳を、力を信じて生きるのみ。それを笑うなら小僧、覚悟せよ!」 誰の掌の上で踊らされようと関係ない。実際に描くのは「我、ガメッツ」。ガメッツの描く物語はガメッツのものでしかありません。
ヤモーは忠義に生きる人物でした。ドクロクシー亡き後も復讐のためだけに戦う姿は、はーちゃんを失ったばかりのみらいたちの心に暗い影を落としました。
「ドクロクシー様、私に力をお貸しくださいませ!」 彼の目的はドクロクシーに尽くすことであって闇の世界ではありません。そのためかオルーバによる復活劇には呼ばれもしませんでした。ラブーは復讐が終わったあとで手足のように使おうと考えて復活させたようですが、仮に復讐が成就したとしても、おそらくはそううまくいかなかったでしょうね。
ヤモーの描いた物語はヤモーのものでしかありません。「君らの存在も目的も、すべて僕らのために生みだされたのさ!」 筋書きを用意した程度のヤカラがそれを自分のものだと主張するなら、とても看過しておくことなんてできません。
バッティは自分の目的を他人に依存する人物でした。悪くいうなら自分が無く、善くいうなら所属する組織に愛着を持っていました。
彼はドクロクシーの代弁をするヤモーを唯一疑った人物です。他のふたりが自分の目的のために行動していたのに対して、彼にはそういうものがありませんでしたからね。ドクロクシーの命令が虚構だったならば彼は己の存在意義すら失ってしまいます。実際オルーバの手で復活したとき、命令をくれる主君を失っていた彼は自分の存在意義を見いだせずにいました。
同時に、彼はスパルダやガメッツの最後を見届けた人物でもあります。彼は自分の仲間がそれぞれに自分とは違う行動原理を持っていたことを知り、それでいて同じ目的のために戦っていたことを知っています。「ドクロクシー様がこの私にお言葉を。もう迷いはありません。ガメッツ。スパルダ。お前たちの力、貸してもらいます」
「我らの生き様、茶番などと言わせておくものか!」 スパルダの描く物語もガメッツの描く物語も、確かにありました。バッティにはそれを「虫けら」と言わせておくことができません。それらを否定されるということは、すなわち彼らの仲間である自分の物語すらも踏みにじられることになります。証明しなければいけません。バッティは疑いようもなく、バッティだけの物語を描きあげたと。
彼らの物語は彼らのものです。上下の別なく、善悪の別なく、それぞれがそれぞれに。決してオルーバのように嘲笑っていいものではありません。たとえ自分とは何の関係もない物語であったとしても。だってその物語には心が通っているのだから。
「闇の魔法の欠点はその中に人間の心があること。人間の弱さや迷いがムホーの力の再現を不完全なものにしてしまった」 確かに欠点です。ペガサス親子のときは親子愛によって闇の魔法が分離してしまいました。ドクロクシーの絶大な力は内に取り込んだはーちゃんの心によって瓦解してしました。
それでも心あるものは強いです。それらは互いに手を繋ぎあえる可能性を持っているのだから。どれだけ力が強くてもひとりでしか戦わないムホーとは違い、魔法はみんなで手を繋ぐことで無限に新しい力を生みだすことができます。
ムホーのマネをしてひとりで戦ったドクロクシーは、ふたりで戦ったプリキュアに敗れました。
オルーバのドンヨクバールは、バッティを中心に闇の魔法つかいたちが力を合わせたモットヨクバールに敗れました。
「弱さや迷いだけじゃない。心には強さや一途な思いがあるのです。そこから生まれる魔法。それはあなたたちの想像を超えた力になる!」
すべてのひとはそれぞれに物語を描いています。どこかの物語の主人公とは関係なしに。ジュンやケイやエミリーや勝木さんやまゆみや校長先生やクシィやスパルダやガメッツやヤモーやバッティや、その他たくさんの物語はみらいたちと関係なく、みらいたちから見えないところで、それぞれに描かれています。だからステキ。
「ヤバいよ。趣味バラバラ、ノリチグハグ、性格真逆。その違いがステキだって今ならいえる」 なぜなら、違えば違うほどに、手を繋いだとき全く新しい物語が生まれるから。新しい伝説「リンクルストーン・アレキサンドライト」はそうして生まれました。
ベタな言い方をするなら 1+1 が2にならないってことです。もっと大きくなります。試すたびに変わります。だからステキ。
私とあなたが違うということは、たったそれだけでこんなにもステキなことなんです。
歌は魔法
別に校長先生は歌いませんけどね。
校長先生とクシィの関係は、春映画のソルシエールと先生のリフレインです。理由はわからないけれどすれ違ってしまった。すれ違ったまま死別してしまった。もはや本意を確かめる術はなく、残された者はただ永遠にすれ違ったままであることを嘆くだけ。・・・そんなふざけた唯物論的世界観にノーを突きつける物語です。
