ヒーリングっどプリキュア 第45話感想 大好きなやりたいことのために私ができること。それが“      ”。

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でも、そういうのも全部丸ごと、生きてくって感じ!

(主観的)あらすじ

 最後の戦いからしばらく後。
 のどかたちはヒーリングガーデンに遊びに来ていました。久々に会うラビリンたちはもちろん、戦いを手伝ってくれた大人のヒーリングアニマルたちや、プリキュアに憧れる次世代にヒーリングアニマルたちから、のどかたちは大人気! だけどただひとり、サルローというヒーリングアニマルだけはのどかたちを歓迎してくれませんでした。

 サルローが言うには、人間はビョーゲンズと変わらないんだそうです。人間は自分たちが繁栄するため、自然環境や他の生きものたちに迷惑をかけるかたちで進化してきました。このままではいつか地球を蝕む病原として無視できない存在になりかねず、未来を考えるならヒーリングアニマルが浄化するべきだと、サルローは主張してきました。

 それは一面の事実です。のどかたちは人間の営みの負の側面を否定できる言葉を持ちません。それを裏付けるかように、のどかたちがおみやげとして持ち込んだすこやかまんじゅうが原因となって、ヒーリングガーデンにメガビョーゲンが現れる事態を引き起こしてしまいました。

 だけど、忘れてはいけません。のどかたちは今の自分では叶えられない理想を叶えるためにプリキュアに変身しました。プリキュアとは未来の先取りです。人間のなかからプリキュアが現れるということは、人間は自分たちの現状を良しとせず、未来にかけてもっとステキな理想を叶えていこうという意志を持っているんです。
 のどかたちのあとにもまた新しいプリキュアが生まれました。どうやら人間はまだ未来を諦めていないようです。
 その諦めない意志をもって、サルローはもう一度人間を信じてみようと思ってくれたのでした。

 ダルイゼン及びネオキングビョーゲンとの戦いは『ヒーリングっどプリキュア』が1年間積み重ねてきた物語とまるで関係ない論点から描かれていたので、物語全体としての文脈を綴じる役目は今回の最終話が一挙に引き受けるかたちとなりました。

 久しぶりにプリキュアたちの大人になった姿が描かれない最終話でしたね。
 必然ではあります。ちゆやひなた、アスミはともかく、のどかの成長物語はまだ完成していませんから。
 自分に優しくなるという目下の達成目標はクリアしました。だけどその代わりに、みんなに優しくありたいという当初の理想に対する答えはまだ出せていません。元々現実的には達成不可能な理想ではありましたが、それにしてもある程度の自己矛盾を内包したままなのが現状です。のどかはまだ胸を張って「私はみんなに優しくできる!」と言える子には育っていません。
 たとえば彼女がお医者さんになる未来が描かれたとして、もしそんな彼女のもとに重篤な病気を患った犯罪者が運び込まれてきた場合、彼女がどういう決断をするのか、私たちはまだ想像することができないでしょう。のどかにはまだ、ひとりの人物としての信念が完成していません。きっとその成長は物語が終わった後でなされることになります。だから、子どもの目には人間の完成形として写ってしまうであろう、大人の姿を描写することはできません。今はまだ。

 これに対して、のどかの成長物語は“諦めないこと”を当座の結論としました。
 諦めなければまだ未来は変えられる。
 諦めなければまだ成長を続けられる。
 そういう物語があってもいい。子どものために未来の展望を示すにはむしろふさわしいテーマ性かもしれない。少なくとも普遍的な価値を持つ思想であることは間違いない。
 なにせ、そもそもプリキュアシリーズ自体が「諦めない、負けない」をひとつのテーマとして15年も続けられてきた物語なのですから。

 「サルロー。あなたの言うこともわかるわ。私もいざというときが来たら人間を浄化する覚悟はあります。でも、人間に深く関わった者として言わせてもらうと、人間には未来を変える力もあると信じたいのです。――私には、さっきの見慣れぬプリキュアの存在が、その希望のように思えるのよ」

 花寺のどかの物語は、プリキュアの精神とともに、夏海まなつへと引き継がれました。

風鈴アスミの“大好き”

 「すみません。あのすこやかまんじゅうを攻撃するなど、私には、とても・・・」

 ギャグっぽく描かれていますが、アスミというキャラクターを表すうえではとても大切なセリフです。

 今話はサルローの手厳しい言葉がのどかたちを悩ませることになり、また、バトル中も6体のメガビョーゲン以上に思想戦を仕掛けてくるサルローこそが難敵となっていました。
 ですが、ぶっちゃけそんなのアスミには関係ありません。

 「わからんか? 人間など、もはやビョーゲンズと変わらんからだ。自然を破壊し、動物の命を奪う。――ある程度は生きるために必要なことだ。それが生きるための進化でもあるのだろう。だが、限度というものがある! ビョーゲンズだって進化の果てがキングビョーゲンだ。俺に言わせりゃ、ヒーリングアニマルは人間だって浄化していくべきなんだ。この星のためにな」

 長々と典型的な環境主義者の悲観思想を語られたアスミの感想。

 「そういう考えもあるのですね」

 ばっさりです。
 完全に他人事です。

 実際アスミは人間じゃないですからね。人間の罪を質されたところで関係ない話ではあります。
 一応、どうやらヒーリングガーデンも地球の一部ではあるようなので、(環境保護がサルローにとって他人事ではないように)アスミにとっても全くの他人事というわけではないはずなのですが、そちらの観点からもアスミは一切興味を持ちません。

