キボウノチカラ~オトナプリキュア’23~ 第9話感想 生命の絆。

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結婚してもやりたいことやればいいって。私が笑顔でいてくれることが一番だって。

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「フタリノキズナ」

大きな出来事

メインキャラクター:咲

目標

 積み重ねてきたものの重みから解放される。

課題

 咲はPANPAKAパンを継ぐと決めており、両親も歓迎している。婚約者もそのことは認めていて、むしろ彼のほうが近隣でレストランを開業することを考えているほどだ。

 咲はそんな彼らの信頼と優しさを裏切ることができない。
 本当はフランスでパンの修行をしてみたいと考えている。しかし、一度決めて、すでに周りからも承認されている人生設計を今から変えることは、自分を支えてくれているみんなを困らせるのではないかと思ってしまう。

解決

 咲が密かに悩んでいることに舞は気付いてくれ、うち明けることを促してもくれた。
 舞からすると、咲はもっと自分の思いを周りに伝えていいのだという。咲がみんなを大切に思っているように、周りのみんなも咲のことを大切に思ってくれているのだから。

 みんなの優しさは、咲を縛りつける重荷などではなかった。

ピックアップ

白杖と盲導犬

 視覚障害者が持つ白杖の先端には赤く塗られている箇所がある。これは杖を目立たせ、周囲に杖の存在をアピールするためのものだ。日本ではまだまだ白杖が視覚障害者を示すものと周知徹底されているとはいえないため、こういった”事情を知らない人でもなんとなく意識できる”ような工夫が図られている。

 盲導犬は飼い主をしっかりと誘導しなければならないため、愛玩犬用として一般的なチェーンではなく、ハーネスと呼ばれる持ち手を身につける。また、店舗内などにまで随行する都合上、なるべく毛などを落とさないための衣服を着るなど細かな配慮をしていることも多い。

フランスのパン文化

 フランスは世界有数の穀倉地帯。良質な小麦を最高の料理として味わう試行錯誤が古くから続けられてきた。
 たとえばバゲットがやたら細長いかたちをしているのは、香ばしくてパリパリしている皮をたくさん味わうための工夫だ。内側の柔らかい部分を多く食べたいときはブールと呼ばれる丸パンを焼くし、サンドイッチ用などで内側だけ欲しいときはローフ型を使ってパン・ド・ミー(いわゆる食パン)を焼くこともある。

 ヨーロッパのほとんどの地域に共通することだが、あちらの伝統的な食文化には惣菜パンや菓子パンに相当するものが無い。日本と異なり、ヨーロッパ諸国には”主食”と”おかず”という概念が無いためだ。
 日本の食習慣では炊いたごはんを食べるためにおかずを必要とする。その感覚の延長線上で、パンを食べるのにも味のついたおかずが欲しくなるため、最初からパンのなかにフィリングを詰めてある惣菜パンや菓子パンが発達することになった。
 一方、ヨーロッパ諸国におけるパンの立ち位置はそれ自体が一皿の料理である。彼らの食習慣ではごはん無しで肉料理や魚料理を食べるわけだが、それと全く同じ感覚でパンもパンだけでむしゃむしゃ食べる。彼らはパンを食べるのに別のおかずを必要としない。だから惣菜パンや菓子パンのような発想が生まれにくいわけだ。
 (このあたりの食習慣の違いは米と麦の穀物としての性質の違いに起因している部分が大きいが、すでに話が相当長くなっているので割愛)

 もっとも、彼らも軽食としてはサンドイッチをよく食べてきたように、パンと肉や野菜を合わせること自体に忌避感があるというわけではない。
 だから近年では日本の惣菜パンや菓子パンに着想を得て、街角のパン屋でも多様なフィリングを詰めたパンが気軽に買えるようになっているという。

ストラスブール

 フランスとドイツの国境にある都市。南北に延びる街道と大河川ライン川が交差する立地で、フランス最大の河川港もあり、物流の要衝として古くから栄えてきた。
 重要な都市であるだけに、歴史上幾度もフランス・ドイツ間の戦争の舞台となり、ことあるごとに国籍を変えられてきた経緯がある。必然、両国の文化も入り交じる。

