ひなた。不思議ですね。私のなかで“かわいい”がどんどん膨らんでいきます。
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(主観的)あらすじ
アスミは“かわいい”の意味がよくわからないようです。ひなたが頻繁に使う言葉ですが、いわれてみればどういう意味なのかうまく説明できません。特に“好き”と“かわいい”はよく似ているようで、どこかちょっと違う気がします。
ちょうどみんなでドッグランにお出かけする用事ができたので、アスミは犬たちとの触れあいを通して“かわいい”とは何なのか考えてみることにしました。
いろんな犬たちになつかれ、一緒に遊んでいるうち、自然と笑顔がこぼれるアスミ。けれど、それでもやっぱり“かわいい”は実感できません。ひなたにどの犬がかわいいのか聞いてみると、彼女はみんなかわいいと言います。
話題はやがてひなたの家で保護している仔犬のポチットの話へ。いつも何にでもかわいいと言うひなたですが、実はポチットが来たばかりのころはかわいくないと思っていたそうです。臆病なポチットは初め全然なついてくれなかったからです。けれど、どうしたら仲よくなれるかなと考え、毎日見つめつづけているうち、いつの間にかかわいいと感じるようになっていたんだそうです。
今日も今日とてメガビョーゲン出現。
戦いに巻き込まれ混乱するドッグランのなかで、アスミは見ました。腰が抜けて座り込んだ飼い主を見捨てず寄りそう犬の優しさ。傷つき倒れたひなたを守ろうと怪物に立ち向かうポチットの勇姿。アスミは、彼らに種族を越えた友情を感じました。
それこそがアスミにとっての“かわいい”という感情。抱きしめたいと、衝動的に思ったのでした。
かわいい(精選版日本国語大辞典 2006年版 小学館)
①あわれで、人の同情をさそうようなさまである。かわいそうだ。ふびんだ。いたわしい。
②心がひかれて、放っておけない、大切にしたいという気持ちである。深く愛し、大事にしたいさまである。いとしい。
③愛すべきさまである。かわいらしい。かわゆい。(若い女性や子どもの、顔や姿が)愛らしく、魅力がある。(子どものように)邪心がなく、殊勝なさまである。いじらしい。
④(物や形が)好ましく小さい。また、小さくて美しい。かわゆい。
⑤取るに足りない。あわれむべきさまである。やや侮蔑を含んでいう。
かわいい(広辞苑 第七版 岩波書店)
①いたわしい。ふびんだ。かわいそうだ。
②愛すべきである。深い愛情を感じる。
③小さくて美しい。
かわいい(大辞林 第三版 三省堂)
①深い愛情をもって大切に扱ってやりたい気持ちである。
②愛らしい魅力をもっている。主に、若い女性や子供・小動物などに対して使う。
③幼さが感じられてほほえましい。小さく愛らしい。
④殊勝なところがあって、愛すべきである。
⑤かわいそうだ。いたわしい。ふびんだ。
かわいい(明鏡国語辞典 第二版 大修館書店)
①幼さや弱さを感じとり、まもり慈しみたいと思うさま。また、そのように思わせるさま。
②外見・仕草・性格・行動様式などがほほえましく、愛情を感じさせるさま。愛らしい。愛くるしい。可憐だ。
③日用品などが小さくて愛らしい。
④どことなく心をくすぐるところがあって好感が持てる。
かわいい(新明解国語辞典 第七版 三省堂)
①親が我が子にいだく心情のように、どんなことがあっても無事に過ごせるように守ってやらなければならないという気持ちに駆られる様子だ。
②無心に親に甘える子供のように、表情やちょっとしたしぐさなどにほほえましさを感じ、いつまでも見守っていたいといった感情をいだく様子だ。
③小さくて頼りない(弱弱しい)感じがするところに親しみやすさをいだかせる様子だ。 同種の他のものと比べて小さい意。
pretty(オックスフォード新英英辞典 第二版 オックスフォード大学出版局)
①(of a person, especially a women or child) attractive in a delicate way without being truly beautiful
②(俗語) used ironically to express annoyance or displeasure
pretty(ロングマン現代英英辞典 第六版 ピアソンエデュケーション)
①a woman or child who is pretty has a nice attractive face
