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フリップフラッパーズ 夢十夜っぽいところについてあれこれ

この記事は約15分で読めます。

 夢十夜がモチーフだー、とかいいつつどこがどう似ているのか書いてこなかったので、主観と偏見全開で説明していきます。
 とはいえ夢十夜は論者によって解釈が大きく変わる作品です。私の読解は必ずしも一般的ではありません。きわめて短く、読みやすい連作短編ですので、ぜひ一読して、あなたもあなたなりの読解を持つことをオススメします。イマドキは無料でも読めるわけですしね。

 更新終了。

第1話 – 第七夜

 主人公はどこへ向かっているのかわからない船に乗っている。船にはたくさんの乗員乗客が乗っているが、誰ひとりとして彼と話の合う者はいない。心細く、悲しくて、彼はついに入水自殺を選ぶ。ところが船から飛び降りた瞬間に心から入水を後悔してしまう。

 「いつ陸へ上がれる事か分らない。そうしてどこへ行くのだか知れない。ただ黒い煙を吐いて波を切って行く事だけはたしかである。その波はすこぶる広いものであった。際限もなく蒼く見える。時には紫にもなった。ただ船の動く周囲だけはいつでも真白に泡を吹いていた」
 第七夜では居心地の悪い船を「黒い煙を吐いて」と表現する一方で、海の方は「波はすこぶる広い」「際限もなく蒼く」「時には紫」「真白に泡を吹いていた」と、色鮮やかなものとして描いています。後に入水自殺を選ぶ主人公の心象表現の一環です。
 フリップフラッパーズはこれに対応して、現実に鬱屈していたココナがピュアイリュージョンにやってきてはじめて笑うシーンが描かれていますね。ピュアイリュージョンにやってきたばかりのうちは、そこはココナにとって現実よりも楽しい場所でした。
 逆をいうなら現実は船に対応しているわけですね。
 海といえばパピカがブーちゃんと新雪の上を駆けまわるシーン、あそこも潜ったり泳いだり、まるで海水浴でもしているかのような描写でしたね。

 「自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。しかし捕まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。いくら足を縮めても近づいて来る。水の色は黒かった」
 ところが、第七夜では入水自殺を図ったとき、海の「水の色は黒かった」と描かれます。単に時刻が晩だったこともありますが、同時に主人公の後悔の表れでもあります。
 フリップフラッパーズの方で夜が描かれるのは森を探検するあたりから。ココナは先ほどまでとは打って変わって楽しさより不安な気持ちが強くなり、ヘンゼルとグレーテルを模したパン屑の道をつくります。第七夜の海が色鮮やかだったり黒かったりするのと同じように、ピュアイリュージョンも楽しかったり恐かったり、容易にその印象を変えるわけです。
 もっと直接的に「黒い海」が描かれるのはさらに後、樹氷の怪物たちが次々と入水していくシーンです。眼鏡とパピカもさらわれ、ココナにとってピュアイリュージョンの恐ろしさはここで最高潮。入水した者こそココナではありませんが、彼女は第七夜の主人公と同様に心からの後悔をします。

 ただし、バッドエンド(っぽいもの)で結びとなる夢十夜とは異なり、フリップフラッパーズはココナたちが不幸せを脱却する展開が入ります。その原動力が願いを叶える「欠片」であり、ココナたちの強い思いであり、変身であるわけですが・・・そのあたりは各話感想の方で語るべき内容ですね。
 第1話では「黒い海」と後悔から脱却するために変身しました。ついでに眼鏡が割れました。

第2話 – 第四夜

 酒を飲んでいる爺さんと神さん(※原文ママ)が哲学めいた会話をしている。やがて爺さんは表に出て、手ぬぐいを蛇に変えると言って子どもたちの前で笛を吹く。しかし手ぬぐいは蛇に変わらない。爺さんは蛇に変わると唄いながら河に潜っていき、そのまま姿を現さない。