 これまでのぞみたちが何度もつまずいてきた課題をさらっとクリアしてみせたエピソード。いよいよ終盤って感じがしますね。
 別にね。大人だからって何でもかんでもひとりでやらなきゃいけないわけじゃないんです。むしろ子どものころより大勢の人との人脈が築けているわけですから、やりようによっては子どものころより他人に頼れる余地が大きいかもしれないくらい。親の庇護下にいた時代と違って、黙っていても助けに来てくれる人はなかなかいないでしょうから、その点は自覚する必要があるでしょうが。

 両親も、それから婚約者も、いざ相談してみれば咲を尊重してくれる人たちばかりでした。
 これは咲がたまたま環境に恵まれていたというわけではありません。のぞみにとっての校長先生、かれんにとっての指導医、舞にとっての恋人、うららにとっての演出家など、相談のしようによっては良好な協力体制を築けそうな親切な人物はこれまでもたくさんいました。

 たぶんね。ベルも同じようなことで不必要に自分を追い詰めてしまってるんじゃないかと思いますよ。
 プリキュアたちがこぞって敵対したことでずいぶんくやしそうな顔をしていますが、彼女たちはそもそもベルの目的を知りません。知らないから助けてあげられないだけ。知らないから町を守ろうということにばかり意識が向いてしまうだけです。
 時計塔として長年町を見守ってきたなら、ベルだって知っているはずでしょう。プリキュアというのは基本的にお人好しなんだって。何かに困っている人がいるなら、本当なら助けてあげたいと思ってくれるはずの人たちなんだって。
 一言、相談してくれればいいのにね。

 ほんと、たったそれだけのことなのに。

幸せが縛りつけてくる

 「なんか、みんなの役になってない感じ。私たちもなんとかしないと」
 「――なんとかって?」
 「え?」
 「なんとかって、何?」

 咲の口から絶対に出てこなさそうな言葉が漏れ出しました。

 フラッピとチョッピを守る。ダークフォールと戦う。泉の郷も緑の郷も救う。たとえ地球が滅ぼされようと諦めない。
 どうしたらいいかわからないことなんてこれまで何度もありました。なんとかしなきゃいけないなら、なんとかするだけでした。悩むことではあっても、立ち止まるようなことではない。まして諦めることは絶対にない。
 「なんとかしよう」。それだけはいつだって確かな、疑うべくもない思いのはずでした。

 昔は。

 今、咲は自分にどこまでのことができるのか疑っていました。

 「ダメだー! 捏ねが足りなかったのかなあ。水の量ももう少し増やしてもいいかも・・・」

 思うようにバケットが焼けません。
 ストラスブールで修業したというあの本格派のお店の味に追いつくことができません。

 自分なりに努力はしています。
 できることは全部やって、諦める気だってさらさらありません。
 それでも手が届く瞬間が想像できない、圧倒的な高みがそこに見えている。

 なんとかって、何?

 これ以上どうすればいいの?
 誰が教えてくれるの?
 何をすればこれ以上先へ進めるの?

 わからない。知りたい。だけど――。

 勉強しにいく自由なんて、今の自分には無いはずで。

 「式場の見学っていつなら行けそう?」

 フランス留学の紹介サイトが婚約者からの連絡で上書きされます。

 今の咲には婚約者がいました。彼を放って、自分の勝手でフランスに行くことなんてできません。
 それから両親もいます。PANPAKAパンを継がなければいけません。

 もちろん、それがイヤだというわけではありません。
 どれも咲にとって大切な宝物。婚約指輪を指にはめるだけで嬉しい気持ちになります。このまま進む先の未来に幸せがあるんだと、当たり前のように信じられます。

 この幸せを守らなきゃいけない。

 だけど、今目の前にどうすればいいのかわからない問題があって、どうしたらいいのか勉強しにいくこともできなくて、だからいつまで経ってもどうしたらいいのかわからないままで。
 それでもなんとかしなきゃいけない。

 ・・・なんとかって、何?