②something that is pretty is pleasant to look at or listen to but is not impressive
――とりあえずサッと引っぱり出せる範囲でありったけの辞書を引いてみましたが、いかがでしょうか。
こういうとき明解系の国語辞典はやっぱり頼もしいですね。辞書上での記載≠言葉の定義という前提で読む分にはこんなに参考になる辞書もなかなかありません。客観視信仰なんざクソ食らえ。
ともあれ、こういうふうに横断的に読んでみると、どの辞書もだいたい似たようなことを言っているようで、それぞれ微妙にニュアンスが違っていることがわかると思います。
言葉というのはそういうものです。みんななんとなくで自分なりの言葉の定義を持っていて、だいたいのニュアンスだけでお互いに伝えあってる。それぞれの胸の内にはその人だけの世界観や哲学を反映した語彙が育まれている。ときどき同じ単語の意味が周りの人と妙に噛みあわないこともあって、それがなんだか楽しかったり憎らしかったり。
私たちは言葉でもって自分の思いをまとめ、また、思いによって言葉をつくっていきます。
では“かわいい”とは何でしょうか。
カジュアルなジャケット姿もかわいい。フェミニンなサロペットもかわいい。着ぐるみパジャマだってかわいい。つまり“かわいい”って具体的にはどういうことさ。お前は何をもって“かわいい”の範囲を規定している。明らかにどれもこれも見た目の印象全然違うじゃねーか。ふわっとしすぎだろう。
“好き”に近い気もします。でもどこか違う気もします。
「かわいいと好きになるラビ!」
「それかわいいか?」
「好きだからかわいく見えちゃうペエ」
「“好き”“かわいい”“好き”・・・?」
まあね。“好き”からのアプローチだと循環論法に陥っちゃうよね、この話題。
だって、“好き”なのは自分自身の感情で、“かわいい”は相手から受け取る印象なので。それぞれの属する対象が違うから、ふたつ並べてみると当然に共存しちゃう。
でも、個人的にはいい視点だと思います。少なくとも私にとっての“かわいい”はそういう観点から定義されるものです。
ところで、ここ1ヶ月ほど続いているアスミの物語は、理解できない相手とも共存できるようになるための成長譚でした。もちろん今話もこのテーマを継承しています。
そういう文脈のなかであえて“かわいい”という言葉を語る意味。
言葉って、本当に属人的なものなんですよね。
(前置き長げーよ)
異質と共通
「ひなたは先ほどから『かわいい』と繰り返しますが、“かわいい”とは何ですか? “好き”とは違うのですか?」
やたら難しい質問が飛んできました。
“かわいい”は“かわいい”です。歩くとき「まず右膝を曲げて、左足を前に伸ばして、右足を蹴って左足へ重心移動して――」などといちいち細かい動作内訳を考えないのと同じように、“かわいい”という言葉を使うときも毎回その意味するところを明確に言語化することはありません。言葉の定義というものは辞書と違ってふわっとしているものです。
どういうものが“かわいい”なのか改めて聞かれるとチト困る。
こういうの、外国語を学ぶうえで多くの人が地味につまずく定番らしいですね。
“かわいい”を元々知っている相手になら、自分のなかの“かわいい”のニュアンスは簡単に伝えることができます。「私はこういうのをかわいいと思う。あとこういうのとか、こういうのとか」 適当に具体例をいくつか挙げてやれば、大抵の人はそのなかにおおまかな共通項を見出して、「なるほど。この子はこういうのをかわいいと思っているんだな」と納得してくれるはずです。
ですが、アスミはそうじゃありません。“かわいい”自体をまず理解していません。なぜか“かわいい”と“好き”の違いなんてものに引っかかっています。普通の日本人ならその差異はニュアンスで無意識に処理するものなので、逆にどうしてそんなところが気になるのか理解できません。
ここで説明に困るのもまた、自分と相手が同じものを共有できていない、どこか異質な者同士ならではです。
「アスミも“かわいい”を実感できたらわかるんじゃないかしら」
その対応は正しいでしょう。さすがは自分と相手との距離感とか計らずいきなり本題から解決しようとするパワー系。とりあえずやってみる姿勢が清々しい。
根本的な部分から共通理解を得られていない相手なら、ひとまず体験だけでも共有してみるに限る。