 のどかたちが環境論を語りあって暗い表情を浮かべているときもアスミは一切口を挟みません。
 バトル中にサルローの口撃が飛んできたときもアスミは反応しません。そんなことよりもすこやかまんじゅうのことのほうがはるかに重大な関心事です。

 サルローの主張は、本当に、一切、アスミにとってどうでもいい話なんです。

 「私はラテ様を助けたいというテアティーヌの願いによって生まれました。願いを聞き届けた地球が、風のエレメントを使って私を生み出したのです」(第20話)

 「いけません。私はお手当てよりラテ様のほうが大切なのです。ラテ様をお守りしたいのです」(第20話)

 アスミは生まれついての使命を持たされて生まれてきました。
 けれど、それとは無関係にプリキュアとしての戦いに身を投じることになります。

 「お願いラテ! 地球さんからもらったパワー、ラテを守るためより、お手当に使ってほしいラテ!!」(第20話)

 大切なラテにお願いされたからです。

 「あ・・・。これは何でしょう。心が、私のなかの地球のパワーが、高まり、渦巻き――。いいえ。苦しいのではありません。よくわかりませんが――。それでもあなたの手を取りたいと、どうしようもなく思ったのです」(第20話)

 自分でもよくわからない感情の奔流によって、ラテの願いに応えたいと思ったからです。

 そう。アスミは最初ラテの願いのために戦っていました。ただ単に、自分の使命最優先だったところが、ラテのお願いのほうが優先順位で上回っただけのことでした。
 しかし、どうしてラテのお願いのほうが優先順位が高くなったのか、それを優先したいと思った自分のなかの思いを学習していく過程で、アスミは大きく成長していきました。

 「この世界にも、私の心のなかにも、まだまだ知らないことがたくさんありそうですね」(第22話)

 「私はラテをお守りするために生まれました。私はラテがいればそれで充分なのです。・・・すみません。私、本当はのどかたちと一緒に花火大会に行きたかったのです」(第26話)

 あのときラテの願いを優先したいと思った、その思い自体は、一方で自分のものであったのだと。
 気づきます。得心します。やがて、自覚することになります。

 「ラテ。ありがとうございます。――ですが、今回ばかりは私の決意は変わりません。たとえラテの思いに背くことになっても」(第43話)

 自分は、最初から自分の思いにのみ従って行動してきたのだと。
 使命に従っていたのも、ラテの願いを叶えようとしたのも、全部自分がそうしたいと思ったからなのだと。全て、自分が大好きに思うものたちへの自分の希望によるものだったのだと。
 私の心も、体も、私のもの。
 そこを自覚したアスミは、今度はラテのお願いにすら縛られることがありません。

 そんな子が、まして、サルローなんかの言葉に縛られるはずがありませんよね。
 そんなものよりも自分がすこやかまんじゅうを大好きに思う気持ちのほうがはるかに重大事です。

 「サルローさん。私たちも一緒に考えてみませんか」

 アスミの立場からサルローに言えることがあるとすれば、自分が問題だと思っているのなら、それは他人事ではなく自分事だろうという指摘だけ。
 原因が何であれ、自分が困っている問題をどうして人間にだけ責任を押しつけて自分は知らんぷりしようとしているのか。それでいったい何が解決するというのか。

 風鈴アスミとはそういうキャラクターでした。
 『ヒーリングっどプリキュア』は、個人的な理想を叶えるため超常的な力を得てまで努力しようとする女の子たちの物語。その大きな物語の一端において、アスミは自分の思いがあくまで自分だけのものであることを示してみせました。

沢泉ちゆの“やりたいこと”

 「これ以上ひどいことにならないように。最悪の未来を避けるために。私たちにも何かできるはずよ」

 ちゆが「できる」と言うのなら、彼女は「やる」のでしょう。
 ちゆはとても欲ばりな子です。自分にできることは全部やろうとしますし、できないならできるようになるまで努力する愚直な子です。恐ろしいほどのパワー系です。
 彼女が紡いできた物語は、そんな、「できない」を「やりたい」で押し通していく英雄譚。

 「おそらくあれに野生のナノビョーゲンが付いていたんだろう。人間がナノビョーゲンを持ち込んだんだ!」
 「あっ。・・・だったらなおさら、私たちが責任持って浄化しなくちゃ」

 本来、『ヒーリングっどプリキュア』はそういう作風ではありません。

 「グレースはテラビョーゲンをつくりたいと思ったのですか? ――そうです。あなたはそんなこと望みませんよね」(第29話)

 「のどかが自分を犠牲にしなきゃいけないなんて、そんな義理も責任もないラビ」(第42話)

 『ヒーリングっどプリキュア』においてプリキュアたちが負うべき責任は、あくまで自分がしたいと思ったことに必要な範囲までです。それ以外の無用な責任を負うことは不幸なことで、責任を押しつけてくる相手を逆に糾弾すべき話ですらあります。

 ですが、ちゆはここに至ってサルローの言うことをすんなりと自分が負うべき責任として受け入れてしまいます。

 「怪物は私も恐いわ。でも、それ以上に大切なものを守りたいの。どうしても守りたいの! あなたは?」(第2話)