 「言えるわけないよ。結婚を控えてるし、店継いでくれるってお父さんとお母さんも喜んでるし。・・・違うんだよ。子どものときとは。大人の責任ってやつ? お父さんとかお母さんとかカレのこと大切にするとか。大人になったのかもね」

 大人は好きなことができて、自由で、楽しそうって想像してた。

 私は幸せ者だ。家族に恵まれ、友達に恵まれ、仕事に恵まれ、愛する人にも恵まれた。
 私はきっと幸せになるだろう。
 だから、私は私を幸せにしてくれた人たちを不幸せにするわけにはいかない。

 幸せであることが、咲を束縛していました。

生命ってたくましい

 「・・・でもさ。咲、決めつけすぎじゃない?」

 言われてしまうのでした。

 「相手のことを考えるのはもちろん大事だけれど、自分がやりたいこと、思ってることを伝えるのも大事じゃない? 私は咲が決めたことなら応援するよ」

 どこかで聞いた気がする言葉。
 いいえ。

 「周りの人がどうだとか、周りの人が何を悩んでるとか気にしなくても、舞は舞でしょ。舞は舞が思ったとおりにすればいいんじゃない? 私も応援するからさ!」(第4話)

 それを言ったのは自分自身でした。

 咲は、舞のことなら自然とそういうふうに考えることができました。
 だって舞のことが大好きだから。いつだって舞の力になってあげたいと思っているから。

 全く同じことを、舞もそっくりそのまま考えているんだと、彼女はそう言っています。
 そして、きっと他の人たちも同じだろうと。

 「咲。まだ土が残ってるラピ。花が枯れても、まだ花を咲かせる土があるラピ」
 「舞。まだ空があるチョピ。鳥がいなくても、まだ鳥が飛べる空があるチョピ」

 「雲の向こうには月もあるムプ」
 「風もきっと吹くププ」

 「いつもお父さんが言ってた。全てのものに生命は宿る――」

 「この星に残ってる全ての精霊たちよ。全てのものに宿る精霊たちよ。・・・お願い! 私たちに力を貸して!!」(『ふたりはプリキュアSplash Star』第48話)

 かつて、咲と舞のプリキュアとしての戦いは、精霊たちを守るため、精霊たちの力を借りて戦うものでした。
 泉の郷にも緑の郷にも生命があふれていて、それらを消し去ろうとするダークフォールを相手にみんなで一丸となって戦っていました。
 咲と舞が一方的に守っていたわけでも、反対に一方的に守られていたわけでもなくて、全てはお互い様。お互いのためにお互いを思いやりあっていたのでした。

 「私たちは滅びの世界・ダークフォールから――、闇から生まれた存在。かつてはこの世界を、プリキュアを、光を消そうとしていた。でも今はこの世界にある美しいもの、楽しいものを見つけ、みんなに伝えている。人々に改めて気付いてもらうため。・・・世界は尊いものだと」

 ダークフォールとの最終決戦で力尽きた満と薫もまた、世界にあまねく精霊たちに命を救われたひとりでした。
 その奇跡を前に、泉の郷の王女・フィーリアは世界のあるべき姿を教えてくれたものです。

 「昔、世界は生命の存在しない暗黒でした。しかし、生命が生まれ、星となって暗い宇宙のなかでお互いを照らしだした。――そんな星たちのように、あなた型も互いを大切に思う心で照らしあって輝いているのです」(『ふたりはプリキュアSplash Star』第49話)

 「あなたが大好き!」って誰かが思ってくれている。そんな自分も「大切だよ!」って噛みしめ生きている。
 それが咲と舞が知る世界のありよう。”星空の仲間たち”。

 「・・・ごめん。子どものときとは、昔とは違うの」
 「違わない!! 大人も子どもも違わない! ――いつでも私を助けてくれる、咲は咲でしょ? どんなに重いものを背負っていたって進んでいける。自分を信じて」