死んだ人と仲直りすることはできません。物理的に手を繋ぐことなんてできません。けれど思い出に向き合うことはできます。心を繋ぐことはできます。
死んだ人に会うことはもうできないけれど、クシィが(あるいは先生が)紡いだ物語は、校長先生の(あるいはソルシエールの)心の中に残っています。思い出を振りかえることはできます。思い出の中の彼(彼女)となら、もう一度手を繋ぐことだってできます。闇の本の前文を(あるいは子守歌を)きっかけにして。
手を繋いだなら、そこには新たな物語が生まれます。
急に距離を取るようになった悲しい物語を、友達を巻きこまないようにという思いやりの物語が上書きします。いつまでも究極の魔法を教えてくれなかった悲しい物語を、はじめから繰り返し教えてくれていた暖かい物語が上書きします。死に別れた頃には存在しなかった物語が新しく生まれます。
「時が経っていても、離れていても、どこかで繋がっていたのかもしれないわ」 手を繋ぐのに時間も距離も関係ありません。物理的に手が届かなくたっていい。それでも手を繋ぐ方法はどこかにあります。ふたりが互いに手を差しのべあっている限り。
こうしてひとりぼっちでヒーローを演じていた校長先生の孤独は癒えました。けれど今回の主題はそこではありません。
だって魔法つかいプリキュア!はみらいたちの物語なんですから。校長先生の物語は「関係ない」。
「関係ない物語」を見届けて
「時が経っていても、離れていても、どこかで繋がっていたのかもしれないわ」 時間と距離を超えて友達と手を繋いでみせた校長先生の姿は、みらいたちに大きな衝撃をもたらします。
「離れて、いても」 とりわけみらいにとっては距離の問題が重要です。「悲しいお別れはもう嫌なの」 彼女はそう言って、別れそのものを極度に恐れていますから。そこにお婆ちゃんが距離は関係ないと言い、校長先生がその事実を証明してみせたことは、彼女にとって驚くべき全く新しい世界観です。
実際問題、生涯別れずにいることなんて不可能です。どんな友達であれそれぞれの生活があって、いつかは別々に暮らすことになります。たとえ夫婦のような親密な関係にあってすら、死別という別れを逃れることはできません。みらいもそれはなんとなく理解していることでしょう。なにしろはーちゃんの件がありましたからね。
別れそのものを避けることは不可能です。ではどうすれば「悲しいお別れ」に打ち勝てるのか。その答えが今回校長先生が示したクシィとの関係になります。なにしろ死に別れてすら嬉し涙を流せるんですからね。悲しくないお別れはあります。物理的に別れてしまっても、心は別れずにいればいいんです。
プリキュアの先達も3年前に同じ答えを導いていましたね。「離れていても、離れはしない」と。
秋映画での彼女はそれができていました。死んだモフルンの意を汲み取って、ひとりでも前に歩き続けていました。だから大丈夫。あなたなら必ず「悲しいお別れ」を乗り越えられる。
「平気よ。もしかいつか、離ればなれなる日が来ても。輝いてる、繋がってる、心はいつも」
今回みらいたちの立場はほぼ傍観者でした。闇の魔法つかいたちの物語も、校長先生とクシィの物語も、彼女たちには何の関係もありません。
けれど、だからといって今回の物語が彼女たちにとってどうでもいい話だったかというと、そんなわけがありませんね。彼らの物語を見届けて、みらいたちはまたひとつ成長しました。
物理的に手を繋ぎあうことだけが「手を繋ぐ」ことではありません。自分とは別の他者を認め、その思い、大切なもの、優しさに触れること、心を通じあわせることだって「手を繋ぐ」ことです。
そのあたりはまあ、言わずもがなですね。私たち視聴者が毎週日曜朝8時30分にしていることですから。
今週の魔法文字
クシィの板書:「MAHO NO BUNRUI TO OUYOU」「MIZU」「HONO」「HUKANOU TO OMOWA?ERUMO OUYOUNITORI KA-」「PAFE」
「魔法の分類と応用」「水」「炎」「不可能と思われるも、応用にとり(より?)・・・」「パフェ」
クシィさん、闇の本はあんなに癖字だらけなのに、板書はまるで活字のよう! 今さらパフェにはツッコミませんよ。(ツッコんでる)
水と炎を掛け合わせてどうして傘・・・? ああ、第33話でリアンお父さんがキュアマジカルを守ったときに使った魔法のことですね。一見まどろっこしい防御術に見えて、実は魔法界ではちゃんと体系化された技術だったのでしょう。
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