お婆ちゃんの言葉も大切。でも、今度はバトンを受け取った私自身が、生きて、感じた言葉を届けなきゃいけないんだ!
↓dアニメで全話配信中!↓
↓YouTubeチャンネル限定コンテンツも配信中!↓
「お料理なんてしなくていい!? おいしい笑顔の作り方」
Lead Character:がんばったひと
ゆい
Major Happening:大きなできごと
ゆいの友達のわかなが、自分のために無理してまでアスリート用の食事をつくってくれるお父さんのことで悩んでいた。ゆいはいつものようにお婆ちゃんの言葉を引用して諭そうとしたものの、その言葉ではわかなに納得してもらえなかった。
お婆ちゃんの言葉も万能ではない。その現実を突きつけられたゆいは悩み、ときには自分自身の言葉で語ることも大事だと気づいた。
料理が好きだったお婆ちゃんならこんなこと考えもしなかったかもしれない。けれど、ゆいはわかなのお父さんの負担軽減のため、なごみ亭でアスリート向けの定食を出すことを提案するのだった。
Sub Questions:小さなできごと
お父さんの手づくりごはん
わかなは将来有望なサッカー選手であり、大成するためには身体づくりに資する特別な栄養バランスの食事を必要としていた。わかな自身もお父さんもそのことについての理解はある。しかし、肝心の調理にかけられる時間的余裕が足りていなかった。
わかながお父さんを気遣うことは、実質的に自分とお父さんとの夢を諦めることに等しかった。かといって現状維持ではお父さんが身体を壊してしまうのも目に見えていた。
親子愛だけではどうしても解決することができない、喫緊かつ特殊な事例だったといえる。
「ごはんは笑顔」
たくさんの人が褒めてくれることからもわかるとおり、ゆいのお婆ちゃんが残した言葉は普遍的で、たくさんの人の心に染みるステキな考えかたである。
ただし、ナルシストルーや今回の事例のように、それはすなわち全ての場合にとって適切だということにはならない。個別具体論は別途、都度都度に対応していくのが本来あるべき考えかただろう。
今回、ゆいはお婆ちゃんとは異なる方法論で目の前の問題を解決し、わかなに「ごはんは笑顔」だと言わせることができた。
「ごはんは笑顔」はゆいにとってお婆ちゃんの言葉のなかでもひときわ大事にしている言葉。これをお婆ちゃんとは違う方法論で実現できたのだから、この言葉はもはやただの受け売りなどではない、ゆい自身の生きた人生観になっているのだと改めて確認できる。
Battle Depiction:どんなバトルだったか
お婆ちゃんからの受け売りだけでは解決できない問題もあると知り、悩みすぎてゆいの体に不調が表れていた。
セクレトルーの真に迫った怨嗟の言葉を聞いてゆいの悩みは解決。自分自身の体験から生まれた言葉はこんなにも胸に響くのだと理解し、ゆいは自分なりの言葉を模索しはじめることになる。
なお、バトル自体もきわめてゆいらしく脳筋正面突破でカタをつけた。
I’m curious !:気になるポイント
フェンネルとジンジャーの関係
めちゃくちゃいいタイミングでフェンネルが猫仮面に執着しうる根拠がお出しされてきたな!
