
あ、考えてみたらこれちょうど10年くらい前だ。また10年後かあ。私何してんだろうなあ。

子ども。大人。
小学生から当然のように対等の立ち位置と見なされていることにもっと疑問を持とうぜ、ののか。
でも、まあ、好かれているのは確か。
「お前、嫌いだわ」
他人に対してこんなはっきりとネガティブな態度を見せるカラーズは珍しいですね。サバゲーショップのアフロさん、優しそうな人だったのに。
まあ正直なところ、私も若干イラッとしたのですが。
「あはははは! なんだその頭。バズーカに撃たれたのかー?」
「ん・・・。そう! バズーカに撃たれたんだ、ぜ!」
超子どもだまし。
これじゃさっちゃんがバズーカ云々を本気で信じているみたいな扱いじゃないですか。
「すっげー! 強えー!」とか「痛くなかった?」とか、そんなアニメキャラみたいな純朴なリアクションが返ってくるとでも思っていたんでしょうか。
ちなみにオメー、バイト歴何年です?
カラーズは子ども歴10年近く積んでいますよ。
この子たちは正義のヒーローを標榜するクソガキどもですが、それでもなんだかんだでこの世界に10年近く生きています。この世界に起こりうること起こりえないこと、現実と虚構の区別くらいついています。(結衣は若干怪しいけれど) 現実の上野にはヒーローが必要ないことを理解していながら、それでもなお虚構のなかでヒーローを演じているんです。全力で。
「悪の大王、この街をメチャクチャにしてください!」
そういう物騒な願い事をしながらケラケラ笑えるのがカラーズです。
カラーズじゃなくとも現実の小学生だって3DSの『Ice Station Z』でゾンビや人間相手に銃をぶっ放して遊んでいるんです。普段はお行儀よく学校で勉強している、普通の子たちが。
この平和な日本でバズーカに撃たれたとかなんとか、そんなの小学生が本気で信じているわけないじゃないですか。
一方でオヤジがカラーズに懐かれているのは、彼が本気でヒーローごっこに参加してくれるからです。
「武器とはちょっと違うが・・・こんなのはどうだ? トランシーバーだ」
現実問題として子どもに物騒なものは与えられません。ですが、カラーズが武器を求めている以上は第1話のバズーカのようなオモチャでお茶を濁すこともできません。それは全力でヒーローを演じている彼女たちへの侮辱です。
ならば、と。武器以外でヒーローの役に立つものを提案できるのがこの人のすごさ。
カラーズのヒーローごっこが虚構だとわかっていながら、それでも決して見くびらず、彼女たちと同じ真剣さでヒーローの補佐をしてやる。なかなかできることではありません。
・・・というかホントこの人どんだけ暇人なんだ。
その点、意外と斎藤もなかなかバカにしたものではありません。
「よくわからんが、何かろくでもないことを未然に防げた気はする」
彼はオヤジのように積極的にカラーズのヒーローごっこにつきあっているわけではありませんが、そのくせ彼女たちのしょうもないちょっかいに本気で反撃しています。きわめて大人げないオトナです。カラーズが本気で戦うにふさわしい相手です。なかなかできることではありません。この人を大人と呼んでいいものかどうか私は毎週悩んでいます。
そしてののかも同様。
「え、いいの? ううー、ののか嬉しい」
彼女もヒーローごっこには付きあおうとしませんが、そもそも根本的な人間性が未だ小学生レベルです。もう16、7になろうというのに自然体で小学生に侮られています。友達認定の決定権を小学生に握られています。なかなかできることではありません。彼女の将来が本気で心配です。
「残念だけど子どもには売れないんだ。ごめんな」
「子どもじゃないよ! ワンコインさっちゃんです!」
大人が思うほど子どもは子どもだましに騙されません。
だって彼女たちは子ども歴10年のベテランです。
ひとつのことに10年も全力で取り組んだならそれなりの目端は利くようになりますとも。
TPO
・・・という流れで、ちょっとした小ネタ。
「どうも、ワンコインさっちゃんです」
アフロ氏の前であれだけ滑りたおしたネタを、カラーズは懲りずにオヤジの前でも披露します。
アフロのときと違って、別に“子ども”のレッテルに“ロボット”で対抗しなければならないような差し迫った理由もないのに。
「私はワンコインさっちゃん!」
「ほう」
「1500円あるぞ」
「おう。ちょうど1500円だ」
「――プッ!」
「まいどあり!」
アフロと違ってオヤジなら本気でノってきてくれるとわかっていたからですね。賢いこの子たちはきちんと相手を見ています。
ちなみにこのときの言いだしっぺは琴葉。カラーズのなかでも人を見極める感性が人一倍優れている子です。アフロのときは微妙な空気になるのがわかっていたのか、ひとりだけしれっとその場から離脱していましたね。ウラギリモノー。
そういう子がオヤジのときは逆にニコニコとワンコインさっちゃんのネタ振りを仕掛けているんですから、これで同じ失敗が繰り返されるわけがない。
なお、結衣だけは「なんでノっちゃうの」と、琴葉とさっちゃんの意図をつかめないまま微妙な表情で事の顛末を眺めていました。
この子の将来もちょっと心配です。ののかリーチ。
相対性理論
「お菓子屋さんになったらいつも賞味期限切れのお菓子食べれるのかなあ」
「それでもう飽きたからコレくれたんじゃないか?」
「そっか。じゃあ私も商店街のお菓子屋さんになろうかな」
「なったらくれ」
「あげるよあげるよー」
もういくつ寝たらお正月?
