魔法つかいプリキュア!第49話感想 キュアップ・ラパパ! 悲しいお別れよ、あっちに行きなさい!

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キュアップ・ラパパ! リコに、みんなに、会いたい。

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(主観的)あらすじ

 12のリンクルストーンの祝福と世界中の生命の輝きを受け、ついにプリキュアは太陽魔法を完成させました。その無敵の力はたちまちデウスマストを追い払います。
 ここからがみらいたちの本当の戦い。混沌に飲まれた世界を救うために3人は分かたれた世界で離れ離れに暮らすことになりました。モフルンも喋らなくなります。けれどみらいは悲しみに飲まれず、いつか訪れる再会の日を信じて努力し続けます。
 大学生になったみらい。ある日、みらいはモフルンに導かれるように杖の樹そっくりな木を見つけます。その木の枝を受け取って魔法の言葉を唱えます。「キュアップ・ラパパ! もう一度みんなに会いたい!」 諦めず何度も唱えます。キュアップ・ラパパ! キュアップ・ラパパ! その素直な気持ちを乗せた言葉が奇跡を起こします。
 彼女の意志が、彼女たちの意志が、ふたつの世界をもう一度巡り会わせ、みらいとリコとはーちゃんとモフルンの手を再び繋ぎあわせます。ワクワクもんの未来の始まりです。

 不意打ち最終回。デウスマスト(前座)が早々に打ち倒されるところまでは予想していましたが、そのまま一気にラスボスまでやっつけてしまうとは思いもしませんでしたよ。物語の帰結としては順当なはずなのに、最後までハチャメチャでワクワク。やられました。大好き。
 こうなってしまえば魔法つかいプリキュア!の独壇場です。次回の展開がどうなるか全く想像できません。キラキラプリキュアアラモードとの橋渡しをするのかな?ってくらい。

今、私たちの手“で”!

 デウスマストとの思想戦は前回で決着がついているので、彼について改めて語るべきところは特にありません。全てを食らう混沌は全てを生みだす銀河へと姿を変えました。「女の子は誰でもプリキュアになれる。そしてその力はこの宇宙を生みだしたビッグバンにも匹敵するんだ」 ジョー岡田さん、3年越しの解説ありがとうございます。
 今話の戦いで重要なのはデウスマストではなく、太陽魔法の方ですね。

 「とびっきりの奇跡を!」「全てを照らす魔法を!」「そして暖かな幸福を!」「今、私たちの手で!」
 ※参考:「巡り会う奇跡よ!」「つながる魔法よ!」「育まれし幸福よ!」「今、私たちの手に!」
 みらいたちはこれほどに大きく成長しました。なんか最近毎回そんなことを言っている気がしますが、事実だから仕方ない。

 基本的に魔法つかいプリキュア!は、みらいたちが世界から祝福を受けていることを前提に物語を進めてきました。奇跡も魔法も幸福も、彼女たちの輪の外から与えられたものです。太陽魔法「プリキュア・エクストリーム・レインボー・サンサン・ジュエリーレ」もその基本は踏襲しています。
 この魔法はマザー・ラパーパが残した(つまり今の世界そのものでもある)12のリンクルストーンの祝福を受けて、あまねく生命に祝福を与える存在である太陽の力を生み出すものです。キュアフェリーチェはマザー・ラパーパを想起させる巨大な姿となり、キュアミラクルとキュアマジカルもこれまでの5フォーム全ての力を自在に振るうことができます。
 太陽があまねく生命に祝福を与える偉大な力なら、あまねく生命すべてと手を繋ぎあってきたプリキュアはその大いなる祝福を一身に集めることもできる、という構図ですね。

 みらいたちは世界から祝福されてここまで来ました。誰からも愛されてきました。子どもだったからです。子どもは無条件に愛されるべきです。
 けれどそれだけでは足りません。愛されるだけでは、幸せな日常を永続させるにはまだまだ足りません。ドクロクシーとの戦いでははーちゃんを守りきれませんでした。今回デウスマストとの戦いにおいても世界が混沌に飲まれかけることを止めることができませんでした。
 世界は愛に満ちていますが、同時にどうしようもなく理不尽です。

