「プリキュア」というゲーム生成ルールの構造について

 今週は私用によりリアルタイムでのプリキュアの視聴ができないんです。悲しい。
 というわけで、代わりというかなんというか、前々から考えていたしょうもないネタを書き殴ることにします。

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※ 偉そうなことを書いておきながら私は業界人じゃありません。この記事の内容はおおむねただの寝言です。

「ゲーム生成ルール」私感

 「ゲーム生成ルール」という概念についてはこちらのインタビュー記事を参照してください。
「小説の大部分はAIに書かせてます」――AI時代のストーリー創作術を、『428』イシイジロウ×『刀剣乱舞-ONLINE-』芝村裕吏が語り合った! – 電ファミニコゲーマー
 ある程度の誤解を許容して言い換えるなら、シナリオ制作における「フォーマット」に近い概念です。あらかじめ物語の大雑把な構造を決めておくことで、その構成材を入れ替えるだけで無限にバリエーションを生み出せるようにする仕組みのことです。

 ショートケーキを思い浮かべてください。
 プレーンのスポンジ生地に生クリームを挟んでイチゴを載せたら、定番のイチゴのショートケーキになります。
 ベースはそのままデコレーションを豪華にしてネームプレートを乗せると、バースデーケーキに変わります。
 生地はそのままクリームをバタークリームに変えると、今度は昭和の思い出バターケーキ。
 クリームを甘酸っぱいムースにして色とりどりの果物をトッピングすると、オシャレなフルーツタルト。
 生地をココア生地にしてチョコレートクリームでデコレーションすると、ほろにがチョコレートケーキ。
 エスプレッソに浸したスポンジにマスカルポーネクリームを挟むと、ちょっぴり大人の味のティラミスになります。
 いずれもスポンジ生地とクリームという基本の組み合わせは同じですが、スポンジやクリームの組み合わせを変えるだけで無数のバリエーションを生みだすことができます。
 これが(私なりの言葉で解釈した)「ゲーム生成ルール」の基本概念です。

 この概念があればどんなことができるのかといえば、その利点はいくつかありますが、第一に挙げられるのはコスト削減です。金銭的コストだけの話ではありませんよ。
 ひとりの作家が生涯に生みだすことのできるアイディアの数は有限です。人間は自分の人生経験を踏まえた範囲でしか創作できないからです。たとえどんな突飛なファンタジーにも、その根底には作者の経験や思想が必ず反映されているもの。ゆえに、ひとりの作家が長く創作活動を続けていくと、彼の持つアイディアはいつか必ず枯渇してしまいます。
 「ゲーム生成ルール」はその枯渇をある程度躱すことができます。なにせ一度アイディアを出しさえすれば、あとはその中身を入れ替えるだけで次から次へと新しい物語が創作できるんですから。コスト削減というと手抜きのイメージが付きまといますが、ひとりの作家のアイディア数が本質的に有限である以上、作家が生涯にわたって創作をつづけるならこういうかたちでの省力化は不可欠です。
 『Fate』シリーズが好例ですね。多様な人物、舞台を擁するこのシリーズですが、物語の発端には必ず聖杯戦争が据えられています。歴史上の英霊を集めて戦わせるというアイディアひとつで『Fate』シリーズは無数に物語を繰り返し、今では日本のゲーム文化を代表する一角にまで成長しました。

 第二に、作家が独自色を発揮することができます。
 創作は“カブリ”との戦いです。全ての作家が同じ時代、同じ文化背景を持って同時に創作活動をするのですから、当然多くの作家が似たようなアイディアを出してしまいます。こうなるとせっかくの面白い作品も読者にとっては新鮮味の薄いもの、退屈なものという印象になってしまいます。
 ですが一度画期的な「ゲーム生成ルール」のアイディアを生みだしてしまえば、その発明者は作家として一生安泰です。ひとつのアイディアでいくつも物語を描けるならば、それは“カブリ”ではなくひとつの“ジャンル”として認識されるからです。発明者はパイオニアとして生涯尊敬されるでしょう。
 『ドラゴンボール』のトーナメント戦や『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンドがこれに当たりますね。これらの作者がこれを発明して以来、発明者本人も他の作家も数えきれないくらい似たような構造を持つ物語を描いてきました。ですが最初にこのアイディアをかたちにした両人はやはり別格として今でも尊敬を集めています。