 ちゆは、自分事だと思った問題の解決を他人に任せたくないと考える子だからです。自分のことは全部自分でやりたい。自分が好きなものには全部自分で携わりたい。たとえ目の前でプリキュアが戦ってくれていようと、自分もプリキュアになって温泉旅館を守りたいと考える子です。
 ある意味究極に自己完結型で、徹底した欲張りさん。

 「そうね・・・。人間が便利に暮らすために、空気や海を汚しているのも事実よ」

 そんな彼女が、環境問題を自分たちのせいだと認識しました。だったらちゆはやるでしょう。たったそれだけの、普通の人なら「悪いことしてるな」くらいの感想で実際の行動にはなかなか移さないような小さな罪悪感であってすらも、ちゆという向上心の塊にとっては充分な動機付けになりえます。

 「ちゆはイップスかもしれないペエ! なのに今日も練習してるペエ! ――お願いペエ! のどかとひなたからも『無理しちゃダメ』って言ってほしいペエ!」(第8話)

 「がっかり。あなたのハイジャンへの思いってそんなもんだったんだ。大会で優勝したらハイそこまで、ってこと? あんなすごいジャンプして、嬉しかったらそこから先は別にいい?」(第34話)

 「ちゆがハイジャンプをやりたいのなら私も応援したい。旅館のことは気にしなくていいのよ」(第38話)

 誰もがちゆがここまでがんばる子だとは想像していませんでした。今の時点ですでに誰よりも努力している子です。このうえさらに、まだまだもっと努力したがっていると誰が想像できるでしょうか。

 「気がついたらそこは青一色の世界だった。空と海が溶けあって、ひとつになっていて、このまま海を越えて空まで行けそうな。――空を、泳いでみたいって思った」(第8話)

 彼女が胸に抱いているのは果てない夢。現実的には絶対に叶うはずがない、ありえない理想のイメージ。それを、少なくともちゆだけは大真面目に追いかけています。
 やりたいことは全部やる。叶わない夢だろうが絶対に叶えてみせる。バカげたパワー系の発想。誰にも邪魔なんかさせない。

 「生きているかぎり、戦いは終わらないってことね」

 前話ののどかとは違い、なんだか妙に嬉しそうに戦いが続いていく運命を語ってみせるちゆ。
 無限に努力したいと思う彼女は、無限に努力できる機会が増えていく運命を苦痛とは感じません。これまでたくさんの困難にぶつかり、そのたびにできることを増やしてきました。試練を訓練に変えていきました。これからもちゆはそうやって生きていくのでしょう。バカバカしいほどの力押しで。

 沢泉ちゆとはそういうキャラクターでした。
 『ヒーリングっどプリキュア』は、個人的な理想を叶えるため超常的な力を得てまで努力しようとする女の子たちの物語。その大きな物語の一端において、ちゆは自分の責任だと思うこと全てにまっすぐ向きあい、むしろより良い未来への道標として活用していくポジティブさを示してみせました。

平光ひなたの“できること”

 「こんな失敗やらかすとか、思ってもみなくて・・・」
 「今さら何だ! 災いを持ち込むのはいつだってお前ら人間なんだ!」

 ひなたは失敗ばかりの粗忽者でした。今だって粗忽者です。別にわざと失敗したいと思っているわけじゃなくて、むしろ自分なりに失敗しないよう気をつけてきたつもりでしたが、注意散漫な彼女はいつだって思いもよらぬところでやらかしてしまいます。おそらくひなたの粗忽ぶりは一生治らないでしょう。
 失敗が常に予想外の方向から飛んでくるので、彼女にはやらかしが本当に自分のせいかそうじゃないかの判断すらつきません。

 「なあ、ひなた。俺と一緒にプリキュアにならないか。あの怪物。ビョーゲンズから地球を守るんだ。お前のなかの好きなものや大切なものを、お前の手で、守るんだよ。ひなた。お前ならできる」(第4話)

 そんなダメダメな彼女を変えてくれたのは、「お前ならできる」の言葉でした。
 また失敗するかもしれない。また誰かに迷惑をかけてしまうかもしれない。そんな失敗を恐れる気持ちから自分自身をがんじがらめに縛りあげていたひなたを、「できる」の一言が解放してくれました。

 「いや、だから・・・。見世物になる前に保護するとか、迷子ならおうち探すとか、早くお兄に相談!って思ったら慌てちゃって・・・」(第4話)

 実際のところ、ひなたは自分で思っているほどネガティブな子じゃありません。失敗を恐れてはいても、自分で思っているよりも全然自重できていない子でした。失敗を恐れて自縄自縛になっていながら、困っている人を見つけたら、考えなしに自分で縄抜けしちゃいます。だからこそいくら失敗してもまた失敗を繰り返すわけですが。

 「えへへ。ニャトラン、私に言ってくれたじゃん、プリキュアになるとき。『好きなものや大切なものを守るんだよ』って。――守りたいんだ。ニャトランの気持ち」(第18話)

 その意欲を、買ってくれる人がいました。ほとばしるお人好しぶりを褒めてくれて、暴走列車にブレーキをかけないまま、失敗を失敗のまま垂れ流しながら、それでも走りつづけることに価値を見出してくれるパートナーがいました。

 実際、それをみんなが喜んでくれました。
 失敗だらけのひなたのがんばりを認めてくれるのは、なにもパートナーになってくれた人がたまたま酔狂だったからではなく、それが普遍的に望ましいとされることだったからなんだと、やがてひなたは気づくことになります。
 ただ、自分が過剰に失敗を恐れすぎていただけなんだと。

