少女終末旅行 第12話感想 この旅路は終末とともに在る。

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ふたりだけだとさみしい? 

―― 少女終末旅行

 世界は終末しました。

 そんなこと知ってた。
 こちらだって初めからそういう前提で視聴していましたし、ちーちゃんとユーだっておそらくそういう前提で旅してきました。
 この世界は絶望しています。あらゆる望みが絶えています。悲しい音楽を奏でています。
 私たちはとっくに知っています。だってこの世界はこんなにも美しいんだから。

 けれど、私たちは知っています。
 終末を見届けることにこそ意味があるんだと。
 絶望するからこそ安息があるんだと。

 「ねえ、ちーちゃん。地球、終わるんだって」
 「うん」

 世界の終末はちーちゃんとユーによって見届けられました。

“あなたたちが喜ぶと、私も嬉しい”

 ヌコ(あるいはエリンギの幼体)は発声器官を持ちません。呼吸器を援用してつくりだす空気の振動(発音)ではなく、電波に似た何らかのシグナルを発することによってコミュニケーションを行います。

 ・・・という設定のはずなんですけれど。
 「モガモガ」言います。「ケホケホ」言います。「ペロペロ」言います。
 キミ呼吸と通信が別系統なんだから、口腔がらみの反応をわざわざ擬音表現する必要ねーだろと。ガソリン飲みながら普通に喋ってたの見逃してねーからな。かわいいけども!

 今話でもこの子、ツッコミどころあふれる挙動をします。
 ユーを飲み込んだエリンギをちーちゃんが追いかけるシーン。このシーンでヌコはずっとちーちゃんのヘルメットに乗っかっていただけのはずなのに、なぜか潜水艦出口にたどり着いた時点で荒く息を切らしています。キミいつ運動したよ。
 よくよく見直してみると、ちーちゃんが壁に背をつけて廊下の向こうを警戒したとき、転んだ拍子に発砲してしまったときなんかも、表情がちーちゃんとシンクロしています。走っているときの目線までちーちゃんと一緒。

 この子、ちーちゃんに共感してくれているんですね。
 私たちが映画の激しいアクションシーンを観ていて無意識に息を切らしたり、緊迫のシーンに思わず息を止めたり、主人公の涙にもらい泣きしたりするのと一緒。
 ちーちゃんと同じ感情を共有してくれているわけですね。
 「私の言ってること、わかる?」
 ええ。ちゃんと伝わっています。ラジオなしでは言葉が伝わらないと理解していたからこそ、普段は見せない、ふるふるっとしたボディランゲージを使っていたわけですしね。ちーちゃんの思いは間違いなくこの子にも伝わっています。
 「お前はまだ小さいだけで、本当は人間の敵なのかもしれない」
 そんなことはありません。ちーちゃんの思いを受け取ったうえで、共感までしてくれているんですから。
 “共感”とは、端的にいうなら「あなたたちが喜ぶと、私も嬉しい」ということ。もし相手が敵なら嬉しいと思ってくれるものか。相手が生身の人間でも機械でも映画の主人公でも、何らかの親しみを感じているからこそ私たちは共感できるんです。
 だったら、もちろんヌコだって。

 ヌコは「モガモガ」言います。「ケホケホ」言います。「ペロペロ」言います。
 別に発声器官から言葉を発しているわけじゃないくせに。
 それはきっと、ちーちゃんやユーならこんなときこういう音を立てるんだろうな、自分も同じくしてみたいな、という彼の共感がもたらした表現行為なんでしょう。