 それを打開するべくみらいたちは祝福する側に立ちました。みんなから祝福されながら、同時にみんなを祝福することにしました。このあたりは主にはーちゃんがらみのエピソードで多く語られましたね。
 これが絶大な力を生む鍵となります。春映画において、大好きな先生からの愛を受け取れずにいたソルシエールは、その愛を取り戻したとき究極の魔法を行使する偉大な魔法つかいとなりました。秋映画において、恐れられるあまり愛することを諦めたクマタは、モフルンが差しのべた優しさに応えることによってダークマターの忌まわしい力をはねのけました。
 双方向の祝福、あるいは愛が絶大な力となる理屈は(そういえば)作中であんまり説明されていませんね。なぎさとほのかが手を繋ぎあうことから始まったプリキュアシリーズにおいてそれは自明なことですし、現実世界も基本的にはそういうふうにできています。お菓子を食べれば元気になれるようなもので、それは今さら説明する必要すらない当たり前のことということですね。
 「祝福する」とは、すなわち手を差しのべること。そして幸いなことに、子どもたちは世界中あらゆるものから祝福の手のひらを差し出されています。自分が手を差しのばせば誰とでも、いくらでも繋がりあうことができます。
 世界中みんなから祝福されていることを自覚し、差し出されていた手のひらひとつひとつと繋がりあい、大いなる祝福の力を一身に宿すことで、ついにみらいたちは太陽になりました。

 そんなわけで、太陽となったみらいたちは世界が混沌に飲まれては十全の力を発揮できませんし、彼女たちが十全の力を発揮できている以上は世界は混沌に飲まれてなどいません。その力の源泉は相互の祝福、みんなで繋ぎあう手と手の間から生まれています。
 「光だと? 地上の全ては混沌に飲まれ、何者も存在せぬはず」 そんなわけがあるものか。だってここに太陽がいるのだから。太陽が未だ存在する以上、全ての生命もまた存在しないはずがない。
 そりゃ単独での力を志向するムホーたちには理解すらできませんとも。彼らはしょせん前座、太陽の力を見せつけるための引き立て役です。
 「キュアップ・ラパパ! 星々の果てまで、混沌よ、あっちに行きなさい!」 第1話を思い起こさせるトドメの一撃。と思っていたら追撃上乗せ。「全ては混沌から生まれた。ならばあなたも飲み込むのではなく、生み出す力を」 オーバーキル。
 去年まではこの手の敵の永続性を認めて共存の道を探っていたプリキュアシリーズですが、今年は完膚なきまでに叩きのめしましたね。さらりと。
 なにせ前座ですから。

 「今、私たちの手に!」から「今、私たちの手で!」へ。
 奇跡も魔法も幸福も、太陽はあまねく生命と相互に繋がりあった力によって、その全てを自ら生み出します。今のみらいたちは一方的に祝福を受けてばかりの子どもではありません。
 そんなみらいたちだからこそ、これまでは戦うという発想すらなかった究極のラスボスに立ち向かうことができます。

究極のラスボス

 プリキュアシリーズのラスボスは様々な姿に描かれました。日常に対する純粋な外敵であるジャアクキング、ゴーヤーン、デスパライア、館長。人の心にある様々な闇を象徴するメビウス、デューン、ノイズ、ピエーロ。プリキュアが描く理想と表裏一体に存在しつづけるプロトジコチュー、レッド、クローズ。そのほとんどが強大な力を誇る怪物として描かれました。(レッドは見た目くたびれたオッサンでしたけどね)
 様々な敵と対峙してきたプリキュアシリーズにおいて、魔法つかいプリキュア!のラスボス像はそのいずれともまた一線を画します。
 ラスボスは「悲しいお別れ」。なんとビジュアルすらありません。姿かたちがない以上、いつものようにプリキュアの必殺技で打ち破ることすらできません。従ってみらいたちはプリキュアとしてではなく、どこにでもいるただの女の子としてラスボスに立ち向かうことになります。
 ついにプリキュアはこんなどうしようもない敵とすら戦えるようになりました。一個人としての幸福を巡って戦ってきたドキドキ!プリキュア以降の物語的積み重ねは、例えばこんな戦いすら可能にしました。長期シリーズ作品としてこんなステキな飛躍はありません。

 「悲しいお別れ」は物語序盤からずっとみらいを苦しめつづけてきました。第9話ではリコと別れることとなり、第21話でははーちゃんと別れることとなり、そしてみらいはそのどうしようもない別れに抵抗できず、ただ涙を流すばかりでした。
 みらいが今日までリコたちと一緒にいられたのは、運命的な巡り合わせや周囲の大人たちの助け、つまりは世界からの祝福のおかげでした。リンクルストーンがナシマホウ界に存在してくれたから、エメラルドがはーちゃんを導いてくれたから、そして校長先生はじめ周りの大人たちの手助けがあったからこそ、悲しいお別れを回避することができました。今日まで楽しい日常を過ごすことができました。
 けれどみらいは直観していました。それでも「悲しいお別れ」が潰えたわけではなく、いつか再び襲い来ることを。常々勘の利く子として描かれてはいましたが、ひょっとすると物語のお約束に慣れた視聴者より鋭いかもしれませんね、この子。私なんて一時期「悲しいお別れの予感を振り払って目の前の日々を楽しく過ごすこと」がみらいの物語の決着だと思っていましたよ。