もういくつ寝たらお菓子屋さん?
楽しみなことはいつだって未来にあります。どんな楽しさなのか今は想像もつかないけれど、むしろ遠い遠い先にあるがゆえの輪郭のおぼろさがいっそう楽しみをふくらませてくれます。今日よりも明日、明日より明後日。遠ければ遠いほど楽しみは増えていきます。
「そうだ! タイムカプセルにしよう!」
「あ、それいい! したいしたいタイムカプセル」
「いいな」
「何年後になったら開けるやつにしよう」
「大人になったら開けようよ」
「10年後とか」
「10年後かあーー」
ピカピカのペンダント。モノクロ大佐のヒゲ。自分に向けた手紙。
想い出の品々は10年後どれほどの楽しさを蘇らせてくれるだろう。
当たりつきの棒。ミカンの種。10円玉。
大切な資産は10年後どれほどの価値になっているだろう。
クリアできなかったゲーム。今日の日付のチラシ。私たちの写真。
10年後の私たちはどれほどに成長しているだろう。
缶の大きさに比べてちょっと空隙の多い原資。
楽しみの定期預金は、10年後には缶いっぱいにふくらんでいてくれるだろうか。
「よーし、閉めるぞ。これで時間が止まった!」
――きっと大丈夫。だって、10年って想像もつかないくらい長い長い時間なんだから。
タイムカプセル、私も高校のときにやったなあ。
何も考えず学校の敷地内に埋めたものだから、いざ掘り出しに行こうとしたら安全管理上の都合で断られちゃったんですけどね。
いいぞ。深夜テンションでラリって書いた手紙なんぞそのまま土に還ってしまえ。土壌となって次世代の恥ずかしい少年少女を育むんだ。
「これ、パン食べてる私が写ってる一番古い写真なんだよ」
「ののちゃんパン好きだね」
「好きだよ。まあそのときはあんまり好きじゃなかったけどね」
「あ、考えてみたらこれちょうど10年くらい前だ」
10年。想像もつかないくらい長い長い時間。
今でこそ意味不明な熱いコダワリにのほほんとしているののかも、昔は今ほどこんなじゃなかった。顎の下まで涙をしたたらせるほど嫌そうに焼きそばパンを食べていた、ごく普通の女の子でした。・・・よく見るとどんな状況だコレ。
10年もあれば人は変わります。まだ大人じゃないののかですら10年で変わりました。10年前といえばヘタしたら結衣たちはまだ生まれてすらいません。斎藤もさすがに10年後はいつもの交番からいなくなっているでしょう。しょっちゅう工事ばかりしている上野公園は10年後いったいどんな姿に変わっているのやら。
「また10年後かあ。私何してんだろうなあ」
時間って不思議。こんなに頑丈そうな缶なのに10年土に埋めると腐るらしい。不思議。
――なんてのは子どもの時間感覚であってだな。
「10年後、取りに来るからね」
「長生きしてくれよオヤジ」
「長生きか。そうだな。・・・って、いやそんな歳取ってねえぞ俺!」
「でもオヤジだろ?」「オヤジだ」「オヤジだよね」「あはは」
まだ10年ぽっちしか生きていない子どもたちはオヤジがオヤジになってからの姿しか知りません。彼女たちにとってオヤジはいつでもオヤジです。
時間って不思議。子どもにとっては毎日が目まぐるしく変わっていくものなのに、なんだか大人はいっつも同じ姿のままちっとも変わりません。まるで子どもと大人とでは時間の流れ方が違っているかのようです。
タイムカプセルを埋める目印にちょうどいい。
「10年か。・・・すぐなんだろうなあ。へへ」
実際、時間の流れ方は違います。
こちらはまだまだ歳を取っていないつもりでも、子どもたちはちょっと目を離した隙にあっという間に育っていきます。
「いくら?」
「え?」
「1500円もあるぞ!」
「払うのか? お金」
「当たり前だろ!」
このあいだまでお金を払うなんて発想はなかったはずなのに。・・・まあ、お年玉が入ったからではあるんだけれど。
なんにせよ子どもというものはふとしたときにビックリするくらい成長した姿を見せてくれて、否応なしに時間の経過を感じさせてくれるものです。
大人と子どもの時間の流れ方は違います。大人は子どもの成長を見守りながらゆっくり老けていくものです。
時間の流れというのは相対的なものです。
「今年も店がんばれよ、オヤジ!」
「おう、カラーズもがんばれよ!」
「余計なお世話だ!」
10年。子どもにとっては想像もつかないくらい長い長い時間かもしれませんが、大人にとってはいつの間にか過ぎ去っていくもの。けれど、その先にどんな楽しみが待っているのか想像もつかないのは大人も同じだったりします。楽しみなことはいつだって未来にあります。
時間って不思議。
昨日も今日もせわしなく駆けまわっているキミたちは、10年後、いったいどんな姿に変わっているんだろう。
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