 第三に、創作活動への参入障壁が低くなります。
 上で「創作は“カブリ”との戦い」だと書きましたが、実際のところ一切カブリのない創作を行える作家はごく少数です。むしろ他人のアイディアを盗んで換骨奪胎している作家の方が多数派でしょう。それはそれで悪いことではありません。
 上でも書きましたよね。優れた「ゲーム生成ルール」のアイディアに追従するのは“パクリ”ではなく“ジャンル”だって。たくさんの人が創作活動に参加することは良いことです。たとえその作家たちが独自に画期的なアイディアを生み出せない人々であっても。だって、単純な話それだけ私たちが読める作品が増えるということですから。
 一時期流行った『やる夫スレ』や、なろう系の『異世界転生もの』、RPGツクール製の『追いかけっこ型ホラーゲーム』などの隆盛はまさに「ゲーム制作ルール」のたまものです。先人が生み出したフォーマットがあったからこそ、無名の新人たちが続々と人気作品を発表する機会を得ました。
 余談ですが、ジャンルが飽和してフォーマット外しを求められるようになるとそのジャンルは廃れます。『やる夫スレ』は御三家が登場しなくなり、主人公もやる夫じゃない作品が増え、必要に応じて自作AAをつくることが当たり前になった頃、一気に存在感を失ってしまいました。お約束が通用しない分、作者にとっても読者にとっても敷居が高くなりすぎたんです。

 第四に、複数人での分業が可能になります。
 ようやくプリキュアの話題に近づいてきました。これについてはあなたもわかりますよね。昭和の昔から続く、テレビアニメ制作の基本スタイルです。
 ぶっちゃけドラえもんがいる作品はとりあえず『ドラえもん』になるんです。脚本家が違おうが作画監督が違おうが声優が違おうが、ドラえもんがひみつ道具を出してのび太くんが何かトラブルを起こせばそれだけで『ドラえもん』らしい物語になるんです。あれはちょっとやそっと制作体制が変わった程度じゃ壊れないくらい強固な「物語生成ルール」ですから。
 20分ちょっとのアニメを週1話、年間50話程度つくるなんて個人では絶対に不可能です。分業を可能にすることによってその壁を乗り越えたのも「物語生成ルール」の力。

なぜプリキュアは14年間枯渇することなく新しい物語を描きつづけられたのか

 さて、「物語生成ルール」という概念の持つ機能をひととおり確認したところで、やれやれようやくプリキュアシリーズにこの概念がどう組み込まれているのか見ていくことにしましょう。

 プリキュアシリーズは毎年制作スタッフが大きく入れ替わります。初期からずっと参加しつづけているスタッフなんて数えるほどしかいません。通常アニメ制作の最高責任者であるはずの監督すら入れ替わるくらいです。以前はその代わりにプロデューサーが自分のカラーを作品に反映させていたのですが、近年はその役職すら固定されなくなりました。
 にもかかわらず、どのシリーズ作品もちゃんと『プリキュア』として認知されています。プリキュアはそれだけ強固な「物語生成ルール」を持っているからです。

 一見でわかる要素としてはもちろん“変身ヒロインもの”であること。
 フリフリの衣装を纏ったかわいらしい女の子たちが怪物相手に泥臭い格闘戦を繰り広げてみせたことは、当時の子どもとオタクたちの度肝を抜きました。以来、女の子がフリフリの衣装を着ていればとりあえずその作品は『プリキュア』だろうと認知されるようになりました。
 これは青いずんぐりむっくり=『ドラえもん』並みに強力なアイコンです。どこかの右京さんが一目で推理の方向性を定めたように、静止画一枚でわかってもらえるキャラクター性は、ちょっとやそっとの変化では揺らがない『プリキュア』らしさをしっかり担保します。

 それから日常パート→戦闘パートという流れがきっかり別れているのも特徴ですね。
 プリキュアたちが日常でちょっとしたトラブルに遭い、色々と試行錯誤してもうまくいかず、そこに悪者が現れて煽り、それに反論するかたちでプリキュアが答えを得る。そういう起承転結がプリキュアのフォーマットには組み込まれています。例外は回をまたいで繰り広げられる大ボス戦くらい。
 ある程度話の流れが決まっているというのはシナリオ作家にとって都合がいいものです。誰がどんな話を書いてもそれなりに全部同じ人が書いたような統一感を得られますし、タイムスケジュールを構築する手間が軽減されるので創作する敷居自体も低くなります。
 同じヒーローものでも、男児向けの特撮やバトルアニメではこういう特徴はあまり見られません。おそらくあちらはバトル要素が物語の中枢を担っているため、物語の段取りを固定化すると不都合が生じてしまうんでしょうね。似たような構造を持っているのは『アンパンマン』くらいでしょうか。あとバトルではなくギャグが主軸の『ヘボット!』。