 「御爺さんの家はどこかね」「臍の奥だよ」「どこへ行くかね」「あっちへ行くよ」 そして向かった先が柳の向こうにある河ですから、爺さんと神さんの哲学めいた会話は生まれてから死ぬまでのことを言っています。・・・などと大学の講義で発言したら、教授にもっと一般的な解釈を覚えろと言われました。けれどそっちはあんまり踏み込んでいない面白くない解釈だったので聞き流しました。懐かしい。
 第2話のピュアイリュージョンはココナとパピカがウサギとして新しく生まれるところから始まりました。ついでにユクスキュルも偉丈夫に転生しました。それからココナとユクスキュルは溶鉱炉に沈められました。やはり生まれてから死ぬまでを描いているわけです。・・・教授に批判された解釈を持ち出すのもなんですけどね。
 ここでバッドエンドを覆すのはやはりパピカの願いと欠片の力。パピカたちは溶鉱炉に沈む死の運命を覆し、産道にも似た細道を駆け抜けて元の世界へと再生します。

 第四夜には「蛇」というモチーフが登場します。
 「『見ておろう、見ておろう、好いか』と云いながら爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる廻り出した。自分は手拭ばかり見ていた。けれども手拭はいっこう動かなかった」 蛇に見立てた手ぬぐいの周りを爺さんはグルグル 歩き回ります。思えばピュアイリュージョンがサイクロン掃除機を模していたのは、この描写からの連想だったのかもしれませんね。
 蛇は脱皮をするたびに真新しい肌を露出することから、洋の東西を問わず再生の象徴として扱われています。死の運命を覆すことができるのは新たな生だけ。しかし爺さんは蛇を生みだすことができませんでした。だから三途の川に飲まれてしまいます。
 ・・・あるいは人知れず蛇を生みだせたからこそ、三途の川を渡りきることなく姿を消した(=転生した)という解釈もできるかもしれませんけどね。こちらは当時友人が私の説明を聞いてさらに発展させてくれた解釈です。懐かしい。こっちなら第四夜の方もハッピーエンドですね。
 なんにせよ、パピカたちが溶鉱炉を脱出したあとで細道も抜ける必要があったのはそういうわけです。

第3話 – 第五夜

 神代の時代、戦争で捕虜となった男は処刑される前に一目恋人に会いたいと願い出た。敵の大将は日の出までは待つとした。女は早馬を駆って男のもとへと急ぐが、途中で一番鶏の声を聞いて驚き、崖から落ちてしまう。しかしその鶏の声は天探女の鳴き真似だった。

 ウェルウィッチアが天探女役ですね。天探女と書いてアマノジャクと読みます。
 ウェルウィッチアはパピカと合流したいココナにちょっかいを出して、その願いを妨害します。ココナに見せたのは確かに当人の本心だったのかもしれませんが、パピカにはココナのニセモノに見せかけたホンモノ(ややこしい)を突きつけているあたり、やっぱり彼女のしていることって天探女の所業なんですよね。
 第五夜はふたりの逢瀬が天探女に阻まれる物語なので、それを覆すための方法は明らか。天探女=ウェルウィッチアをやっつけてしまえばよろしい。ふたりの願いに欠片が反応して、プリキュア展開に持ち込みます。

 ちなみにウェルウィッチアというのは砂漠に自生する実在の植物なんだそうです。葉っぱモジャモジャに見えて実はたった2枚しかない葉っぱが裂けているだけだったり、サボテンの仲間っぽく見えて実はそうでもないかもしれないって説があったり、これがまたなかなかのアマノジャクっぷり。

 昭和ネタで塗り固めていたのは第五夜が神代の時代の話だからですかね? コンクリート・レボルティオがそうだったように、いつの間にか昭和もオマージュ元にされるくらいの古典になってしまいました。
 まあ9割くらいはスタッフの悪ノリしたい気持ちありきであんなステキな絵面になっちゃったんでしょうけれど。

第4話

 どうやらピュアイリュージョンに行かない回は夢十夜をモチーフにしないようです。それっぽい要素が見当たりません。
 ちなみに毎回小っ恥ずかしいサブタイトルをつけているのはgoogle検索で差別化を図るためと、単に私の趣味です。