 「ひなたちゃんのジュース、おいしかったよ。めいさんのお店のジュースとは違ったかもしれないけど、おいしかったよ。ひなたちゃんがつくってくれたって聞いて、私、嬉しかった!」(第13話)

 本当はいつも周りの人はひなたのしてくれる親切を喜んでくれていて、ただ、ひなたがその声を聞かずに勝手に自分を責めていただけでした。

 「ええっ! ウソ、優しい! めっちゃいい人!」(第1話)

 だって、ほら、ひなたの周りにいる人はみんな優しい人ばかりだったじゃないですか。
 あれはひなたがいい子だったからこそ、みんなもひなたに優しかったわけで。

 ひなたが気づくべきことは、実はたったそれだけのことでした。
 たったそれだけのことでひなたの目の前にある世界は180度反転して見えました。

 「前の私ならビビって『やめよう』って言ってたと思う。『無理』って諦めたと思う。でも、やってみたら何か変わるってわかったから! チャンスだもん。行ったほうがいいと思う」(第39話)

 そういえば、ここに至って未だにひなたは正しい自己評価ができていなかったんですね。
 ひなたは口では「やめよう」「無理」と言っていたかもしれませんが、結局我慢しきれずやる子でした。やらかす子でした。失敗するとわかっていて失敗する道に突っ込んでいくアホの子でした。
 気持ちのうえではともかく、行動パターンは今も昔も何も変わっていません。ただ、失敗を忘れるアホじゃなくて、失敗を恐れないまっすぐな子になっただけ。

 「人間が地球にひどいことしてるとか、私全然わかってなかったけど、でも! 今からでも遅くないよね!」

 人間が罪深いからといって、それが何だというのか。黙って死ねというなら、まあ、どうしようもないかもしれません。滅亡する運命を受け入れるか、ヒーリングアニマルと戦うのか、誰も選びたくない2択を選ばなきゃいけなくなるのかもしれません。
 ですが、サルローはそこまで言っていません。人間は浄化されるべきだと口では言っていながら、実際にはまだ行動に移していません。
 だったら、まだ抗う価値はある。
 自分に何ができるか考えてみる価値はある。

 まだやりたいと思えることがあるのなら、やるべきだ。どうせ私にはいつだってできることが残されているんだから。

 「地球のお手当て、まだまだ続くもんね!」

 平光ひなたとはそういうキャラクターでした。
 『ヒーリングっどプリキュア』は、個人的な理想を叶えるため超常的な力を得てまで努力しようとする女の子たちの物語。その大きな物語の一端において、ひなたは何があっても自分の理想を追求するべき意義を示してみせました。

花寺のどかは“諦めない”

 「ごめんね、みんな。私たちのせいで・・・」

 はっきり言ってしまえば、私はサルローの言う環境問題自体にはまともに論じる価値がないと思っています。あまりにも視点が一方的で、別視点からの検証を欠いていて、必要以上に感傷的で、相手を痛めつけたいという害意ありきで、そのくせ、だからどうしたと、だからどうしてほしいのかという発展性がありません。
 クソくだらない。バカバカしいことこのうえない。こんな無価値な感情論、マジメに聞いてあげたところで自分が傷つくばかりで誰も得しません。

 それを大マジメに受け取ってしまうのが花寺のどかという子です。
 のどかは優しい子ですから。結局のところ、この悪癖にだけは何の掘り下げもありませんでした。

 「キングビョーゲンにも言われた。人間もビョーゲンズと変わらないって」

 「私たち人間も地球にひどいことしてるんだよね・・・」

 最終回に至っても未だにこの手の“どっちもどっち論”に自分なりの答えを示せない、プリキュアにはちょっと珍しいタイプの主人公。
 のどかは優しくて、そのうえさらに難儀なことに、公平な子でもありますから。ダルイゼンのときはあまりにも相手の自分への悪意が強すぎたので自己都合だけで見捨てることができましたが、本来、のどかはこういうところで迷う子です。自己都合だけで全てを決断するには優しすぎるんです。

 「お願い、ラビリン。私は運動得意じゃないけど、お手当てだけは、プリキュアだけは、何があってもがんばるから! 苦しむ地球をラビリンと一緒に助けたい! これが今、私の一番やりたいことなの!」(第2話)

 強い決意で臨みました。
 誰かをやっつけたいのではなく、みんなを守りたくて。

 「あなたたち、なんでこんなひどいことするの!? 地球を病気にしてみんなを苦しめることだよ! 自分さえよければいいの!?」(第6話)

 ひどい悪意に晒されました。
 何度も。何度も。何度も。
 みんなに優しくしたいのに、どうしてもその“みんな”の輪に加わってくれない人がいる現実を突きつけられました。

 「・・・嫌。だって、ここを離れている間に取り返しがつかなくなっちゃったらどうするの? このステキな作品たちは? つくった人の――長良さんの思いは? 私は絶対守りたい! ここを離れたくない!」(第10話)

 選びたくない選択肢を押しつけられました。
 こちらも、何度も何度も。
 みんなに優しくしたいのに、それを思うようにさせてくれない残酷な現実を目のあたりにしました。