 「我々は生きている人間を食べたりはしない」
 それはもちろん、地球を眠らせるシステムとして不必要な行為だからこそ、でもあるんだろうけれど。
 けれど私としては、そこにエリンギたちなりの血の通った判断が介在していることを、どうしても期待してしまいます。
 なにせ彼ら、どうやらいつぞやの寺院で信仰されていた神様のモデルだったようですし。
 どうして彼らはかの宗教が成立してから何十年(何百年?)と経った今になって、再びここに現れたんでしょうか。地球上に現存するエネルギー物質を安定化させるのが目的なら、最初にこの都市に現れたとき全部根こそぎ飲み込んでしまえば良かったのに。今回だって、潜水艦のすぐ側に駐めていたケッテンクラートの燃料タンクを無視する理由はなかったでしょうに。
 私は彼らにある種の共感があることを感じます。終わった世界で人間たちが自然に衰退していくのを待ってくれる、優しさを。ヌコがちーちゃんたちに示してくれた共感の表現と同質の、親しみを。

 彼らはかつてこの都市に住む人々の前に現れ、しかし人間の生存を脅かすほどにはエネルギー資源を持ち去らなかった。だからこそ当時の人々に畏敬された。あるいは親しまれた。信仰対象となるほどに。
 ひょっとしたら終わらない戦争に明け暮れる兵器を優先して飲み込んでいったのかもしれませんね。相対的にエネルギー量の少ない民生品や遺棄された兵器なんかは放っぽいて。もしそうなら神様扱いされるようになるのもわかるわー。ロマンだわー。実際そうだったという証拠は無いけれども。

 話が若干脇道に逸れましたが・・・というか、そういえばまだ本題に入ってすらいませんでしたが、ともかくそんなわけで、共感可能な間柄というのは親しみだとか優しさだとかで繋がっているわけですね。

“君たちにもあるだろう、大切なものが”

 カナザワにとって、それは地図でした。
 イシイにとって、それは飛行機の歴史でした。
 ロボットにとって、それは魚でした。
 ちーちゃんにとって、それは。

 「すごい! 明るいよ、ちーちゃん!」
 「大切なものかー。ちーちゃんは日記とか?」
 「ちーちゃん、どうして返事してくれなかったの?」
 「ちーちゃん」「ちーちゃん」「ちーちゃん」「ちーちゃん」「ちーちゃん」
・・・

 傍にあるのが当たり前で。なのに有り難くて。もし失ったら悲しみに身を引き裂かれてしまいそうな予感さえする、“生きがい”。
 私の存在を証明してくれる何か。
 ちーちゃんにとって、それはユーでした。
 ユーはいつもちーちゃんの名前を呼んでくれて、ちーちゃんを頼ってくれていました。

 対して自分はどうだっただろう。

 「バカ! クズ! ゴミ!」
 「(日記を指して)まあ、大事だな」
 「このー!」

 なんだかいつも悪態をついていた気がする。
 親しみは足りていただろうか。優しさは足りていただろうか。“共感”と呼べるほどに感情を共有できていただろうか。
 私は彼女の存在を証明できていただろうか。

 思い起こされるのは、いっぱい「ちーちゃん」と呼んでくれた彼女の声ばかり。
 ああ、私は何回彼女に「ユー」と呼びかけてあげられていたっけ。

 ちーちゃんにとってユーはどうしても一緒にいてほしい、大切な人です。想い出を辿るたびにその気持ちはいっそう強くなっていきます。ちーちゃんは絶望となかよくできない子です。望みならまだまだいっぱいある。死ぬのは怖い。自分が死ぬのも、誰かが死ぬのも。
 でも、ユーにとってのちーちゃんは? 「もっと絶望となかよくなろうよ」なんて言いだすあのクレイジーは、ひょっとしてある日突然ふらっと消えてしまったりはしないだろうか。ちーちゃんを置いて、ひとりで。

 一度試したことがありました。いつかの寺院の暗がりのなかで。アニメ版のちーちゃんは割と女々しい子です。
 「ちーちゃん、どうして返事してくれなかったの?」
 あのときのちょっとしたイタズラ心が今になって後ろめたさとして返ってきます。

 さて。
 ユーにとってのちーちゃんは?