アスリートとして才能を見出された子がいる家庭にとって、食事は特に頭が痛くなる問題のひとつなんだそうです。
単純に高タンパク高カロリーな食事を取らせればいいというものではないからです。アスリート向けの食事は本来、個々の体質や体調、予定される運動強度に合わせて日々の栄養を細かく調整したものであるべきで、これはコンビニ食や外食でなかなか代替できるものではありません。「ジャンクフードだから」などではなく「オーダーメイドである必要があるから」という部分にこの問題の難しさの本質があるんです。
本人が栄養学の知識を習得しているなら組み合わせの工夫で柔軟に外食を取り入れることもできましょうが、中学生くらいのお子さんにそこまで考えて自己管理しろというのは酷な話。必然、周囲の大人がしっかりとした知識に基づいて食事の管理をするべきという話になるでしょう。
アスリート以外の子どもは多少食事に無頓着でもちゃんと大きくなるんだから、家庭環境的に難しかったらそこまでシビアにならなくてもいいんじゃない? という向きもあるでしょうが、プロアスリートを目指すとなるとその子は競争相手がごまんといる環境に晒されることになります。同じくらいの努力と研鑚を積み重ねてきたライバルたちのなかには、当然不自由ない家庭環境で育った子もたくさんいるはずです。本人の努力と関係ないところで優劣が生じてしまうのは、ねえ。親からするととてつもなくやりきれない話ですよ。
わかなのお父さんがあそこまで必死に食事に手間をかけていた背景にはそういった事情があります。
ただの愛情表現として手づくりにこだわっていたわけじゃないんです。子どもの将来を真剣に考え、夢を心から応援しているかぎり、合理的に考えてあそこは絶対に手を抜けない部分でした。
わかなもそれはわかっていたんでしょうね。だからお父さんの体をどんなに心配していても、お弁当づくりをやめてほしいとは口が裂けても言えなかったんです。
その点、なごみ亭が特別に食事管理を支援してくれるという申し出はお父さんにとって本当にありがたいことだったことでしょう。普通はあんな社会支援めったにありませんよ。
「お料理なんてしなくていい!?」というサブタイトルどおり本当に料理しなくていい方向に持っていった今話の展開は珍しいものでしたね。『Go!プリンセスプリキュア』第37話でクラス演劇の代役を断ったとき以来の変化球だったんじゃないでしょうか。それだけに、今回ゆいが示した思いの本気さが伝わってきました。
今話はゆいが、お婆ちゃんの教えてくれた「ごはんは笑顔」を実現するためにこそ、お婆ちゃんとは違った方法論を考える物語。
case by case
「お婆ちゃんってやっぱりすごいなあ。私、お婆ちゃんに教わったこともっともっと大事にしていきたいんだ」
今日の晩ご飯はお婆ちゃん直伝おいなりさん。
前話でゆいはお婆ちゃんからバトンを渡されていたことを自覚しました。お婆ちゃんの残した言葉にはどれもひとつひとつ、お婆ちゃんが未来の世代に託した思いがこもっています。
どれも大切に継承していきたい。だって、お婆ちゃんは本当にすごい人。お婆ちゃんのようにやれば色々なことがうまくいく。おいなりさんひとつ取ってもこんなにおいしいレシピを考えられる。お婆ちゃんみたいになりたい。お婆ちゃんがしていたこと全部できるようになりたい。
ところが、今回おいなりさんをつくるのはお母さんということになりました。
ゆいは今日、サッカー部の助っ人として試合に出なければならないんです。おいなりさんなんて手間のかかる料理、つくっていられるほどの体力はおそらく残らないでしょう。ゆいにとっても自然に納得できる話でした。
これがおばあちゃんなら・・・、きっと自分でつくっていたでしょうけど。
そもそもお婆ちゃんはゆいと違ってサッカーをやっていませんでしたしね。
ゆいもお婆ちゃんと一緒でごはんが好きですが、どちらかというと食べる側の人です。