 「諦めなきゃいいんだよ。みんな、見捨てるつもりで花のエレメントさんを最後にしたわけじゃないでしょ。全部のエレメントさんを助けたい気持ちは変わらないでしょ。だったら、どんなに難しくてもお手当をつづける。それしかないんだよ」(第11話)

 それらに対して示すことができた解決方法はけっしてスマートなものではなく、はっきりいってしまえば結論を先送りにするだけのもの。突きつけられているのは思想的限界なのに、それをあえて近視眼的な努力と根性だけで場当たり的にいなしてきました。

 「お前、俺に言ったよな! 『自分さえよければいいのか』って! 結局お前も同じじゃん!!」(第41話)

 「これは面白い。ダルイゼンを見捨てながら『地球のみんな』とは。『全てを守る』と言うか。ずいぶんな思い上がりだ」(第42話)

 「絶望するようなことでもなかろう。人間とて我らと変わらぬ。いいや、地球上の生命は全て、万物が同じだ。いずれかの生命がはびこれば別の生命が絶滅へと追いやられる。この世界はそのようにできているのだ」(第44話)

 だからこそ、いよいよというときにはまっすぐな言葉で言い返すことができませんでした。

 だけど。

 「ごめんね、今すぐに君を治してあげることができなくて。でもぼくたちは諦めない。だからのどかちゃんにも諦めずに戦ってほしい」(第11話)

 それはそれで。
 その先送りは。いなしは。弱さは。ごまかしは。迷いをひた隠す苦しみ。恐怖に打ちのめされそうになる不安。けっしてまっすぐには向きあうことのできない現実との戦いかたは。

 「蜂須賀先生へ。怖いとき、心細いとき、辛いとき、苦しいとき。いつも先生が励ましてくれたから、一緒にいてくれたから、私はがんばることができました。先生。本当にありがとう。大好きです」(第33話)

 それでも、のどかが憧れていた気高さのひとつでした。

 「サルローさん。私たち、がんばります。じゃあどうしたらいいとか、今はまだわからないけど、それでも。私たちにもできる地球のお手当てを考えていきます」

 物語の終わり際になっても答えは出ません。出せません。
 のどかは優しい子だから。
 あらゆる相手に優しくしたいと思えてしまう子だから。
 誰のことも見捨てたくないと思ってしまう子だから。
 だから、答えは出ません。いつか出さなければいけない答えだったとしても、今はまだ、出しません。

 絶対に諦めたくないから。

 どんな現実を目の当たりにしようとも、どこまでも理想の自分のありかたを、最後まで諦めたくないから。

 「地球のお手当て、まだまだ続くもんね!」
 「生きているかぎり、戦いは終わらないってことね」
 「――うん。でも、そういうのも全部丸ごと、生きてくって感じ!」

 物語が終わっても、のどかは悩みつづけます。
 私たちの目に見えないところで、のどかはこれからも戦いつづけます。
 『ヒーリングっどプリキュア』におけるのどかの物語はここで一旦幕引きですが、のどか自身にとってののどかの物語はこれからもずっと、果てしなく続いていきます。

 だから、今ひとまず出すべきのどかの答えは、諦めないこと。

 花寺のどかとはそういうキャラクターでした。
 『ヒーリングっどプリキュア』は、個人的な理想を叶えるため超常的な力を得てまで努力しようとする女の子たちの物語。その大きな物語の根幹において、のどかは永遠に逃れられることのない問いかけに対してけっして諦めない気高さを示しました。

 「私は戦いつづける。今までと同じ。ううん、今まで以上に戦いつづける。勝つためじゃない、負けないために」(第44話)

 さて。あなたは何に負けないために戦いますか?

コメント

  1. ハリース・みぃ より:

    42話辺りから考えていました。なぜビョーゲンズは徹底的に否定される存在として描かれているのか。そもそもこの物語はなにを描こうとしていたのか。ビョーゲンズは一切の対話を拒絶し聞く耳などありませし、(ネオ)キングビョーゲンに至っては他者の存在を全く認めていませんでした。それに対してのどかは分け隔てなくやさしい子として描かれていました。そこで思い至ったのがこの物語がスタプリの後の物語であることでした。

    ハトプリからはじまった愛の物語がハピネスチャージで「愛(救済)の限界」を示したようにまほプリから前面に出はじめた多様性の物語はヒープリで「多様性の限界」を描こうとしているのではないか。そう考えました。

    「寛容のパラドックス」という言葉があります。寛容な人は不寛容な人をも受け入れて認めるべきか。というものです。多様性を認めるということは寛容であるとも言い換えられると思います。寛容のパラドックス自体は様々な論があるようですがビョーゲンズは徹頭徹尾、他者を一切認めない存在でした。どれほどやさしく寛容な人でも他者の存在を認めない絶対的な不寛容を受け入れることはできません。それが多様性(寛容)の限界。

    ここまでが第44話までの話。理想は現実の前に崩れ落ちました。しかし、それでいいのかもしれません。理想は理想だけで存在するのではなく現実を知り向き合い、戦うことで成されるものです。そもそもプリキュアシリーズは「キリヤを助けられなかった」ところから始まりました。なら、また始めればいい。

    プリキュアがなぜあきらめないのか。それは実現したい理想があるから。

    • 疲ぃ より:

       不寛容との戦いは『スタートゥインクルプリキュア』でも描かれました。ノットレイダーたちは過去にそれぞれ手ひどいトラウマを植えつけられ、そのせいで他人との対話を徹底して拒否する姿勢でいました。「恐怖は思考を停止する」です。
       逆をいうなら、理由があるってことは、どこかの誰かが自分は信頼できる人物だってことを証明したら、彼らの意識を変えられるってことになるんですよね。実際、ひかるたちもトゥインクルイマジネーション=みんなで協力しあってそれぞれの願いを実現する姿勢を示すことで、彼らからの理解と共感を取りつけることができました。
       『ヒーリングっどプリキュア』のビョーゲンズ相手にはそれができませんでした。彼らの不寛容に理由なんて描かれなかったからです。ビョーゲンズはその点でノットレイダーとは致命的に違っていました。

       ただ、私は思うんですよね。おっしゃるとおり、いくら寛容な人物であろうと相手が不寛容であれば、それだけで手を取りあうことができなくなります。それは事実です。
       ですが、もうひとつ思うんですよ。寛容な人物というのは、相手が不寛容であるだけで自分の寛容さを貫きとおすことができなくなる、そんな理不尽に納得できるのかと。
       私だったら相手のワガママのせいで一方的に自分が諦めなきゃいけなくなるのは嫌です。たとえそれが自分のワガママであろうと。どうにもならないにしても、せめてお互い納得できるくらいには相手の理由を聞いておきたいし、こっちの事情も聞いてほしいと思います。もちろんこれは理想論ではありますが、諦めるしかないかそうでもないのかの可能性の有無、子どもたちに無邪気な希望を信じさせていいのかどうかという問題でもあります。

       中盤までの『ヒーリングっどプリキュア』にはこの問題に取り組もうとする視点を感じたんですよね。
       第15話では一旦ケンカした友達ともまたわかりあえる道筋を示しましたし、第16話では長年仲違いしていた老人たちの絆を取り戻しました。第17話では不機嫌な理由を話してくれないエミリーちゃんと腰を据えて話しました。第18話では思いが届く見込みの薄い初恋とわかっていて、それでも誠心誠意思いを伝えようとしました。生まれたばかりで使命しか知らなかったアスミを人間らしく成長させたのもこの文脈です。
       そのうえで、私たちがビョーゲンズの事情を知ることができなかった理由も序盤から示されていました。のどかとダルイゼンの確執。のどかの個人的な怒りと恐怖。まず、のどか自身にビョーゲンズへ寛容を示せない問題を抱えていました。だから彼らから言葉を引き出す機会すら得られずにいたわけです。だったらこれさえ解消できれば可能性は生まれる、と。そう期待しました。

       これだけの積み重ねがあったうえで、それら全部を無視していきなり“寛容な人物も相手が不寛容ならどうしようもない”という結論を出してきたのには正直ガッカリしましたね。じゃあどうして中盤にああいう物語を挿話して、アスミをああいうキャラクターにしたのかと。物語全体の辻褄が合ってないじゃないかと。

       まあ、そういうわけで最後にのどかの口から諦めない思いを聞くことができたのはすごく嬉しかったです。彼女も現状が最善だと思っていないのなら、ここからまた戦いに取り組んでいこうという意欲があるのなら、答えは保留にしても構わないと。
       もしかしたらその答えは未来のプリキュアが示してくれるかもしれませんし、私や、子どもたち自身が自分なりに答えを出していくこともできるかもしれません。「諦めない」という言葉には、そういう物語の枠を越えた広がりがあると思います。

      • ハリース・みぃ より:

        対話する余地があったのかはもう今となってはわからないですが、自分には彼らが生きようとはしていても「助かろうとしている」ようには見えなかったですね。ヒープリは患者の助かろうとする意思も大事にしていましたが、ビョーゲンズにはそれが感じられなかったですね。助けるためには両方から手を伸ばす必要がありますが、口では「助けて」と言いながら手を伸ばしてない。本気で助かろうとしているとは思えない。これでは助けられない。ビョーゲンズの末路は自滅という他ないですね。

        • 疲ぃ より:

           ビョーゲンズの自滅だというのはおっしゃるとおり。誰が悪いのかという論点で裁量するのであればまず自己責任を問うべきです。
           ただ、患者の助かろうとする意志のお話となると第11話が代表的でしたが、あのエピソードは患者の助かろうとする意志が大切だというお話であると同時に、お医者さんがその意志を支え育んでいるというお話でもありました。のどかは蜂須賀先生の「諦めない」という言葉に救われ、花のエレメントさんは本人が生きることを諦めたところをプリキュアや他のエレメントさんたちの支援によって救われました。
           『ドキドキ!プリキュア』以降、誰かを助けるためには双方が手を伸ばしあうことが必要だ、というお話はプリキュアシリーズにおいてたびたび描かれてきたテーマです。では、どちらが先に手を伸ばすのか? 救いたい思いと救われたい思いには順序があるものなのか? もし患者が助けを求めてくれなかったら医者にできることは何もないのか? 私が興味を向けているのはそういう部分です。上で「まず自己責任を問うべき」とは書きましたが、一方で救われる側が資格を満たさないがために救う側の思いがないがしろにされてしまうのは仕方ないことなのか、それでは双方向的な関係とは呼べないのではないか、と。そう考えるんです。