第5話 – 第三夜

 男が盲目の我が子を背負って夜闇を歩いている。子はいけ好かない口調で、しかも盲目のくせに気味が悪いほど周りのことを言い当てる。やがて雨降る森の闇の中へとたどり着いた頃、子は百年前この場所でお前に殺されたんだと話しだす。男はその記憶を思い出す。

 ホラーっぽい話といえばこの第三夜。女学生たちの顔が潰れているのは盲目の子からの連想。ココナとパピカが雨の中で死んでしまうのは盲目の子が語る百年前の出来事から。時間がループするのは男と子の百年前から続く因縁から。
 誰が男で誰が子なのかはっきりしない、というか思いっきりシャッフルされてしまっているピュアイリュージョンですが、とにかくココナたちを妨害している敵は「時間」でした。第三夜も盲目の子が不気味ではあるものの、物語の核となるのは子の不気味さではなく百年前の罪です。
 だからココナたちが乗り越えなければいけないのは不気味な女学生たちではなく、12時という時間。ココナの変身が使われるのは12時の鐘を鳴らすためでなくてはいけません。時間が私を過去の罪へと突き落とそうとするなら、私は未来へと進むことで過去を振りきってしまおう、といった趣でしょうか。

 時計塔に沈む運命をあっさり受け入れてしまうヤヤカとそれを振りきろうとするパピカが対照的ですね。そしてココナはといえば、一度落ちてから変身して、それでふたりが届かなかった高みへと手を届かせます。
 フリップフラッパーズのテーマの取り方としてはたぶんココナのやり方が正解なんでしょうね。こっちの記事は作品テーマについて語るためのものではないので、そのあたりはたぶん後々にでも各話感想記事の方で。

第6話 – 第九夜

 戦争に赴いた夫のため、妻は夜が来るたび八幡神社でお百度参りをする。子どもがぐずるため容易にはいかないが、それでも妻は夫の無事を祈って一心不乱に繰り返す。しかし夫は妻のあずかり知らぬところでとっくの昔に殺されていたのだった。

 先に関守石と鳥居で神社のイメージを想起させることで、ココナたちが3度リトライを繰り返しているのがお百度参りを模しているんだと気付かせる構造ですね。出征した夫の立ち位置に収まるのは特定の人物ではなくて、美術部の先輩とお婆ちゃんの絆そのものでしょうか。
 第九夜の夫がとっくの昔に殺されていたように、先輩とお婆ちゃんの絆もココナたちがそれを知る以前からすでに断絶していました。けれどココナたちの無垢な思いと諦めないひたむきさによってお百度参りは成就され、時間と理を超えて絆が回復されます。

 大筋においては妻のお百度参りをココナたちが代行する流れです。代行というか、ココナにとっては他人事じゃない気持ちがあったわけですけどね。
 それでいて同時に「御父様は」と連日問う子どもの役どころに家族不和の問題を抱えて寂しがっているイロちゃんを、「今に」とだけ答える妻の役どころにイロちゃんを抱きしめて幸せを祈るお婆ちゃんを、それぞれ重ねることができるのも面白いところ。

第7話 – 第八夜

 主人公が床屋で髪を刈ってもらっていると、鏡の向こうに往来の営みが見える。いくつか興味を引く光景が見えるものの、鏡越しに見られる範囲は限られていて、どうにももどかしい。鏡越しに見る人々の営みはどんどん奇妙さを増していく。ところが散髪を終えて主人公が振り返ると、そこに奇妙なものはいなかった。

 たびたび挿入される、鏡越しにココナたちを映す構図が印象的でしたね。第八夜において札束を数える奇妙な女が実際にはいなかったように、鏡像には現実とはどこか違うかもしれない、妖しい魅力があると思います。
 七変化(正しくは9通り)するパピカが往来の営みに相当するのでしょうか。中途半端なタイミングで姿を消えてしまうもどかしさまで含めて。