 そんなわけで、見方によってはGo!プリンセスプリキュアのクローズ以上に因縁深いかもしれないラスボスとの最後の戦いが幕を開けます。

「悲しいお別れ」をやっつけろ!

 最終決戦に際して先陣を切ったのはリコです。「キュアップ・ラパパ! 私たちは、必ず、絶対、また会える!」
 懐かしの第23話、はーちゃんが謳い、みらいが継いだ「ずーっと一緒にいられますように」の魔法を半年ぶりに完成させます。おのれ、このための伏線だったか! 策士だな十六夜リコ!(メタ)
 リコの物語は未来を現在から連続させるための物語でした。夢ばかり追いかけて足元を掬われ、その代わりに今日を楽しみ努力することで明日をより良くしていくことを学ぶお話でした。そんなリコが唱える魔法なんですから、それはもう効かないはずがありません。現在と未来は連続しています。今日を頑張れば明日はより良くなります。明日の明日も、そのまた明日も、頑張りつづければそれだけ未来はどんどんステキに変わります。リコは誰よりもそのことをよく知っている子です。
 「会える」と信じつづけるならいつか会える。当然のことです。だってそれは他人任せな祈りなんかではなく、手探りでもそのための努力を諦めないという誓いなんですから。
 彼女たちはもはや誰かがくれる祝福に甘んじてばかりいるような子どもではありません。どんなに暗い道行きでも、希望の輝きで目の前を照らして一歩一歩前に進みつづける、太陽です。現在と未来が連続している限り、彼女たちは絶対に自分たちの信じる理想へたどり着きます。

 2手目を打ったのは冷凍ミカン。冗談のような字面ですが、実際事実です。思い起こしてみればレインボーキャリッジの元になったものは冷凍ミカンの馬車でしたっけ。
 なぜかことあるごとにプッシュされていた冷凍ミカンは幾多の物語を経て、最終的に「みんなで一緒に」食べるものの筆頭としての立場を得ました。今や彼はお鍋とかおしくらまんじゅうとかと等しいテーマ性を表しています。この物語における出世頭ですね。
 レインボーキャリッジ・・・みらいたちがつくりだし、デウスマストを討ち滅ぼした「新しい伝説」の正体は、そんなどこにでもある「みんな一緒の」楽しい時間の象徴でした。連戦連勝、あんなに強力無比だった魔法が「みんな一緒」のステキさを主張してくれるんです。
 みんな一緒だから強くなれた。みんな一緒だからデウスマストにも勝てた。だからこそ、この物語は「悲しいお別れ」に敗北したまま閉じられていいはずがありません。

 3手目はモフルン。第1話でカゴから転げ落ちたときの真相を語ります。「リコ、ありがとうモフ。あのときモフルンを見つけてくれて。モフルンは『魔法つかいがいた』ってみらいに教えてあげたくて、一生懸命伝わるように願ったモフ。そしたらリコはモフルンに気付いてくれて・・・」
 ナシマホウ界にも確かに存在する魔法の片鱗。それは「キュアップ・ラパパ」と唱えるようなわかりやすいかたちをしてはいませんが、偶然とか奇跡とかのかたちをとってこの世界に息づいています。魔法はあなたの毎日が幸せなものでありますように、という世界の贈り物。祝福です。これがあるからこそ、ただの願いが、ただの誓いが、確かにいつか叶うという絶対の根拠になります。
 世界は私たちが思っているよりもずっと優しいものです。物言わぬただのぬいぐるみだった頃からモフルンがみらいを愛し続けていたように、この世界において私たちは無数の祝福に包まれて生きています。
 「ねえリコ世界が初めからひとつのものだったら私たちどうなってたかな?」
 「・・・そしてやっぱり、みらい。あなたと出会うの。モフルンとはーちゃんともね」
 「・・・でも必ず出会った。私たちの最初の出会い、それだけでも大きな奇跡なんだもの」