晩ご飯をおいなりさんにしたいと言うとき、彼女はおいなりさんを自分でつくりたいというよりは、どちらかというと自分が食べたいという意味でそれを提案するでしょう。だからつくる役目をお母さんに取られてしまっても特に何も思うところがありません。せっかくレシピ帳まで引っぱり出してきたのに。ゆいにとって、ごはんを自分の手でつくるという部分はそこまでこだわるようなものではないんです。
この時点でゆいとお婆ちゃんは別人です。
ゆいはお婆ちゃんに託されたバトンを継いでいきたいと考えてはいますが、それはけっしてお婆ちゃんとそっくり同じクローンになりたいという意味ではありません。当たり前ですが。
置かれた環境、立場、人間関係、趣味嗜好に、好き嫌いの価値観。そういった細かな部分で、なおかつ根本的な部分で、ゆいとお婆ちゃんはそれぞれ別の人間です。
どんなに好きだとしても、ゆいはよねお婆ちゃんになれませんし、なるつもりもありません。
ものすごく当たり前の話ではありますが、今話はここが一番重要な部分です。
「お婆ちゃん言ってた。『美味しいの笑顔は一番のごほうび』。だからお父さんもわかなちゃんの笑顔が見たくて、お料理楽しんでるのかもしれないよ」
「・・・私、サッカー好きだけど練習はすごく苦しいよ。“好き”だけじゃやってられない。お父さんだってきっと――」
お婆ちゃんの言葉がアドバイスにならない人がいました。
「ゆいのお婆ちゃんの言葉、とてもいい言葉だと思う。でも、私は・・・」
その人はけっしてお婆ちゃんの言葉を悪く思っているわけじゃなくて、むしろ友達として普段はゆいが聞かせてくれるそれらをよくリスペクトしてくれていて。
なのに、今回自分には当てはまらないと言われてしまいました。
「あーあ! 早く高校生になって寮に入りたい。そうしたら、お父さんも私から解放されて、楽になるしね」
わかなは「ごはんは笑顔」にならない子だったようです。
お父さんが好きだし、お父さんがつくってくれるごはんも好きだけど、だからこそごはんは笑顔を奪ってしまう。ごはんを食べるたびお父さんのことが心配になってしまう。
それが、ゆいにとってはすごくショックで、困ってしまって。
だって、聞いていてまるで自分の心の奥の、一番暖かい部分を丸ごと否定されてしまったような心地がしたから。
ゆいはお婆ちゃんじゃないはずなのに。
not for me
「よねさんはお料理を愛して、つくるのも楽しんでいたかただったから、お料理が苦手な人への言葉は残してないのかもね」
「あ・・・。どうしたらいいのかな。――あー、だめだー。腹ぺこったー」
自分でも驚くくらいヘコんでいました。
ゆいはけっしてお婆ちゃんの言葉に依存しているような子ではありません。お婆ちゃんの言葉をよく引用してはいましたが、けっしてそれに頼りきりになることはなく、盲信しすぎることもなく、あくまで自分の考えの延長線上で上手く付きあっていたはずでした。
それなのにどうしてこんなにもショックを受けているのでしょう。
わかなのお父さんは料理があんまり得意なほうではないようです。指先にいっぱい絆創膏を巻いているのを見ました。
だったら嫌々、しかたなく料理しているのかといえば、それもきっと違う。わかなが見せてくれたお弁当はとてもおいしそうでした。とんでもなく手間がかかっていて、栄養バランスバッチリで。わかなから聞いた話でもお父さんが毎日一生懸命つくってくれていることは疑いようのないことでした。
そんなお父さんなら、おいしく食べたわかなの笑顔が励みになることは間違いないはず。昨日はそう思って「美味しいの笑顔は一番のごほうび」だって伝えたのですが、わかなはそれじゃダメなんだというんです。
「・・・私、サッカー好きだけど練習はすごく苦しいよ。“好き”だけじゃやってられない。お父さんだってきっと――」
いったいどうして――、といった部分に思い至らないほどゆいは愚かではありません。
現実的に料理には時間がかかるということ、お互い思いあっているからこそ余計に愛が重くなっているのもわかっています。なのに、そこまでわかっているにも関わらず解決策が思い浮かばない。そこまで整理できているのに自分自身どうしてか気持ちが晴れない。そういうところに困り果てています。
何がそんなに嫌なんでしょうか?
自分は何をどうしたいのでしょうか?