 だって、私たちは昔も今も、ずっと一緒にいるのだから。

 「――フランスのストラスブールにパン工房があって、そのパン工房っていうのが歴史があってね。・・・私、留学したいの」
 「いいよ」
 「えっ!? ちょっと、ウソ? いいの? ――なんか、あっさりOKとか拍子抜けって感じ・・・」
 「反対するわけないでしょ」
 「咲の人生なんだから」

 フタを開けてみれば、幸せが咲の自由を束縛しているとか、そんなこと全然ありませんでした。
 咲を幸せにしてくれた人たちは今だって咲の幸せを願ってくれているし、咲が幸せに生きられることが彼らにとっての幸せでもある。だって、みんな好きでやっていることなんだから。

 そこに難しいことなんてひとつもありませんでした。
 ひとりで悩まず、みんなに相談してみることが解決の鍵。思えばそれは咲たちがプリキュアだったころから、いいえ、そのずっとずっと昔から変わることのない世界の真理のひとつ。

 案外、当たり前の世界に奇跡は満ちているのでした。

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    コメント

    1. 東堂伊豆守 より:

      日向咲の“ワガママ”を、咲の友人や婚約者や家族は、何故受け入れてくれたのか?
      咲の“ワガママ”に道理があったから?まあ全く道理がなかったらさすがに拒絶されたでしょうが……それ以上に、この人達が日向咲という人間を“愛して”くれていたことが大きな理由だったんだと思います。
      人間って、“愛して”いない相手の“ワガママ”は、たとえそれなりの道理があったとしてもなかなか受け入れないものでね。
      本作におけるうまくいった例といかなかった例を見比べてみても、相手がその元プリキュアを“愛して”くれていた(愛着を持ってくれていた)か否かがキーになっていることが見えてきます。美翔舞との別れ(発展的解消)を受け入れてくれた恋人や、春日野うららの“開眼”を辛抱強く待ってくれた演出家なんかは、舞やうららを“愛して”くれた人達だったし、逆に夢原のぞみの学校の校長や水無月かれんの指導医は、のぞみやかれんを「取扱いの面倒臭い部下」としか見てくれない人達だったわけで。
      さて、
      それでは本作のヴィラン、ベルは「人間を“愛して”いない」人物、なのか?
      いや、それだったらあの校長や指導医のように、人間の振る舞いをテキトーにあしらっとくか無視すればいいハズで――――たぶん「人間を78年の長きに渡って“愛し”あるいは愛そうと努力したものの、結局は人間達に“愛”を裏切られ続け、遂に人間への“愛情”を“憎悪”に反転させてしまった」人物、なんだと思います。
      “愛情”の反対は“無関心”。……しかし“愛情”の(ネガティブな)発展形である“憎悪”よりは、無害なだけむしろマシなのかもしれません。
      そういえば、ワタシノマチをこよなく“愛する”秋元こまちは、「どんな理由や原因があっても」町と町に住む人達を襲撃するシャドウ(とその元締ベル)を放っておけないと宣言なさってましたが――――これも“愛情”から生まれた”憎悪“で、いっそ“無関心”であったなら生まれることのなかった害意、なのでは……。

      • 疲ぃ より:

         「百年の恋も冷める」といいますが、こういうのって結局のところ程度問題なんだと思いますね。どんなに愛していてもできることとできないことはありますし、それでいて愛していれば相当な無茶でも聞いてあげたくなっちゃうもの。このふたつって実は同時に成り立つ話ですから。愛情の度合いによって許容の範囲が変わってくるっていう当たり前の話。
         そして、この観点でいうと愛って案外消耗材。どんなに大好きな人だってワガママ放題いわれすぎちゃうと優しくしてあげたくなくなっちゃう。「仏の顔も三度まで」ってことですね。
         みんな、ある程度は優しいんです。たぶん誰にでも。受け取り手が満足できる程度なのかどうかはさておくとして。

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