 第八夜の主人公が感じるもどかしさは目の前の世界から隔絶されていることへのもどかしさです。鏡の大きさに切り取られた範囲しか見ることができず、唯一近くにいる床屋も自分の問いかけにマトモに取り合わない。
 フリップフラッパーズにおいてはむしろ前回ココナは他人を変えてしまう経験をしたばかりで、状況としては真逆です。あえて真逆の状況に放り込むことで「他人を変えてしまう」ことについてココナの内省を促す物語に仕立ててみせたわけですね。このアニメの脚本はつくづく巧みです。

 第八夜とココナとではそもそも前提が真逆なので、これまでのような夢十夜に則したバッドエンドの覆しは今回ありません。爽快感ある問題解決の流れがない分絵面は地味ですが、代わりに私たち視聴者に対して強烈に問いかけてくる部分があって、絵がどうこうとか言っていられない視聴体験だったように思います。

第8話 – 第六夜

 現代の寺で鎌倉時代の仏師・運慶が仁王像を彫っている。迷いのないノミ使いに感心していると、見物客のひとりが「仁王ははじめから木の中に埋まっている。運慶はそれを彫り出しているだけだ」という。しかし主人公が試してみたところ、いくら彫っても仁王は見つからない。だから運慶が現代まで生きているのだなと主人公は納得する。

 何を置いても巨大ロボットが仁王要素ですね。七支刀と宝鏡を携えているあたり、仏というよりも神様っぽい雰囲気ですけれど。とするとオッちゃんは見物客の役どころでしょうか。
 第8話の勘所はココナたちが仁王を見出すところにあります。ロボットはただ乗り回すだけでは仁王になりません。インピーダンスを解き放ってはじめて合体するし、力も発揮します。

 第六夜の主人公には見つけられなかった仁王を、鎌倉時代の運慶は彫り出すことができます。ココナは彫り出すことができます。
 ただし、この文脈においてココナの役どころは運慶ではありません。主人公です。第六夜の主人公は現代の材木に仁王がいないことを悟り、それによって運慶の存在理由を見出しますが、ココナはそうではありません。彼女はむしろ目の前にあるガラクタのような街に価値を見出す存在です。オッちゃんにとっては大切な街なんだと。キレイだと。自分の手で証明します。

 目の前のガラクタにもちゃんと仁王が埋まっていました。ココナがそれを彫り出しました。要するにガラクタに価値を見出しました。
 現代に仁王はいないという第六夜の物語が覆され、その結果として、ガラクタを積み上げるヒダカもまた一定の敬意を払われるようになります。ココナのあずかり知らぬところで。

第9話 – 第二夜

 侍は寺の一室で座禅を組む。和尚曰く、侍なら悟りを得られるはず。そうでないなら侍ではない、人間のクズだと。侍は己に誓う。次の刻限までに悟りを得て、あの憎たらしい和尚の首を斬る。そうでなければ自害すると。しかしいっこうに悟る気配がない。腹立たしさのあまり雑念ばかりがこみ上げてくる。それらに耐えているうちに、やがて目の前の景色がぐちゃぐちゃになってくる。時計が刻限を告げた。侍は傍に置いていた短刀に手を伸ばす。

 「趙州曰く無と」 禅宗において悟りとは無であるといいます。だから今回のピュアイリュージョンは何もない真っ白な空間になりました。
 今回の欠片は今までとちょっと違う、きれいなかたちをしていますね。これはおそらく丁子、つまりクローブの花を模しているのでしょう。第二夜には「灯心を掻き立てたとき、花のような丁子がぱたりと朱塗の台に落ちた」とあります。もっとも、この場合の丁子とは丁子頭、つまりロウソクの燃えかすのことなんですけどね。