「はっ。仕事中にベストを尽くせないとは愚かですね」
ここで別のケース。
「なによ! あんただって、悩んで働けないときあるでしょう!」
「ありません。悩みとは弱さ。弱さは弱点。それを見せれば最後、足を引っぱられ、つけ込まれ、築きあげたもの全てを失う。私の経験上、完璧でなければこの世界では生きていけません」
極端に苛烈な世界観を持つセクレトルーに対し、マリちゃんは優しい言葉で応酬しています。
「完璧でないとダメだなんて、そんなの自分を苦しめるだけよ!」
けれど、そう。ゆいはマリちゃんと別の気持ち。ゆいには彼女の気持ちがわかります。ほんの少しだけかもしれないけれど、彼女がどれだけ真剣な思いからその言葉を紡いでいるのかが、心に直接響いてくるんです。
だって、ゆいも、だからこそこんなに悩んでいるのだから。
何がそんなに嫌だったのか。
自分は何をどうしたかったのか。
words of faith
「ありがとう! あなたの言葉、胸に響いた。きっとあなた自身の、あなたが生きてきたことを実感させる言葉だったから」
お婆ちゃんは言っていました。
「言葉だからね。忘れられることも、役に立たないこともある。でも、ちょっとだけでもいいの。もしも何かの力になれれば、私がいなくなっても大切な子たちを支えられるかもしれないでしょう?」(第38話)
せっかく心を込めて残した言葉も、必ずしも未来の世代の役に立てるとは限らない。それでも手伝いたい。少しでも助けになれることがあればそれだけで充分。そのために言葉を残すのだと。
その真心を聞いて、ますますお婆ちゃんの言葉が好きになったものです。改めて大切にしたいと誓ったものです。
言葉そのものより何より、お婆ちゃんの気持ちが暖かくて。
今日の悩みはその延長線上。
お婆ちゃんの言葉が通用しなかった、それそのものがショックだったのではなくて、もっと別のことがくやしくて、諦められなくて。
だって、ゆいにはゆいの大切な思いがあったんです。
セクレトルーにあったように、わかなにあったように、わかなのお父さんにあったように、あるいはお婆ちゃんにあったように。
「ずっと手づくりが一番だと思ってたけど、わかなちゃんの話を聞いて、本当に一番大事なことは別にあるんじゃないかって思った」
まず、わかなにとってはそう。
現実的に考えてお父さんが必死にがんばっていることは何も間違っていないはずだけれど、それでもわかなはそれじゃよくないと感じている。
だって、わかなはお父さんのことを大切に思っているから。このままではその思いが果たされないから。たとえお父さんが正しかったとしても。
これはそういう、シンプルなお話。
ゆいにとってもそうでした。
お婆ちゃんの言葉はたぶん間違っていない。わかなのお父さんの考えも、きっと同じく間違っていない。わかなが喜んでくれるだけでお父さんは倒れるそのときまでがんばっていられるでしょうし、やりがいだって感じているはず。そこにはごはんを媒介としたひとつの幸せが確かにある。
だけど。その食卓でわかなが笑っていない。わかなにとってそこは「ごはんは笑顔」じゃない。ゆいにとってはそれがどうしても嫌だったんです。
ゆいにとっての「ごはんは笑顔」は、きっとお婆ちゃんがこの言葉に込めた思いとは、ほんの少しだけ違っていました。
「ごはんは笑顔」は、すでにお婆ちゃんの手を離れ、きっとずっと前からゆい自身の思いのかたちになっていました。
だから、たとえお婆ちゃんの言葉と若干矛盾することがあったとしても、「ごはんは笑顔」を否定することだけは認められませんでした。
たとえ合理的に判断して他の諸条件何もかもお婆ちゃんやわかなのお父さんが正しかったとしても、わかなが笑顔になれないごはんは、ゆいにとってはただその一点だけで到底許せるものではなかったんです。
これはゆいのこだわりです。けっしてお婆ちゃんのではなく。