 だから、願いは叶います。希望は現実に変わります。だって、周り中の何もかもがあなたのために力を貸してくれるのだから。

 4手目は友達のみんな。大学生になってもみんなあの頃の面影を残しています。いくつか変わったところもありますが、それも概ねステキな成長で、あの頃と現在とがみんな等しく連続していることを確かに感じ取ることができます。
 現在と未来が連続しているのはリコの物語だけではなく、プリキュアだけのものでもなく、あまねく生命全てに平等に与えられた事実です。
 「だったらもう一度強い思いを込めて願えば、奇跡は起きる! また会える! 絶対に会いに行く!」
 それが普遍的な事実であればこそ、出会えた奇跡は一度限りの偶然ではありません。それは世界に祝福された奇跡で、そのための努力を続けていれば、いつだって誰にだって必ず訪れるはずです。世界はそういうふうにできています。

 頑張りつづければ願いは叶うし、みんな一緒にいることはやっぱりいいことだし、世界はそれを叶えるために力を貸してくれています。さあ、そろそろ戦いの準備(フラグともいう)は整いました。あとはみらいが力を振るうだけ。

 5手目はおばあちゃん。「悲しいお別れ」をやっつけるための舞台が整った今、最後にみらいの背中を押す役を務めます。
 「モフルンはみらいを見守ってくれてる。今でもね」 それはモフルンだけでなく、世界のみんながみらいを祝福してくれていることを示します。みらいは愛されています。だからこそあの頃みらいはリコたちと出会えた。あの頃の奇跡は今も連続しています。
 「素直な言葉は力になる」 第23話で校長先生の口から出たものと同じ言葉ですね。いかなる奇縁か、そのことを知るはずのないお婆ちゃんも同じ言葉を語り聞かせてくれます。
 せっかく再会したはーちゃんや、それからリコとも別れなければいけなかったあのとき、みらいたちは言葉の力で「悲しいお別れ」を遠ざけました。それは校長先生の手を借りなければ実現できない弱々しいものでしたが、同時に校長先生の心を動かす程度には充分に強い力でした。
 これこそが「悲しいお別れ」という形ない敵をやっつけるための唯一無二の武器となります。

 最後の一手はもちろんみらいの手で。
 いつかリコたちと再会するために、みらいは国際社会について学んでいます。ナシマホウ界にいながら魔法界に繋がる道は限りなく少なくか細いですが、彼女は諦めず、希望を持って、少しでも再会の日に近づけるよう日々を頑張っています。
 その甲斐があったのか、彼女はお婆ちゃんとモフルンの導きという奇跡をもぎ取り、大学生にしてようやく最後の戦いの舞台に立つことができました。思い出の公園、十六夜の月、魔法の杖によく似た、ただの木の枝。

 「キュアップ・ラパパ! もう一度みんなに会いたい! ・・・なんてね」
 それではダメです。「悲しいお別れ」に打ち勝てるのは「素直な言葉」だけ。本気でそれを信じて紡がなければ、言葉に力は宿りません。

 「キュアップ・ラパパ! みんなに会いたい!」
 「キュアップ・ラパパ! みんなに会いたい!」
 「キュアップ・ラパパ! みんなに会いたい!」
 「キュアップ・ラパパ! みんなに会いたい!」
 「キュアップ・ラパパ! みんなに会いたい!」
 「キュアップ・ラパパ! みんなに会いたい!」
 「キュアップ・ラパパ! みんなとずーっと、仲よしでいたい!」
 「キュアップ・ラパパ! みんなとずーっと、一緒にいたい!」
 「キュアップ・ラパパ! みんなに、会いたい!」
 「キュアップ・ラパパ!」「キュアップ・ラパパ!」「キュアップ・ラパパ!」「キュアップ・ラパパ!」「キュアップ・ラパパ!」
 「キュアップ・ラパパ! ・・・みんなに、会いたいよ」

 「キュアップ・ラパパ! リコに、みんなに、会いたい」

 まだ魔法を使えなかった第1話と同じくらい必死に唱えた言葉が、心からの素直な言葉が、魔法のないナシマホウ界に再び奇跡の魔法をもたらします。
 プリキュアに変身してもいないただの女の子が、これまでどんなプリキュアも手出しできずにいた形ない敵をやっつけます。

 「悲しいお別れ」は打ち倒されました。
 たくさんの祝福を受け、たくさんの祝福を振りまき、そうしてたくさんの生命と手を繋ぎあった、太陽のような女の子の手によって。
 特別でもなんでもない、ただの「素直な言葉」の力で。
 言葉通りのエブリディマジック。ヒーロー不在の英雄譚。ありふれた楽しい日常にこそ奇跡の魔法は宿ります。

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