異方存在ヤハクィザシュニナの思想に一部賛同し、私は私の思考の推進を開始します。
※ この考察は第6話時点のものです。
私にはSF的な素養はありませんが、だからといってわからないことをわからないままに放置するのは異方的な態度じゃないと思います。異文化交流のためにも、試しに思考を止めずつらつら推察を書き綴ってみましょう。
ちゃんとした考察(※ 私基準)については別記事に改めてまとめるつもりなので、こちらでは枝葉の問題についていくつか拾っていくことにします。
1.当初、なぜ旅客機のライトはどこにも届かなかったのか?
「視界もゼロです。ライトは・・・どこにも届いていませんね」(第2話)
カドは巨大といってもしょせん2km立方しかありません。航空機用のライトが何も映さないというのはおかしい話です。よしんば壁まで届かなかったとしても、床くらいは視認できるはず。
これについてはとりあえずの推測を出すことができます。
「電磁放射線なし。粒子放射線なし。ドップラー?」「返りません」「サーモは?」「わかりません」(第1話)
カドは人間の持ちうるあらゆる観測手段を遮断することができると思われます。パッシブなものはもちろん、ドップラーのようなアクティブなものすらも。戦車砲というきわめてエネルギー量の大きい物理アプローチすら意に介しません。
人間の目は光学的な観測器です。対象物が反射する光のスペクトルを読み取り、それを色や形の情報として解釈する仕組みになっています。
カドがあらゆるアクティブな観測手段を遮断するというなら、可視光を照射して対象物を光学的に観測する装置であるライトが無効なのは当然ですね。
ただし、この推測には致命的な穴があります。
簡単な話、カドは外部からなら目視できるんです。不思議なことに。
おまけにご丁寧なことに、自衛隊の投光器の光もきっちり丸い形に映っています。
もしも自然光や投光器の光を反射して色や形を読み取れているというなら、原理的に同じことをしているはずの旅客機のライトを用いても観測できなければおかしい。
「てかこれ何が見えてるの? ホントに可視光線?」「可視光線でなければ見えんだろうな」「当たり前のこと確認するって大事ですよね!」(第1話)
いやはやホント大事なことですね。不幸なことに品輪博士は旅客機のライトが何も映さなかったことを知りません。一方で真藤や旅客機機長は品輪博士のような科学的な視点を持ちません。カドの内側と外側で起きた矛盾を、劇中の誰ひとりとして観測できていないわけです。
“当たり前”が通用しない「異方」を相手に、不十分な観測だけで「宇宙」の“当たり前”を当てはめてしまっているんです。
じゃあ結局どうして旅客機のライトが何も映さなかったのかというと・・・その答えを推測するには別の視点が必要になります。保留して、ひとまず次の問題を考察してみましょう。
2.なぜヤハクィザシュニナは全裸で現れたのか?
人型になるのはわかります。私たちと同じ人間の形をしていた方が、きっと私たちはコミュニケーションを図れる相手だと認識しやすくなるでしょうから。人型はヤハクィザシュニナの目的にとって適切です。
ですがどうして全裸? 心臓の形成からスタートして一瞬で成人男性の身体を完成させたというのに、どうして全裸で止めちゃったの? 人類とコミュニケーションしたいなら、ちゃんと服を着た方が円滑に事が進むでしょうに。
当時のヤハクィザシュニナが人類の常識を知らなかったから? それはもちろんあるでしょう。ですが目の前にスーツを着た真道がいるというのに、あえて彼と異なる外見を形成する理由が思いつきません。
異方には服を着る文化がないから? まさか。ヤハクィザシュニナの身体はたった今この瞬間に構築されたものです。彼の異方での形態がどんなものかはわかりませんが、少なくとも地球人の姿形で全裸になる習慣なんてあるはずがありません。
真藤はこんな些末な問題にこだわる人間ではないので、こちらの謎についても劇中の人間は何の答えも出していません。私たちが推測するしかありません。ヤハクィザシュニナの全裸に並々ならぬ関心を示す、我々、視聴者が。
推測するためのヒントになりそうなものは・・・ヤハクィザシュニナが姿を現したきっかけくらいでしょうか。
その直前、真藤は旅客機を降りてカドに触れていました。おそらくこれが人類と異方のファーストコンタクトになったものと思われます。カドに取り込まれた人々は旅客機のなかにいて直接接触していません(窓から侵食してくる演出があったのでこの辺ちょっと微妙ですが)し、カドが現れたのは羽田空港滑走路なので、外部にも政府のコントロールを外れて不用意に接触しようとした人間はいなかったはずです。
おそらく異方存在ヤハクィザシュニナは、真道がカドに触れたこの瞬間、初めて人類について一定の情報を得たのだと思われます。紙の本をわざわざ自分の手でめくって読む人物ですからね。人類についての情報を得る手段に限っては、意外と人類の想像の及ぶ範囲の手段でなければ難しいのかもしれません。
そこら辺でまた色々と疑問が湧いてもくるのですが、それはともかくとして今重要なことはひとつです。登場時点でのヤハクィザシュニナの人類についての情報源が、真道幸路朗ひとりしかなかったという可能性です。
従って、とりあえずの仮説ではありますが、ヤハクィザシュニナが全裸で現れたのには真藤の精神状態や知識、世界観(、あるいは趣味嗜好)などが影響していると考えることができます。
彼が身体を構築していく姿を見て、真藤はつぶやきました。