「お父さん。いつも手づくりのお弁当、ありがとう。忙しくても私のためにがんばってくれるお父さん大好き。――でもね。友達がよく言うんだ。『ごはんは笑顔』って」
わかなが「ごはんは笑顔」になれたとき初めてゆいの心は充足されます。
手づくりじゃなくてもいい。完璧にやれなくてもいい。お婆ちゃんが言ってたことと違ってきても構わない。
それでも、そこに「ごはんは笑顔」さえあれば。
「私、自分自身の言葉も見つけていきたい。みんなを笑顔にできるように」
ゆいの本当に大切なものはお婆ちゃんの言葉から生まれて、けれど、お婆ちゃんの考えから段々と離れつつあります。
バトンは確かに渡されました。今の走者はゆいです。
コメント
今更ながら隠し事まみれな品田家の皆さんを見つつ、戦闘シーンで「キュアプレシャスがセクレトルーに感化されて闇堕ちしちゃう?!」と勘違いしかけた己の愚かさを恥じました。
料理って突き詰めれば結構汎用性の高いスキル
(今思いついただけでも観察力、作業場全体を見通す力、マニュアルを読み解く力、指先の力の加え方、ある程度の作業時間に耐え得る忍耐力)
を求められると思うんですけど、それ『だけ』を欠点のままにしてしまえるものなんでしょうか……?
所詮凡人(失礼)であろうわかな父はともかく、セクレトルーの場合は本来かなりハイスペックらしい+回想シーンを見る限り単純な知識不足や経験の浅さ故という感じでもなさそうでしたし。
ちなみに私も自炊が嫌いですが、絶望的なまでに根気が無い+趣味に最大限リソースを割きたいからですねw
それを思うと、どんなに失敗しても卵に挑む過去のセクレトルーは立派です。今やってる悪いことはさておき、ちょっと見直しました。
あそこで「ありがとう!」は脳が混乱しますよね。セクレトルーの言っていることそのものには賛同してるわけじゃないっていうのがまた余計に。
自炊で一番大事なのは「失敗しちゃってもいーや」って思えるスピリットだと思っています。私なんてマズかったら次おいしくつくればいいやーくらいの気持ちで茶碗蒸しからガトーショコラまで目分量かましてますからね。(※ 自分しか食べないから許されることではある)
セクレトルーが料理に挫折したのはむしろそういう部分じゃないかと。
今日は和実 ゆいがサッカー部の助っ人選手として出場して、後半はいくら食べてもハラが減り放題な和実 ゆいでもある話でした
ちなみにコメコメがスカウトをスカートと聞き間違えては、「スカートコメ」と聞き求めたのはシックリ着ました!!☆☆♬
印象的なセリフでもありました!!☆☆♬
だからいとこのお姉さんの次女には
コメコメがわすれにくくてシックリきたセリフをいったよ
と感想をいとこのお姉さんのスマホに向けて発信しました!!☆☆♬
本編の終了間際ではらんらんが「鬼に缶詰」と、ことわざを間違えて、デリシャスパーティプリキュアのあまねに指摘されたのに対して
「缶詰の方が美味しいよぉ~」
と小学生までの女児向けアニメ的に感慨深いセリフもありました!!☆☆♬
もちろんシックリ着たセリフでもあり、女児向けプリキュアとしては3年と数ヵ月ぶりとなる感慨深さでした!!☆☆♬
スタートゥインクルプリキュアでは星奈 ひかるが「ララちゃんの方がかわいいよぉ~」と言い放ち、私個人としては「ララちゃんの方が面白いよぉ~」と言った方がもっと的確な感じもします
ちなみに○○の方が△△(だ)よぉ~
というセリフはテレビ東京系にて木曜の18時30分前後から放映されたアイカツスターズの
スカートの方が女の子らしくて良いよぉ~
から始まったと思えて仕方がないので、これからも小学生までの女児向けアニメ的に感慨深いセリフも続いて欲しいものです
子どもにとってスカウトされるという出来事は憧れのひとつだと思うんですが、さりとて全ての子どもにとって耳馴染みのある言葉かというと・・・って考えると、いいさじ加減の脚本だったんじゃないでしょうか。