           「ヒーローだから」「お人好しだから」という理由づけで救う側から手を伸ばすこともひとつの答えとしてありますが、これには自己犠牲的だという批判がつきまといます。私も好ましく思いません。第42話でラビリンが批判したのもこういうありかたでした。
           ですが、のどかなら「それが自分の矜持だから」というまた別の理由づけによって救う側から手を差しのべることも可能だと思ったんですよね。当初から優しくしたい対象が無謀なほどに広く、実際『ミラクルリープ』では一切同情する余地がなかったリフレインすらも「明日へ行こう。ミラクルンも、――あなたも」と言葉をかけて救って(心の病を寛解させて)みせた子ですし。
           もっとも、本編ののどかはダルイゼンへの悪感情によるものなのかビョーゲンズだけは最後まで優しさの対象外になっていたので、リフレインに対するときとは違ってそもそもこの視点が俎上に上がること自体なかったわけですが。

  2. 東堂伊豆守 より:

    ヒーリングアニマルの存在を人類に秘匿しておかなければならない理由、それは「ヒーリングアニマルが人類を浄化する(=人類の敵に回る)可能性があるから」だったことが判明した訳ですが……。
    果たして、ヒーリングアニマルを産み出した「地球さん」は本当に、ヒーリングアニマルに人類を“処刑”する役割を与えるつもりだったんでしょうか?
    もし地球が本気でヒーリングアニマルにそのような役割を求めていたのなら、「見習いアニマルは“心の肉球がキュンときた人間”とコンビを組まないとお手当てが出来ない」などという制限を課すことはなかったんじゃないかと思うんですよね。
    そんな制限を課すことで見習いアニマルが人間に情をかけてしまうようになったら“処刑人”の役割を果たすことが難しくなってしまうだけでしょうし、さらに機密保持の点からも「未熟な見習い達に人間界でパートナー探しをさせる」「パートナー経由で機密が洩れるリスクを増やす」のは明らかに不合理と言える訳で。
    むしろ地球は「ヒーリングアニマルと人類が協力してお手当てに従事する」という形を想定していて、その為に「見習いアニマルが人間とのパートナーシップを学ぶカリキュラムを設定した」のではないかと。
    ところが、テアティーヌは地球の意向に反し「お手当てはヒーリングアニマル単独で行うのを大原則とし、見習いアニマルによるお手当ては非常時の例外措置とする」「ヒーリングアニマルの存在は人類に秘密とする」ことでお手当てに人類が参加する途を潰してしまった……おかげでラビリン達見習いアニマルと花寺のどか達プリキュアは、すこやか市民の支援も得られず、孤立無援でお手当てを遂行しなければならなくなる。
    もし、のどか達が当初からすこやか市民の支援を受けられたならば、彼女達の肉体的・精神的負担は格段に軽減出来ただろうし、ビョーゲンズ幹部への対応だってもっとマシなものに出来たかもしれない。……いや、そもそも「ヒーリングガーデン壊滅」という切迫した事態に追い込まれる前に、ヒーリングガーデンと人類の協同でキングビョーゲンを制圧出来ていたかもしれない訳で。
    ただ……テアティーヌが徹底した秘密主義・孤立主義に走ったことにも何らかの止むに止まれぬ事情があったのかもしれずーーーーーーたとえば「テアティーヌとパートナー・フウが村人達からいわれなき迫害を受けた」ためにアニマルとプリキュアの安全を図るべく機密保持を決めた、みたいな経緯があったのかもしれない。つまり、地球が想定したシナリオは「現場の厳しい実情を知らぬ者の空理空論」と、テアティーヌは見なしているのかも。
    だいたい、テアティーヌが本当に「人間」を信頼しているのか、かなり疑わしいところがあって、どうも彼女が信頼しているのは「心の肉球がキュンときた」人間=プリキュア有資格者だけっぽいんですよね……。「とりあえず当面はプリキュアの顔を立てて“人類の処刑”は執行猶予にしてあげます」という雰囲気が強くて。
    かつて、沢泉ちゆ嬢はこう述べました。「地球とテアティーヌさんとの間に行き違いがあったのよ」と……。もしかすると「ヒーリングっどプリキュア」とは、“人類性善説に立つ理想主義者”地球と“人類性悪説に立つ現実主義者”テアティーヌの行き違いに、のどか達もラビリン達も、人類もビョーゲンズも振り回された物語……だったのかもしれません。

    • 疲ぃ より:

       地球とテアティーヌ様の意思疎通ができていないということは、ヒーリングアニマルは頼まれたわけでもないのに自発的に地球のお手当てをしているということになりますね。アスミのように最初から使命を持って生まれてくるということでしょう。人間の体でいうところの白血球みたいな。
       それでいてアスミを生んだように、必要なら地球が直接力を下すこともできなくはない。なのにやったことといえばテアティーヌ様の願いに応じてラテを救ったことくらいで、一番肝心なはずの自分自身がいくら蝕まれようとノータッチ。100%ヒーリングアニマルに丸投げ。

       ・・・ヒーリングアニマルの使命感もどこか誤解があるのでは? アスミの使命感がズレていたのと同じように。
       地球さん、ぶっちゃけ自分がビョーゲンズに蝕まれようと構わないと思ってません? ビョーゲンズが地球を征服してもそれはそれでいいと思ってません? ただの自然淘汰の一環だと思ってません?
       ということは、ヒーリングアニマルが抱いている使命感も盛大な勘違いで、実は地球にとって、人間や動植物、ビョーゲンズたちと同価値の、数ある種族のひとつでしかなかったりしません?