「ね。かわいいって思うっしょ?」
「うーん・・・。あ。――ラテをこんなに喜ばせてくださって、感謝いたします」
ま、そうすんなりとはいかないでしょうけどね。
そんなわけで、お互いの共通体験をさらに増やすべくドッグランに遊びに行く展開になるわけですね。
「ふーむ。ちょっと緊張してるね。――最近妹さんが生まれたんだよね? 急に新しい家族が増えて緊張しているんだよ。な」
「どうしてあそこまでわかるのでしょう。言葉を交わしたわけでもないのに」
「相手のことを知りたーいって思って、よーく見るとわかっちゃうんだって。パパ言ってたよ」
ちょっとくらいうまくいかなくたって、とにかく回数を重ねて経験を増やしていくのが今話のテーマを解決するうえでは正攻法。わからないことがあるならわかるようになるまで学ぶまで。“わかる”感覚が増えたらそれだけ誰かの話に引っかかる心のフックも増えるはず。それこそが体験を共有する意義。
そういえばひなたも成長しましたね。ちょっと前まで家族の話をするときは自己卑下とセットだったのに、今回は優秀な家族のことを誇らしげに語り、そして自分なりのペースでがんばっていることに胸を張れるようになりました。
「でもポチット、恐がらないかしら」
「大変だと思う。けど、少しずついろんなことに慣れてほしいから、パパとお兄にも相談して決めたんだ」
周りと自分とで歩む速度がちょっとくらい違っていたって構わない。今はまだお姉さんと同じくはつくれないジュースだって、練習を重ねたおかげで少しはお姉さんの味に近づけているわけで。うん。成長できてる。
「ひなた、最近は病院のお手伝いしてるんだぜ」
「すごいわね、ひなた」
「お手伝いっていってもほんの少しだよ。前は『絶対ムリだ』って思ってたけど、今は私にもできることがあるかもって思えて」
足りないものは増やせばいいだけ。失敗したって、遅れてたって、それで諦めなきゃいけない理由なんてない。歩みを止めなきゃ進んでいける。マイペースマイペース。
「ちゆもポチットが“かわいい”ですか? ・・・“かわいい”はずなのに、私は何も感じません。なぜなのでしょう」
なあに。ひなたなんてその苦い焦燥感を14年間ほど味わって生きてきましたよ。これを読んでいるオッサンオバサンどもならもっとたくさん。みんなおんなじおんなじ。
「ポチットと仲よしですよね?」
「今はね。初めの頃は大変だったよ。全然心開いてくれなくて。逃げるし、避けるし、『かわいくなーい!』って思ってたな」
「それがどうして“かわいい”になったんですか?」
「なんでかな・・・。どうしたら仲よくなれるかなーっていっぱい考えてたら、いつの間にか『かわいい!』って思ってた!」
知らない自分に気付いて
「アスミ。どうしたんだ?」
「ニャトランとひなたはここにいる犬たちのどれが“かわいい”と思いますか?」
違う。そうじゃない。
ニャトランがアスミに声をかけたのは、アスミが珍しく楽しそうに微笑んでいたからです。
あれは絶対に“かわいい”について思い悩んでいる顔じゃありませんでした。だからこそ、ひなたたちはアスミが犬たちに好かれていた光景をスッと思い出したんです。
今話の結論は割と最初のほうからちょいちょい画面に出てきています。
「“かわいい”と思うかどうかは人それぞれだから」
「『人それぞれ』。ということは、人ではない私には“かわいい”はわからないのですね」
「人それぞれっていうのは各自色々って意味で。大丈夫、そのうちわかるわよ」
辞書での“かわいい”の解説が千差万別であるように、“かわいい”とはどういう意味なのか、言葉の定義の話自体は今話においてぶっちゃけ割とどうでもいいことです。
「ずっと考えてたんだけど、“かわいい”って、相手を見ているうちに思わず守りたくなる、そんな気持ちだと思うの」
こう話しているちゆなりの定義自体、はっきりいって直前までひなたが語っていたポチットとのエピソードには大して係っていないですしね。
ちゆにはちゆなりの、ひなたにはひなたなりの、のどかにはのどかなりの“かわいい”がそれぞれあります。
「下等生物ではありません。彼らは人間と共に生き、笑い、互いを思いやっている。その姿はとても、とても抱きしめたくなる姿です」
「ポチット。今さらですが、私はあなたとお友だちになりたいと思っています。人とは違う身ですが仲よくしてくれませんか?」
だから当然、アスミが自分の体験から見出した“かわいい”の定義もちゆのものとは少し違います。