自分が気になっているものの名前を知らないというのは未就学児あるあるですよね。
和実よねさんが後進に対して「言葉を遺す」だけにとどめ、それ以上の拘束力ある手段を行使しないでいたのは――――後進の手によって自分の価値観や理想が改訂・発展・進化される余地を、自分の“指示”によって封じたくなかったから――――でもあったんでしょうね。
だとすれば、菓彩あまねの自由意志を洗脳によって封じ、自分の指示通りに動く操り人形・ジェントルーに仕立てたブンドル団首領・ゴーダッツのやり方は、正に“和実家のテーゼ”に真っ向から対立するアンチテーゼと言えるのかもしれません。
ところで、ゴーダッツがあまねを操り人形・ジェントルーにした理由はおそらく、レシピッピレーダーが完成するまでのつなぎ役となる案内人として「本来小さい頃にしか視ることの出来ないレシピッピを視認出来て、かつおいしーなタウンの地理に明るい」人物を必要としたからだと思うんですが……では何故、芙羽ここねや華満らんではなかったのか?
ここで気になるのが「20年前にジンジャーの送別会に集った面子の中に芙羽夫妻と華満夫妻がおらず、菓彩夫妻はいた」点なんですよ。つまり――――ブンドル団操り人形候補は、あの時集まっていた人達の子供(孫)であることが選考基準の一つだった――――可能性が浮上してくるんですよね……。
それから――――今回唐突に、ジンジャーとの思い出に浸りだしよったフェンネル近衛隊長。どうもなんとなく「あの素晴らしい愛をもう一度」っぽい雰囲気を漂わせているような。
「あの時、同じ飯食べて
美味しいと、言った二人の
心と心が、今はもう、通わない」
……。
今話を踏まえるとそういうことだったということになりますね。よりよい未来の創造のために、というか。直接の子や孫のためだけじゃなくて、未来の世界全てに役立てるという意味でこっちのほうが私好みです。
『あの素晴らしい愛をもう一度』、中学校くらいで合唱やらされましたねえ。はてさて、すれ違うことになった理由はまだわかりませんが、おそらくそういうことのようで。
前回からさらに踏み込んで、言葉というもののすばらしさの裏に潜んだ限界というものを描く会となりましたね。
あのまま行けば、わかな父娘は、教条主義によって潰れてしまいかねない。
しかし、第三の道を提案しそれを実践していくという「総括」がなされ、この父娘はお互い活かされることとなったわけです。
よねばあさんがいかに優れた人であったとしても、その言葉は、決して万能ではない。
まさに、「守破離」の「守」から、「破」、そして「離」へと、ゆいが成長していく過程を、物の見事に30分弱の時間で表現されました。
あっぱれです。
でも、私みたいに独身のまま50代に入って、毎日酒を飲む上に毎週日曜は張り切ってプリキュアを観るなんて生活していると、母上様は、どうやらもう、あきらめてくれたような、そうでもないような(苦笑)。
まあその、「ごはんは笑顔」という言葉が、いつのどこでも通用するわけでもないということを、ゆいにとってはあのような形で肌身で理解できたことは、これからの彼女の人生にとって大きなプラスとなることでしょう。
あー、なるほど。守破離ですね。まさしく。
言葉というのは案外ズルいものだと思うんですよ、私。
そもそもが曖昧な物事を白黒はっきり線引きするために明文化するはずなんですが、文書になると今度は解釈問題が発生する。そして解釈という行為にはいつどんなところでも通用する絶対の正解というものはなくて、ある程度行う人の裁量に委ねられる部分があるんです。ビジネス文書なんて意図的に解釈の余地がある部分、ない部分を書き分けますしね。
私は、だから言葉が好きなのかもしれません。確かであろうという願い、委ねようという思いが同時に込められていて。