 ・・・いや、今さらこんな乙女チックな回想を挟まんでも、ハタから見ている私たちとしてはちーちゃんほどユーがいなくなる不安を感じてはいませんでしたし。(制作者の演出意図を超えて感傷的な見かたをしているだろうなという自覚はある)
 「なんかがんばったら出れた」
 ユーが生きて再会するための努力をしていたというのが全ての答えです。
 この子、言動のクレイジーさとは裏腹に意外と生き汚かったりしますしね。他人に対して比較的警戒心が強かったり、ピンチの時ほど実力を発揮したり。

 ちーちゃんの回想はやたらと自己批判っ気の強い内容でしたが、実際のユーにはちーちゃんがいかに自分を大切に思ってくれているかがよく伝わっているんですよ。親しみも、優しさも。それこそ、共感によって。
 「・・・何?」
 「またふたりだね」
 「これまでも、これからも。ふたりだけどさみしい?」
 「ちーちゃんがさみしいんでしょ?」
 「なっ。私はユーがさみしいかと思って」
 「またまた。素直じゃないんだから」

 手に取るようにわかります。ユーの「ちーちゃん」がやたらと多いのは、ちーちゃんがこういうことを喋るのが苦手な分をいつも代弁してくれていたから。

 「私はさみしくないよ。ちーちゃんがいるから」

“この瞬間を誰かに見てもらうことが何より重要なんだ”

 かくして少女たちの終末旅行はもう終わりません。
 たとえ世界がとっくに終わっていようとも、それでも終わるまでは終わりません。

 終末世界はなにかと容赦なくて、少女たちに食料だったり燃料だったりを失うことを強いてきます。今回はついにカメラまで失われました。早く終われと言わんばかりにあの手この手で終末に引きずり込もうとしてきます。

 けれど、彼女たちの旅はまだまだ終末しません。ふたりがお互いにまだそれを望まずにいるからです。
 彼女たちの他にもまだ終わるってくれるなと望んでくれる人がいましたしね。
 「上に登りなさい。ふたりなら少ない食料で長く生きられる」
 この旅で少女たちが一番最初に見届けた終末。お爺さんが最後に残した言葉が、ふたりのゆるゆるな旅路に最低限の目的を与えてくれています。

 少女たちの旅路は終末とともにあります。
 たくさんの終末と出会い、たくさんの終末を見届け、たくさんの終末を受け取ってきました。
 少女たちはたくさんの終末と共感し、それぞれと心を繋いできました。
 この都市にはもはやちーちゃんとユーのふたりしか存在していないらしいですが、そんなの気のせいです。あるいは見解の違いです。

 今、少女たちの旅路はたくさんの終末とともにあります。
 終末したモノたちの人生が、言葉が、持ち物が、少女たちを新しい未来へと導いてくれています。
 終わった世界に取り残されたモノたちが、終末者として少女たちの記憶に加わる日を待ち焦がれています。

 カナザワの同行人は終末しました。
 機械進化論研究会は終末しました。
 新婚家庭は終末しました。運動会は終末しました。クラシックコンサートは終末しました。葬送は、スポーツは、仕事は、アイドルは、議会は、キャンプは、花畑は、魚は、蝶は、鳥は、電子機器は、フライドポテトは、絵本は、どこにでもある平穏は、あるいは戦争は・・・すべて終末しました。
 今やそれらを記録してきたカメラすら終末を迎えました。

 けれど、それらは失われたわけではありません。
 その終末はちーちゃんとユーの記憶に残り、いつかどこかで想い出話として楽しまれ、あるいは決断するための指針となり、もしくは苦境を耐え忍ぶための糧となるでしょう。
 終末したモノたちはこれからもふたりの少女とともに在りつづけます。

 「私たち、ずっとふたりきりだけどさ。こうして人々が暮らしてきたんだなってわかると――」
 「少しだけさみしくない気がするね」

 どうか良い終末を。
 願わくば、この世界に生きたモノたちすべての終末の歴史が、いつかどこかの誰かの旅路とともに在りますように。

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