       ――私がそっち方面に首突っ込んで想像してみるならこんな感じになりますね。
       ビョーゲンズを危険視するのも人間を危険視するのもヒーリングアニマルたちが勝手にすること。彼らは地球の代弁者みたいな高尚な存在じゃない。人間と別レイヤーで万物の霊長を自負しているだけ。みたいな。

       ビョーゲンズを殲滅したのはのどかたちの意志です。地球の意志でも、ましてヒーリングアニマルの使命なんぞによるものでもありません。
       だったら次も同じこと。ヒーリングアニマルが人間に戦争をふっかけてくるなら私たちの意志に依って戦うだけです。彼らに大義は認めません。彼らのジハード気取りに正統性なんて考慮してやる必要はありません。
       もし穏便な対話から始めるんでしたら喜んで同じテーブルに着きましょう。結局のところ、のどかがビョーゲンズを救おうと思えなかったのは、そもそもお互いに対話する気が無かったせいなんですから。

  3. ピンク より:

    メインテーマに掲げてる『癒し』って、幸福感を与えるというより、本当に悪いところを治療するという意味か!(今更)

    ビョーゲンズの皆様は最後の最後まで昔話的な反面教師役を一手に引き受けたといった感じでしょうか。
    振り返ってみると話の構図自体は大体『さるかに合戦』のそれなんですよね。
    さるがビョーゲンズ、かにがエレメントさん、ハチとか臼とかがプリキュア。私個人はそう捉えました。

    • 疲ぃ より:

       最序盤は入院中ののどかの心の支えとして両親の存在も大きく描かれていたんですが、第11話以降お医者さん(蜂須賀先生)の存在感がどんどん増していったので、あのあたりが転換点だったでしょうね。>『癒し』って、幸福感を与えるというより、本当に悪いところを治療するという意味か!
       蜂須賀先生のほうも、本当は物理的な治療以上に諦めないことで心の支えになってくれたって要素のほうが大きいはずなんですけどね。ただ、結果的にその後ののどかが苛烈なほど地球のお手当てに身を捧げる遠因にもなっちゃっているので、ハタから見ていると全然癒やし感がないっていう。

       癒やしっていうと、自分が誰かを癒やすとか、誰かが自分を癒やしてくれるとか、必然的に自他の関係性のなかで描かれるものだと思うんですよ。ですが『ヒーリングっどプリキュア』は最終的に「諦めない」「戦いつづける」っていう個人としての意志の問題に着地したので、そこらへんも“癒やし”の要素とは噛み合わせが悪かったかもしれませんね。
       その意味でも、プリキュアの働きかけでビョーゲンズを対話可能な他者に変えることができていれば、物語全体の印象もまただいぶ違っていたと思います。その場合は「なぜ助けるべきではない相手をあえて助けるのか?」って問いが生まれるので、ビョーゲンズの物語上の役割自体が大きく変わるでしょうね。そちらのパターンの物語もいつか見てみたいものです。

  4. 東堂伊豆守 より:

    「スタートゥインクルプリキュア」の敵組織・ノットレイダーの元構成員達に新たな衣食住を提供したのは、宇宙星空連合という“政府機関”や惑星レインボーという“コミュニティ”でした。
    「HUGっと!プリキュア」の敵組織・クライアス社を退職した悪玉トリオは新会社MAAを起業。つまり、“社会・経済システムの一員”として受け入れられた、という形になっていました。
    また、「キラキラプリキュアアラモード」で、ノワールのしもべだったビブリーとジュリオ/ピカリオを受け入れたのは“パティスリー経営者”キラ星シエルであって、“プリキュア”キュアパルフェではなかった、んですよね。
    結局、近年のプリキュア作品におけるいわゆる“救済路線”を可能にしたのは、作中における社会的な地位や権限のある“大人”の協力を取りつけることが出来たからーーーーーーであって、プリキュア達の孤軍奮闘だけでは元敵組織構成員の救済は不可能だった、と言える訳です。
    それ故ーーーーーー本作「ヒーリングっどプリキュア」で、「すこやか市民は“知らんぷり”をきめこむ」「ヒーリングガーデン女王・テアティーヌは秘密主義を貫き、人類に協力を求めることを許さない(そもそも潜在的には人類を敵視している)」という悪条件の中、孤立無援の戦いを強いられたキュアグレース達に、ビョーゲンズ元構成員の救済まで期待することなど出来るはずもなかったんですよ、ねぇ……。

    • 疲ぃ より:

       『Go!プリンセスプリキュア』や『フレッシュプリキュア』では事情を聞かずに身元を引き受けてくれる大人もいましたし、それをいったらアスミも似たような状況だったわけで、そういう方針の物語となれば誰かしら助けてくれたとは思いますけどね。そもそものどかが憧れたもの自体が大人たちの優しさだったわけですし。
       ただ、『ヒーリングっどプリキュア』において、救済路線という意味ではビョーゲンズよりまず先に救わなければならない子がいました。彼女を差し置いてただの悪党を救済するわけにはいかなかったでしょう。ラビリンの一貫した態度を見ても、そのあたりは明確に意識されたうえで描かれた物語だったように見えました。
       その意味でも、ビョーゲンズは救済路線で救うことができず、また、主人公がのどかであった時点で彼女以外の誰も救いの手を差しのべることができない存在だったと思います。

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