「俺の見ているものは何だ? 超自然的な現象なのか? 人類の知らない未知のテクノロジーなのか? それとも・・・本物の神なのか?」(第2話)
真藤はこのとき、ヤハクィザシュニナ(及びカド)に対して神秘性を見出していたということです。ヤハクィザシュニナはそんな真藤の精神情報を取得したがために、まるで宗教画に描かれる神々のような出で立ち(もちろん全裸のことです)で現出したのかもしれません。
この見方を補強する根拠のひとつとして、この少し後、ヤハクィザシュニナがまるで仏像のような特徴的なポーズで腰掛けている点が挙げられます。
会談の場で異方を「高次元世界」と言い換えていることといい、ああ見えて真藤の言動には全体的に異方に対する畏敬の念が感じられます。実のところ私としては正直あまり好ましくない姿勢に思えるのですが、そのあたりは別記事で改めて。
さて、以上を踏まえると1つ目の疑問『当初、なぜ旅客機のライトはどこにも届かなかったのか?』に対して新しい仮説を立てることができます。
異方存在ヤハクィザシュニナは真道幸路朗との接触をもって初めて人類の情報を取得しました。これはカドを通じて行われたもので、すなわちカドそのものにとっても人類とのファーストコンタクトになります。
つまり、このときカドは「可視光を反射(ないし自発)することで人類から観測されることが可能になる」という情報を初めて得たのです。
真藤がカドに触れた瞬間、カドがまばゆく輝き始めます。あたかも人類に観測されるために生まれ変わったかのように。あるいは真藤が指先で観測したカドの姿を全体に投影したかのように。
外観の方で目視が可能だった理由はよくわかりませんが、考えられることとしては、人類の情報を獲得する以前に自然光の性質についての情報を自然界から取得していたから・・・あたりでしょうか。
このように、ヤハクィザシュニナ及びカドには、情報を獲得し次第、対象存在(宇宙における人類)の“当たり前”に準じた形での適切な姿形を形成する性質があると考えることができます。
この仮説を前提にすれば、カドの他の奇妙な性質についてもいくつか説明がつきます。
3.カドにはどうして地面が必要なのか?
カドはこの宇宙の物質に対して不可侵になることができます。狭山湖への移転の際、軌道上の家屋を取り込むことなくすり抜けてみせました。それなのにどうして地面にだけは常に接触していなければいけないのでしょう。
簡単なことです。この宇宙のあらゆる存在が全てそういうルールのうえで存在しているからです。カドは可能な限り人類の知る“当たり前”に準じた性質を保とうとします。私たちは重力の束縛を一切受けない物質を知りません。カドはそういった人類の“世界観”に従います。
4.カドはどうして小さくなれないのか?
来訪したときには小さい所から始まって巨大化する形で現出したというのに。
これも人類が知る限りあらゆる物質は外的要因なしに質量変化しないからですね。
「小さくはなれないんですか?」「望ましくない。この位置が最適だ」「位置というのは三次元的な座標ということ?」「21%。あなたたちとは次元の理解が異なる。位置の共通認識は難しい」(第6話)
ヤハクィザシュニナが言いたいのはおそらく、3次元空間の知覚では認識できないn次元軸上の座標を動かすと仮定した場合のことでしょうね。彼が観測できる高次元空間では物質の大小を司る(というか3次元空間認識では大小というかたちで観測されるというか)座標軸があると。
しかしその座標軸を人類は観測できません。コミュニケーション中の相手にとって観測できない移動を行うと、互いの共通認識に齟齬が生じてしまうので、なるべくならその手段は避けたいと言っているわけですね。
本来は可能なのにやらない。この点から見てもヤハクィザシュニナとカドは意図的に人類の観測域にそぐう形態をとっていることがわかります。彼は人類とのコミュニケーションを図るために異方から宇宙へやってきたゲスト。郷に入っては郷に従えの誠実な態度で人類と対等に接してくれています。
5.どうして戦車砲は防がれたのか。
最後にちょっとロマンチックな考察を入れます。
カドは出現時に旅客機を取り込み、移転の際には家屋をすり抜けました。それなのにどうして戦車砲は貫通することなくその場に落ちたのでしょうか。
これも答えは簡単。
「車両防護は? ――戦車砲も効かないバリアか」(第6話)
単にヤハクィザシュニナがカドの基本的性質と別個にバリアを所有しているからです。
だとすると、じゃあどうしてわざわざカド全体にそんなバリアを張っているんでしょうか? そもそもカドは物質を取り込んだりすり抜けたりできるのに。
同様に、人類はヤハクィザシュニナの身体に接触できるはずなのに、品輪博士が彼の手に噛みついたときだけはカド同様のバリアが発生していました。どうしてでしょう?
私はその答えをこう想像します。すなわち、“人類の害意を浴びたくないから”。
ヤハクィザシュニナは人類とコミュニケーションを取るために、はるばるこの宇宙までやってきました。その真意はまだわかりませんが、少なくとも人類に対して害意はないようです。彼は人類が良い方向に進むよう願ってくれています。
そんな相手から攻撃されるのって、当然悲しいじゃないですか。好きな相手から嫌われるのって。彼がカドにバリアを張る理由は、もしかしたらそんな個人的な感傷によるものなんじゃないかな。なんて。
枝葉の問題についての考察はとりあえず以上。
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