 悩めるココナは無とは別の空間に隔離されます。一見して第二夜を思わせる和室ですが、絨毯に白い机、窓のつくりは西洋風です。西洋要素を入れた意図は正直わかりません。私の知識不足です。
 ただ、赤くて妙にモコモコしている絨毯だけはそれっぽい引用ができなくもありません。第二夜で一度侍が朱鞘の短刀を抜いたとき、このような描写がされています。「身体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする」
 天井の襖(?)絵は金雲の切れ間から覗く夜闇、四方の襖絵は梅の花です。第二夜で「襖の画は蕪村の筆である」と描写されている繋がりで、与謝蕪村の辞世の句からイメージを持ってきているのではないでしょうか。「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」 夜明けの陽光に照らされて白く輝きはじめる梅の花を詠った美しい一句ですね。

 ココナは悟りを求めているわけではありませんが、代わりに「居場所」を求めて悩んでいました。感想の方で書いたとおり、その悩みが解消されたとはいいがたいですが、少なくとも一旦は小部屋から出られました。
 第二夜の侍が悟りを得たかどうかははっきり描写されていませんが、短刀に手を伸ばしているあたり、とても悟った人間の行動とは思えないんですよね・・・。今回も一応は夢十夜のバッドエンドを覆したかたちといえるでしょうか。

第10話

 現実の中で進行する物語なので、第4話と同じく今回も夢十夜と関係ありません。いっそ全部が夢だったらいいのに、とココナは考えるかもしれませんが。けれど、現実です。

第11話

 今回も舞台は現実です。選択する人が夢を選んだから現実は夢に侵食されます。けれどそれは決断する子どもたちが決めたことではありません。

第12話 – 第十夜

 庄太郎という名の洒落者が、ある日女についていったきり7日も帰って来なかった。7日目に帰ってきて言うことには、電車に乗って野原に連れて行かれた。そこには底の見えない崖があり、飛び込んでみろと女が言った。拒否するとどこからともなく何万匹という数の豚が列を成して彼に近づいてきた。彼はステッキを使って7日間打ち払い続けたがついに力尽き、豚に舐められて崖の下へと落ちていった。
 そういう話を庄太郎から聞いたと健さんが教えてくれた。庄太郎は助からないだろう。彼が被っていたパナマ帽は健さんが貰うだろう。

 よくわからないあらすじになってしまいましたが、実際時系列が矛盾していたり最後に伝聞だと明かされたりと、そもそもがよくわからない一篇です。このあたりの描写の混乱はミミがパピカの記憶を改竄するくだりに反映されているのでしょうか。第11話のソルトがミミから涙の欠片を預かったシーンもそれっぽいですけれど。何にせよよくわかりません。
 一方で豚の代わりにボスラッシュがあったのはわかりやすい対応ですね。

 フリップフラッパーズは途中で一度脚本の変更があり、第8話は元々ゾンビネタだったそうです。本来はこちらが第十夜になる予定だったのかもしれませんね。このことが念頭にあったので感想を書いた時はタイトルに「第十夜」とつけることをためらいました。

第13話 – 第一夜

 女が死ぬと言った。死ぬが、墓の前で100年待ってくれればまた会いに来ますと言った。そうして女は死んだ。自分は彼女の言葉を信じて墓をつくり、墓の前に座ってじっと待った。数えきれないほど何度も頭上を太陽が通り過ぎ、自分が女の言葉を疑いはじめた頃、女の墓から白い百合の花が茎を伸ばす。空の星から雫が一滴落ちてきて、それが百合の花に当たった拍子に自分は花とキスをする。そうして自分は100年が経ったことを悟る。

 ココナの夢の小舟にユリの形の明かりがついていて、謎の女が「お帰り」と意味深なことを言うものだから、初めはこれが第一夜なのかなと思っていました。第一夜は白と赤をやたらと強調して描いていますから、色彩的にもミミはぴったり。
 色調が暗くて見えにくいですが、パピカが閉じ込められていた牢の壁にはびっしりと何かを数えた跡があります。パピカも何度か老若を繰り返していたようで、これが100年待った話に符合しますね。最終的に前後不覚に陥ってしまったのも同じ。
 ミミとソルトの間にも似たような関係性があり、総じてこの物語は再開を待ち焦がれる人々の物語であったともいえるかもしれません。長い時間の果てに彼女たちは絆を取り戻し、物語はついにハッピーエンドへと到達します。

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