 また、プリキュアには1年間の物語全体を貫く全体テーマと、プリキュアひとりひとりに課される個別テーマがそれぞれ組み込まれています。このふたつには全体テーマを具体的に語ろうとすると個別テーマになり、個別テーマとして語られたことを総合すると全体テーマになる、といった相関があります。
 この2種類のテーマが、ビジュアルイメージもタイムテーブル的なフォーマットもかっちり固定されている『プリキュア』というシリーズ作品に多様性を生みだします。スポンジとクリームを変えるだけで様々なケーキのバリエーションをつくれるように、プリキュアも毎年テーマを変えることで、それぞれ全く違う印象の作品に仕立てられています。
 全部『プリキュア』でありながら、同時に『ふたりはプリキュア』だとか『フレッシュプリキュア!』だとか『ドキドキ!プリキュア』だとか、それぞれ個性豊かでもある。この二面性もプリキュアシリーズの強さのひとつです。

 全体テーマと個別テーマはシリーズごとの個性を決定するだけでなく、別の機能も担っています。1年間という長いスパンにおいて、各話数ごとに何を語るべきかをザックリと決めてくれるんです。
 例えばプリキュアが5人いた場合、個別テーマをそれぞれ5回に分けて語るだけで25話も消費します。これだけで年間話数の半分です。これに加えて全体テーマはもっとしっかり話数を割いて語らなければいけませんし、一方夏休みシーズンは旅行に出かける子どもたちに配慮して重要な話を避けなければいけません。もちろんおもちゃの販促にも時間を使いますし、不意の放送休止に対応できる柔軟性も要るし、できることなら季節の行事も物語に取り入れたいところ。・・・となると、これらを年間にバランス良く振り分けるだけでおおむねのスケジュールに見通しがつくはずです。
 各話のシナリオ担当者はフォーマットだけでなく、その話数で語るべきテーマもあらかじめ指定された上で物語を創作しなければいけません。かなりがんじがらめな縛りになります。ですが人間というのは不思議なもので、ある程度までなら縛りがきつい方が案外すんなり創作できるものなんですよね。やる夫とかなろうとか、ネット上の創作家たちがやたらと狭い流行ジャンルに集合したがることからもわかるように。
 加えて、縛りが強いがゆえに分業した各作家の個性は希釈され、全体としてはシリーズ構成をしたひとりの個性のもとで印象が統一されることにもなります。「ゲーム生成ルール」の元では創作効率が増強される一方で、ひとりひとりの作家性は良くも悪くも控えめにされます。プリキュアのような分業連作体制ならどちらかというと良い方に傾く作用だと思いますが。

 (いつものごとく)とりとめのない語り口になりましたが、まとめると『プリキュア』というシリーズは、まずキャラクター性や1話あたりのフォーマットというカッチリした枠組み(『Fate』でいうところの聖杯戦争システムに相当)のなかで、テーマ性という構成材(『Fate』でいうところの舞台や英霊に相当)を毎年入れ替えることによって、シリーズ全体としての「ゲーム生成ルール」を機能させています。
 さらに各年レベルで見ると、今度はテーマ性自体の生みだすスケジュールが枠組みとなって構造をカッチリ固め、そこに毎話異なる語られるべきテーマ(ないし毎話異なるスタッフ)を放り込むことで、こちらでも「ゲーム生成ルール」を働かせています。

 プリキュアは二重構造の「ゲーム生成ルール」によって支えられています。プリキュアが14年間新鮮な物語を供給しつづけられているのは、スタッフの奮闘ももちろんのことながら、長い歴史のなかでシリーズ自体を優れた「ゲーム生成ルール」の構造に改良しつづけてきたおかげでもあります。
 実のところ初期の頃を見返すと、現在のように方法論がカッチリ完成していないことが見て取れます。全体から俯瞰してあからさまに関係ないテーマを扱っていたり、新ジャンルを開拓したばかりの手探り状態で実験的な要素を盛り込んでいたり。亀の甲より年の功ともいいますが、いやはやまったく、長期シリーズはダテじゃありませんね。
 プリキュアシリーズは毎年、毎週、不死鳥のごとく生まれ変わり、いつも変わらず私たちに新鮮な物語を供給しつづけてくれるでしょう。きっと、これからも。

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