同じ体験を共有しているので大まかなところは共通している部分もあるのですが、ちゆの“かわいい”の定義には相手をまもり慈しみたいというニュアンスが強く、一方アスミの“かわいい”には異種族であっても対等な関係になりたいという親愛の思いが色濃く出ています。
ちなみに、私のなかでの“かわいい”の定義もふたりとは違っています。
私にとっての“かわいい”はむしろ“好き”とほぼ同義です。その人の見せる愛らしいふるまいも、誰かを楽しませようとする面白い側面も、一生懸命努力するカッコいいところも全部ひっくるめて“かわいい”です。私は私の好きな人のことを「かわいいなあ」と思います。
ふたつの言葉の違いは主体が相手にあるか、自分にあるかだけ。“私は”かわいいと感じる人のことが好きだし、“その人が”かわいいから私は好きになるんです。
「かわいいと好きになるラビ!」
「好きだからかわいく見えちゃうペエ」
まさにこれ。ちえりちゃんはかわいいなあ!(発作)
言葉というものは意外と属人的で、それぞれの胸の内にある思い次第で千変万化するものです。
今アスミが描いている物語は、理解できない相手とも共存できるようになるための成長譚。だからこそ、アスミにとっての“かわいい”の定義には、普通の辞書にはまず載っていない“異種族への親愛”というニュアンスが色濃く宿ります。
それぞれ違った言葉の定義を持っているのに、私たちがその言葉でお互いコミュニケーションを取ることができているのは、ある程度までなら共通体験を共有できているからというだけに過ぎません。(※ もちろん、その共通体験を築くことこそが異種族との友好のために役立つ場面も多々あるわけですが)
まあ、そのあたりの話はこのくらいにして。
「アスミ。どうしたんだ?」
アスミは今日まで“かわいい”を知りませんでした。
誰かと、特に異種族と友達になりたいという感情を表す言葉を、これまでの彼女は知りませんでした。
「ちゆもポチットが“かわいい”ですか? ・・・“かわいい”はずなのに、私は何も感じません。なぜなのでしょう」
では、“かわいい”に相当する感情をこれまで彼女が持ちあわせていなかったのかというと――。まさかそんなわけはありませんよね。
あなたは何も感じていなかったんじゃないんです。ずっと感じていた思いを表現するための言葉を知らなかっただけなんです。
今日も犬たちが遊んでいるのを見て笑っていたじゃないですか。
「あ・・・。これは何でしょう。心が、私のなかの地球のパワーが、高まり、渦巻き――。いいえ。苦しいのではありません。よくわかりませんが――。それでもあなたの手を取りたいと、どうしようもなく思ったのです」(第20話)
いつかのあの日も、あなたは自分のなかの言語化できない不思議な衝動によって体を突き動かされていたじゃないですか。
言葉はその人の思いによってつくられ、また、思いはその人の学んだ言葉によって表現されます。
アスミは最初から“かわいい”を知っていました。ただ、それを正しく表現する術を知らなかっただけ。自分で自分の本当の姿に気付けずにいただけ。
「ね。かわいいって思うっしょ?」
「うーん・・・。あ。――ラテをこんなに喜ばせてくださって、感謝いたします」
今話冒頭であなたのなかに湧きあがった思い。ラテを見ていて、ラテのためにふとお礼を言いたくなったあのときの思いこそが――。
きっと今ならわかるはずです。
あなたはラテを“かわいい”と思ったんですよ。
アスミはラテを守るという使命を持って生まれました。
けれど、今の彼女がラテと一緒にいる理由は、けっしてその使命のためではありません。アスミはアスミ自身の自由意志によって今ここにいます。
アスミとラテは一緒にプリキュアをして、それぞれの願いのためお互いに支えあう、かけがえのないパートナーです。
コメント
ヌートリア。
人間の都合で飼われ、人間の都合で捨てられ、人間の都合で駆除される……「下等生物」。
そんな下等生物がメガビョーゲンの種を植え付けられてアルジャーノン化したビョーゲンズ元構成員・バテテモーダ君。……結局、彼は人間のみならずビョーゲンズにも、飼われ利用された挙げ句に捨てられてしまうわけですが。「バテテモーダは二度死ぬ」
ただ、全ての生物・全ての命を見下し蔑んでいるらしいビョーゲンズと違い、生物の扱いに関してダブルスタンダードを臆面もなく振りかざす人間は……あれ?ビョーゲンズよりタチ悪くね?
……てなことに風鈴アスミが気付いてしまったときーーーーーー人間の精神の温かさ・美しさだけでなく、冷酷さ・醜さをも学んだとき、彼女は如何なる反応を示すのか。「卓越した学習能力と白紙の意識を持って生み出された」という、どことなく脳手術直後のチャーリィ・ゴードンと重なる部分も持つアスミの今後の展開が大いに気になるところではあります。
(もしかすると、アスミとバテテモーダの関係は「出会いの運命がズレてしまったチャーリィとアルジャーノン」なのかもしれない。てことは最終話で再び白紙に戻されるアスミが「どうかついでがあればバテテモーダのおはかに花束をあげてください」とか言い残すんじゃ……)
なあに。人間のすることなんて、公務員にすら融通をきかせることを求められるんです。あらゆる物事に画一的なのはシステム(道具)だけで結構。
たとえば日本国憲法に国民の平等を謳う条文がありますが、全ての国民を“平等に”扱うと障害者が社会からドロップアウトしてしまいます。車椅子利用者に配慮して健常者に不必要な設備を整えたり、生徒5~6人に対して担任教諭が3人も付く特別学校を設けたり、ほどよくえこひいきかますくらいでちょうどいい。
どうしても軋轢は生まれますけどね。そこは人間なんだから各自思いやりを持ってください。
バテテモーダは知能を獲得したアルジャーノンぽくもありますが、アスミが得たのは知能じゃなくて感情なので、果たしてチャーリー的かどうか。たしかにチャーリーさんも知能獲得後にいろいろな感情を学びますけどね。でも、クライマックスで知能じゃなく感情を喪失していくオチになったとしたら・・・、重いなあ、おい。
見る人によっては「白紙より酷えや」ってなるあの小説のオチよりキツくありません?
視聴後改めて可愛いとは何かを自分なりに考え、とりあえず「警戒心を忘れさせてくれる様」という結論に至りました。
ここに多少なりとも武力的要素を加えたのが「かっこいい」、あるいは芸術的要素なら「美しい」という言葉になるんでしょうか。
そういえばプリキュアの敵キャラって、大半は残酷なことしてるのに人間味やコミカルさが残る可愛らしい連中ですが、たまーにいる終始えげつないことするだけのタイプは「怖い」と感じてもあんまり「可愛い」とか「好き」だと思えないですね……。
しかし一般的には可愛いものの代表格・赤ちゃんって可愛さと真逆だろうホラー素材としても扱われるような。
なんとなく、この辺突き詰めていくと面白いかもです。
赤ちゃんの泣き声には人を本能的に不安にさせる作用があると聞きます。真っ先に守らなきゃいけない存在ですもんね。だからこそ、長々と他人の子どもの泣き声を聞かせられるとイライラするのだとか。
ホラーによく使われるのもその作用を狙ったものなのかもしれません。・・・と、ここまで書いて思いましたが、ホラーに出てくる赤ちゃんってそういえばだいたい笑ってますね。
――ギャップ萌えか!(得心)
それにしても、こういう個人個人の言葉の定義の話をしていると、改めて言葉は生きているんだなって感じがしますね。そりゃ時代ごとに辞書上の意味すら変わるわ。